喰み出した野獣、刃乱した除者㉔
そして上空におけるもう一つの交戦もまた、佳境を迎えていた。
再三の妨害を受けつつも余裕の表情で迎撃する天牛を乗せた紅の巨獣は漸くその脚を檣楼の元へと届かせ、天牛がふわりと降り立った後でその身は黒く小さく移り変わる。
あらゆる攻撃を無効化し全てを喰らう【饕餮】――天牛の援護もあり、今度はその身に攻撃を受ける前に変身を完遂させた。
「お待たせぇっ! じゃあ、もっといっぱい気持ちよくして? エロくて、エモくて、とっっっても――エグいこと」
すると鐘楼を取り囲むように四散していた紅蓮の蝗達が黒い山犬へと飛び込んだ。
その皮膚に張り付いて食い散らかそうと殺到した紅き軍勢は、しかし山犬に触れた側から分解され吸収されていく。
「ナンダトッ!?」
羽音で作り上げた音声すらも溶け込まれてしまい、神の蝗軍は狼狽した。
全体の三割を奪われたところで漸く身を翻し、空中で赤い天使へと戻った神の蝗軍と入れ替わるように奔走した神の雷電は、しかし天牛の放つ不条理そのものである剣閃に阻まれ旋回する。
刀である牛と使用者である天とがひとつに融合した形である天牛は、居合という形でしか振るえない天と異なり、逆に一度抜いたならその蒼刃を鞘へと納めない。
一見出鱈目に見える乱閃は刀身を無尽蔵に歪め、そして蒼い斬痕は斬り付けた空間を破断する。
神の雷電はその身を雷光へと転じることで光の如き速度での突撃を行えるが、光である以上そこに空間が無ければ進行は儘ならない。
そして神の蝗軍とは違い、少年天使はその身を二つ以上に分裂させることが出来ないのだ。故に天牛の振るう【神緯】はここでも決定打となり得た。
「ふふ、どうしましたか? 苛々した表情をしておいでですが?」
「煩いっ!」
再度その身を雷光へと変異させ、一度大きく鐘楼の右側へと飛び出し、そこから急角度の猛進を見せた神の雷電だったが、天牛の剣閃はそれこそ無尽だ。
動きとしては一振りだが、霊銀の操作によって伸びた刀身は二度も三度も折り返して斬撃を繰り出している。
そしていくら光の速度で身を躱すとは言え、神の雷電の動きはそれ故実に直線的だ。だからそんな風に、いずれは断たれた空間の檻に囚われてしまう。
「出せっ! 何だよ、コレっ!?」
四方八方の空間が絶たれ、その場所は一時的に隔離された孤島となった。光も音も伝搬されないため神の雷電の声も何も聞こえない。
「さて――お終いです」
天牛は鐘楼塔のさらに天井の尖塔部分へと跳び上がると、刀を大きく振り上げた。蒼い刀身は周辺の霊銀を急速に吸い上げて膨張し、まるで巨大な満月が浮かんでいるようだ。
【神緯】が空間の破断を為しても、世界の自己修復作用によって空間は再び繋がる。
そのタイミングを見極めること等、天牛にとっては実に容易い――当然だ、彼が齎した破断なのだから。
だから、断たれた空間が再び繋がり、神の雷電がそれを確認して自らを雷光へと変じようとしたその刹那に。
「さようなら」
周囲の空間を含めて全てを圧し潰すような斬撃は、少年天使の身を光ではなく炎へと散らした。
黒く焦げた霊銀結晶もまた、巨大すぎる満月に削られ霧散した。
「グウウッ!?」
神の蝗軍とて、神の洪水や神の雷電同様に苦戦を強いられていた。
彼の攻撃は全てその身を紅蓮の蝗へと分散して喰らい尽くすというもの。
蝗害というのは怖ろしい。あの小さな羽虫が群れ成して飛び交い、豊穣な草地をあっという間に荒野へと食い尽くすのだ。
しかし“食い尽くす”では“貪り尽くす”には到底及ばない――身を赤から黒へと移ろわせた山犬の【饕餮】、それは“人間の消費欲求”を極限まで現したもの。
肥沃な大地を荒野へと食い変える蝗すら消費し尽くすのが人間だ。
だから紅蓮の蝗は飛び交う度に山犬に捕食され、神の蝗軍はその度に少しずつ身を削られていった。
「ねぇ、もっとちょうだい? もっと、もっといっぱい、いっっっぱぁぁぁい欲しいなぁ?」
小柄で可愛らしい少女に過ぎない現状の山犬。だが、その黒い表皮は全て顎であり、消化器官そのものだ。触れるものは全て瞬時に消化して吸収し、例え天牛へと向かう蝗も攻撃の意思が込められている全ては引き寄せ喰らう。
「バカナ、ドウナッテイル!? ナゼ、ナゼコノオレガ――」
本来であれば蹂躙は彼の特権だった。しかし両者の相性は最悪だ。
いや、山犬の性能こそが最悪なのだ。それを目の当たりにした神の蝗軍は戦慄し、身を翻して逃走を決めた。
幸い、この上空にはすぐ傍に開きっぱなしの“神の門”がある――そう考えて見た神の蝗軍の希望を掻き消す、絶望がもう一つ。
「――“神緯”」
空間を破断する蒼刃は繋げられた二点を再び分かった。
“神の門”を棄却するための条件とは二つ――一つは神性を晴らす魔性を持ちうる攻撃であること、これは例えばノヱルの【神亡き世界の呱呱の聲】やレヲンの【月吼】が挙げられる。
天もまた、その白刃に魔性を宿す【神螫】という技を有してはいる。天の身では振るわれたことの無いその一撃は、まさしく神を蝕む毒となる。そして天牛となった身では、振るわれる蒼刃は常にその毒を満たしている。
そしてもう一つは、空間を断つ一撃であること。これに関して言えば天および天牛の【神緯】にしか出来ない芸当だ。
今、フリュドリィス女王国上空の“神の門”は60年もの時を経て漸く閉ざされた。
神の蝗軍は狼狽し、逡巡し、戦慄し、混乱し――その果てに消滅した。
天牛の繰り出す無尽の剣閃が、蝗の軍勢の一匹一匹を斬り落とし、瞬時のうちに幾万のそれらを炎へと散らしたのだ。
「ふふ――山犬、降りれますか?」
「うーんとねぇ……出来ればここで寝てたいかなー? ちょっとお腹いっぱい過ぎて気持ち悪い……」
「ふふふ、下もどうやら落ち着いたようですし。では暫く休んでいなさい」
「うーん、わかったー」
山犬は天のことを好んではいないが、天と牛とが融合した形である天牛に対してはその気持ちも半分になった。
無論、弱り切ってしまっている現在の状態では強い口も叩けず、しなしなとへたり込んだ山犬は何処か意気揚々と飛び降りたその背中を見送り、そして目を閉じた。
◆
「“銃の見做し児”――“魔銃”」
それはどこか古ぼけた、長い砲身を持つ一振りの小銃だった。
形としてはやや小振りな鳥銃、或いは連装していない猟銃とも言えた。
イェセロおよびフリュドリィス女王国、引いてはスティヴァリにも広まっている、ヴェストーフェンを発祥とするある逸話がある。
悪魔が齎した銃により撃ち出された弾丸は、あらゆる障害を貫いて必ず対象に命中すると言う――代わりに、悪魔はその銃の引鉄を引いた者の魂を削る。
ならばそれを、悪魔が引いたなら?
「ふはははは! 最後の一撃もワタシを葬るには至りませんでしたね! 葬る銃とは名ばかりの――」
拡散した水蒸気が再び集まり青い天使を形作ったかと思えば飛び出してくる嘲りの声。
しかしその声も、眼前にて新たなる銃を構える白い悪魔の姿を見て留まる。
「ごちゃごちゃ煩ぇんだよ――」
レバーアクションによる装填が終わり、ノヱルの右手の人差し指がゆっくりと引鉄にかかる。
神の洪水は破顔する――その銃もまた記録に無い新たなものだったが、その規模は明らかに先程の葬銃に比べれば小さい。ならば自らの命を散らす筈は無いと考え――やけに遅い時間の流れに戸惑った。
気が付けば眼前の景色は全て白と黒、その境界を埋め尽くす灰色だ。
色の無い世界の光景の中に、彼の脳は追憶を呼び覚まし、走馬灯のようにそれらが流れていく。
しかし生まれ落ちてから日の浅い彼の記憶はおろか、“神の眼”から得た同期データにもそれを回避する術は見つからなかった。
「――“神亡き世界の呱呱の聲”」
音声までも緩慢に延長する中で、しかしその言葉だけがはっきりと脳に響き渡る。
次いで発せられる発砲音も。
だがいくら待てども弾丸は訪れない。それどころか、砲身から飛び出た様子すら無い。
それもその筈だ――魔銃から撃ち出された弾丸は砲身の内側に展開された魔術式によって対象の元へと転移され、すでにその本体を撃ち抜いているのだ。
はるか遠く深い水底に位置する神の洪水の本体である霊銀結晶には一筋の孔が穿たれ、そこから罅とともに魔性が冒し、焦げが黒く染め上げていく。
その事実を神の洪水は知らないまま――そのまま、その身を焦土に滲み込ませた。




