熄まない狂沁み⑤
そしてその失意は激昂を呼び寄せ、憤怒に塗れ穢れた霊銀の奔流が老狂人の罅割れた身体から途端に溢れ出した。
酷い汚染濃度だ――もしもレヲンが未だシシであったなら、この時こそ異獣化の訪れるべき時だったのかもしれない。
しかしシシはすでにレヲンだ。異獣化という現象は、すでに霊銀に汚染され変異してしまった個体にはもう及ばない。
異獣も、異骸も。
変わり果ててしまった者にさらなる零落は訪れはしないのだ。
「待ってよ、クルードさん!」
レヲンの必死の叫びを聞く耳はもはや老狂人には無かった。それを、そしてその身体から溢れ出る夥しい死の兆候を嗅ぎ取り察知したからこそ、腰を落ち着けていた椅子から跳び上がった冥はレヲンの手を取って上階へと駆け込む。
「冥!」
「無理。あれはもう、人の話とか聞ける余裕なんて無い」
「でも!」
レヲンの逡巡――それは、彼がかつてノヱルら“神殺し”を創生した張本人だったからこそ。
決裂ではなく、死別でもなく、言葉で互いに理解し合いたいという想いから来るものだった。
たとえ異骸へと成り下がってしまっていたとしても。
そのせいで狂い果ててしまっていたとしても。
心の何処かで、絶対に解り合える筈だという想いがレヲンにはあった。
それは“甘さ”だったのかもしれないが――それでもその“甘さ”を、或いは“弱さ”と呼ぶべきかもしれない揺らぎを、レヲンは棄ててしまいたく無かったのだ。
あの天の。
あの山犬の。
そして――あのノヱルの創り手なのだ。
あんな風に、妄言と狂想の果てに死を撒き散らすような存在である筈が無い――という、蜂蜜のような幻想。
そして冥とレヲンとが研究施設の上階の居住部から表へと出て一頻り走った後。
クルードは空間魔術にて建物の上空へと転移しその場に静止すると、今度は異なる空間魔術を用いて冥とレヲンの座標を割り出した。
「――来るっ!」
いち早く察知したのは冥だ。死の兆候を嗅ぎ取ることの出来る彼女の察知能力は、非常に限定的ではあるが山犬の感知能力とほぼ同等程度の精度を持つ。
「……“獅子の牙”!」
その声に呼応して反射的に得物を召喚し握ったレヲンは、柄を引き延ばして剣身を展開させると矢継ぎ早に障壁魔術を張り巡らせた。
瞬間、目の前の空間が爆ぜ、不可視の膜の向こう側で土砂が巻き上がり、土煙が景色を閉ざす。
「教えろ、レヲンとやら。どうしてワタシの神殺したちは命題を果たしていない? よもや貴様がかどわかしたのでは無いだろうな!」
空間を跳躍して現れた老狂人は火を見るよりも明らかにキレまくっている。問題なのは、その激昂は彼の思い込みであり、妄執であり、狂想であること。
冥の言う通り、もはや会話の通じる相手では無いことは明白だ。しかしそれでもレヲンは獅子の牙を三日月へと換装することは避けたいと、未だ甘い幻想を捨てきれずにいる。
「教える。だから、落ち着いて話を聞いて下さいっ!」
このように、言葉を交わしたいのだ。
それを見兼ねて冥は跳び出し、クルードとレヲンとの間に割り込んだ。剰え両手を横に広げて、自らの細い躯体を壁とするように、彼女を庇う姿勢を見せた。
それもまた、クルードに更なる憤怒を湧き起こす愚行に過ぎなかった。
「冥……邪魔立てをするか」
「話を聞いて、って、レヲンは言ってます」
「冥……」
「聴けぬ!」
怒号とともに魔術を解き放つクルード。教えろと言った後に聴けぬと叫ぶ支離滅裂さは、しかし繰り出す魔術には何の影響も与えない――いや、寧ろその威力と規模とを増している。
大きく翳した手を振り下ろすと、その五指の軌跡が空間を裂いて飛来し、しかしそれらはそれぞれ進む方向を変え、レヲンの張った障壁魔術を迂回して二人を強襲する。
「“跳躍転移”!」
軌道が逸れた瞬間にレヲンは障壁を消し、冥を掴んで後方へと低く跳躍するエーデルワイスが多用していた跳躍魔術を放つ。
両足に展開された魔術円は瞬間的な推進力を生み、二人の身体は目まぐるしい速度で十メートルほど後退した。入れ違うように、それまでいた場所に五つの斬撃が舗装路を割り裂く。
「逃がさんんん!」
突き出した左手が乱した気流は、進行方向へと螺旋を描く尖鋭となって突き進む。
荒れ狂う霊銀を取り込み台風の如く肥大しながら突進するその旋撃は今度こそ障壁魔術に衝突して弾け消えた。
しかし取り込んだ霊銀が局地的に二人の周囲の霊銀汚染の濃度を極端に引き上げる。
「レヲン、逃げて」
「えっ!?」
「あたしが囮になるから。そしたらレヲンは、逃げることが出来ると思うから」
「冥!?」
哀願の表情、しかし一抹の不安も抱いていない。
黒い虹彩の中心にはやはり黒い瞳がその奥に覚悟の光を宿し、強い眼差しをレヲンへと向けている。
その双眸が見開かれ、どん、とレヲンは身体を突き離された。
迸る雷条が、二人の間に生まれた隔たりを貫く。
「――“自決廻廊”」
冥の頸部に埋め込まれた人造霊脊が円転し、組み替えられた配列が刻む魔術式を荒れた霊銀が通り抜け、周囲の霊銀を共鳴させて魔術を生み出す。
その直前、冥は自らの右手の指で左腕の培養皮膚繊維を貫き、赤い組織液を垂らしていた。
そして放たれた魔術はその血に似た色調と粘性を持つ組織液を、赤い蜉蝣の形へと変えていく。
そうやって生まれた羽虫の軍勢は――まるで女王国の王城にて対峙した神の蝗軍が見せたように――飛翔と旋回を繰り返してクルードを取り囲むと、その罅割れた皮膚にぶつかって溶け込んでいく。
「がっ――ぐ、うっっっ――」
がくがくと身体を揺さぶりながら苦悶の声を上げるクルードの血走った双眸が、レヲンではなく冥に向いた。彼女は宣言通り、自らを囮とすることに成功したのだ。
◆
冥の根幹である魂は、元々存在していた世界で不要として棄却された自我であった。
その自我が芽生えた少女の名前は“森瀬芽衣”――そして、彼女に芽生えたもう一つの自我の名は“芽異”と言った。
彼女の、芽異の物語とは、クルードの狂乱によってレヲンが聴くことの出来なかった、しかし聴きたかった物語だ。
これから語られるそれを、レヲンが結果聴くことが出来るのかそれとも出来なかったのかについては、今ここで論じるべきでは無い。
要約するのなら――芽異とは、森瀬芽衣の心に生まれたもう一つの人格であり、芽衣は無意識のうちに自らの心的外傷を彼女に擦り付けることによって感情の平静を保持し、そしてその必要も無くなった最後に、芽異は彼女の中で自らの存在を絶った。
「大丈夫――――あたしが殺されるのは、これで最後だから。芽衣が芽異を殺すのは、これが最後だから」
末期の時の中で、芽異は芽衣に優しく告げる。
「これからは――――あたしを、たくさん愛してね」
その物語は。
何度も“愛されたい”と願いながら、同時に何度も何度も“殺してくれ”と叫び続けた、彼女たちの冒険活劇だ。
“冥”が気になった方、
よろしければ前作「げんとげん」も読んでみてくださいませ。
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