喰み出した野獣、刃乱した除者⑰
「山犬ちゃんは天ちゃんが嫌いだよ。それでも山犬ちゃんと天ちゃんはまだ仲間だ。仲間が窮地に陥ったら助けるもんだよね? だから山犬ちゃんは行くんだよ。大丈夫――ちゃんと、生きたまま連れて帰るから」
告げ、そのまま単身駆け出そうとした山犬を引き留めたのはエディの怒声だった。
「待ってくださいよ、どうして一人で行こうとしてるんですか!?」
踏み出した足が伸ばした手を小さな肩へと届かせる。
ぎゅっとその肩を掴んだ手の力は強く、普通の人間であれば痛みを感じる程だ。
「どうしてって……」
「俺だってあなた達の仲間だと思っています。なら、俺も行くべきです」
「それは違うよ。ねぇ、エディきゅん。あいつらの位階聴いてた? 智天使だって言ってたよね?」
体を振り向かせる勢いで肩を掴む手を振り払った山犬は、その愛らしい顔には似合わない鬼気迫る表情で言葉を連ねる。
「そうですね――智天使と言えば天使の位階の中でも上から二番目、その上には最高位である熾天使がいるだけです」
「それが三体だよ? エディきゅんが食肉の楽園でノヱル君と一緒に苦戦した天使の位階は何だったっけ?」
「……主天使でした」
「だよね? んでんで、じゃあじゃあ主天使は一体上から何番目なのかなぁ?」
苦い顔をするエディ。【禁書】に属する構成員、とりわけ戦士として名を連ねる者は皆、天使の位階と特徴についてを学んでいる。
最も下位の天使はそのまま天使。
その上位に位置する大天使。
その上位に位置する権天使。
その上位に位置する能天使。
その上位に位置する力天使。
ここまでは背なに生える翼の数も一対二枚であり、頭上に冠する光輪もそこまで大きく変わるわけではない。
しかしその上の位階からは大きく能力や特性などに差異が出る。
二対四枚の翼を持つ第四の位階、主天使――食肉の楽園で神殺しの三基が戦った神の嗜虐や神の被虐、調査団はまだ知らないがイェセロの拠点を強襲した神の沈鬱がこの位階に属する。
三対六枚の翼を持つ第三の位階、座天使。
四対八枚の翼を持つ第二の位階、智天使――先程山犬を強襲し天を連れ攫った三体、神の雷、神の洪水、神の蝗軍がこの位階に属する。
そして、第一の位階、熾天使――この位階に属する天使はもはやその存在が確認されておらず、文献にしか見ることが出来ない。
その翼の数は六対十二枚と言われ、もはや光輪は全身を包む聖衣として機能するらしい。
それらのことを、エディは勿論忘れてなどいない。
他の調査団の面々もそうだ。アスタシャも、ライモンドも、バネットも、サリードも、ミリアムも。
“相手は智天使三体だ”という事実に、奮い立たせなければいけない筈の心がびりびりと震え上がってしまっている。
「……それでも、俺は行かなければならないと思います」
「……何で?」
しかし少年兵は退かない。
恐怖が無いわけでは無い。確実に生き残る目算すらも無い。
ただそれでも、退くわけにはいかないことを彼は知っている。
「相手に合わせて押し引きを決めるのは戦士のやることじゃない」
「それで君が死んだらどうすんのさ」
「死ななければいい」
「山犬ちゃん、きっと守り切れないよ?」
「俺は要庇護者じゃない。あなたと同じ、戦う者だ。戦士だ」
ただ真っ直ぐに山犬を見詰める双眸には、確固たる信念が宿っている。
「……いいとこで飛び出てきたりしたら間違って噛んじゃうからね。がぶがぶごっくんだからね!」
「ありがとう」
同行を受け入れた山犬が再び前を向くと、しかし沈む人族の戦士たちが行く手を阻むように立ちはだかった。
山犬が再び冷めた目付きで睨み付けるが、しかし先頭に立つ一人が山犬よりも先に口を開いた。
「キユラス様より天様救出を援けるよう言付かっています」
「……あ、そ」
「陸路は長く、それに危険です。幸い目的地は隣国。フリュドリィス女王国なら運河から水路へと舟を走らせればその方が速いです」
聞き入れ振り返る山犬。エディはひとつ頷き、沈む人族の戦士へと「お願いします」という言葉を贈った。
ボートは既に用意されていた。
プロペラを用いた推進はしかしエンジン音の響きが敵を引き寄せてしまう可能性があるため、つつがなく進む限りは沈む人族の戦士たちが牽引する、という運びになる。
水中という環境での彼女たちの力は絶大だ。もしも人類の社会の基盤が水中にあったなら、真なる人族という名は彼女たちが貰い受けていたかもしれない。
「私も行きます」
制止する声を放つ前にアスタシャが水に入った。困惑したエディを見上げた微笑みはさらに彼を混乱させる。
「まぁ当然だな」
「っすね。なんでエディ坊だけかっこつけてんだ、って話だし」
次いで、山犬やエディよりも早くボートに乗り込んだのはサリードとバネットだ。その後ろに続いていたミリアムも、恐る恐るボートに足を踏み入れる。
「私、実は泳げないんだけど大丈夫かな?」
「ミリアムさん、その時は私が」
水から上半身を迫り出してボートの縁に捕まったアスタシャがにこりと笑む。ミリアムは何かを言おうとしていたがその言葉を飲み込み、笑みに笑みを返す。
「じゃあ安心だね」
「はい」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
「「「「え?」」」」
短く切り揃えた金色の髪をくしゃりと掻き、惑う碧眼を巡らせたエディが問う。
「皆さん、どうして?」
「どうしてって……なぁ?」
「っすね」
「だって、相手はあの天使三体ですよ? 死ぬかもしれないんですよ?」
「エディ君は何て答えたんだっけ?」
「……俺は、」
「いーじゃんいーじゃん。そしたら山犬ちゃんたち、皆“仲間”ってことでしょ?」
「山犬さん……」
屋上の縁からボートへと跳び移った山犬の着地は猫のようにしなやかで、波一つ立てることなくふわりとしていた。
「まぁでも、一人はそうじゃないらしいけどさ」
振り返るエディの目に映る、煮え切らない表情の男――ライモンドだ。
「……俺は、」
「ライモンドさん……いえ、それが普通です」
「違う、違うんだ。……俺は、仲間じゃない」
「そんなことは無いですよ」
「違う。本当に……本当に違うんだ、俺は仲間じゃないんだ」
苦い表情と共に懐から取り出したもの――それは、掌に納まるほどの小さく薄いカード状の匣だった。
それをパキリと親指で押し割って、地面に落として軍靴の底で踏み付けた。
「仲間じゃない――内通者なんだよ」
「……内通者」
待ち構えていたかのように訪れた襲撃。天は内部にその存在がいるのではと考えていたが、結局のところその考察は誰にも共有しなかった。
そしてエディは、仲間を疑うことをしなかった。嫌疑を一蹴したのではなく、ただただ天然に全員を信じていたのだ。だからライモンドの言葉を最初は受け止められなかった。
「まぁそんなこったろうとは思ってたぜ」
吐き捨てたのはサリードだった。ライモンドは恨めがましく彼の屈強な顔つきを睨み付けた。
「……俺とバネット、ミリアムはチームだ。エディ坊はリーダーで抜擢された身、アスタシャは任務の性質上いなけりゃならない人材。お前だけがあぶれてるもんな」
原理主義者――【禁書】という組織の中でも、真なる人族こそが至上であるという思想の下、神を討ち再び真なる人族に世界の覇権を取り戻そうとする派閥である。
サリードとバネット、そしてミリアムはどちらかと言えばこの派閥に属する。
対してライモンドは表向きは中立派だが、実際には真反対の“平等主義者”に属していた。
「狙いとしては俺たち原理主義者の排除、ってとこだろう。が、エディ坊が強力な神殺しのお二人を引き入れたもんだから勝手が狂った、ってとこだろ?」
「……本当なら俺とアスタシャの二人だけでこの地の沈む人族と接触するつもりだった」
「裏で糸引いてんのは誰だ? 大方、ガークスさんの失墜が目的なんだろ? なら……ベルモット、或いはウィリアムか?」
「……どっちもだ」




