喰み出した野獣、刃乱した除者⑭
「山犬さんを返せっ!」
「はぁ? じゃあオマエを連れていくがいいか?」
纏わりついていた紅蓮の蝗たちがぱっと山犬の身体を離し、その身体は石床にどかりと落ちた。さらに目を見開いて激昂するエディへと向かい、蝗の群れが殺到し――
「――“神緯”」
天の振るった一閃によって生まれた断空の障壁に阻まれ霧散する。
「へぇ――刀を抜くと強さが変わるのか。面白いな、オマエ」
散って炎となった蝗たちの欠片を吸い寄せた神の蝗軍が口角を持ち上げた。
「気に入った、アイツを持って行こう」
「神の蝗軍、アナタの一存では決められませんよ」
「そうだよそうだよ。予定通りこの女の子にしよーよ!」
神の雷電がそう言及しながら山犬の身体をげしと蹴った。
目を剥いて怒りを顕わにするエディ。強く歯噛みしながら直剣を両手で握り構える。
「その汚らしい足を退けろ!」
「はぁ? 汚い? オマエ何言ってんの? 腹立つなぁ――」
神の雷電の身体がエディへと正対し――爆ぜ進む瞬間、再び天の一閃はその突撃を阻む障壁を生み出す。
「え、マジ!? マジマジのマジ!? ボクの速度について来れるの!?」
障壁に弾かれて後退した神の雷電は驚いた。しかしその顔は脅威を前にしたというよりは、とても楽しそうなアトラクションを前にした少年そのものだ。
嘆息した蒼い天使は、自らと似た蒼い剣士に微笑みを向ける。
「アナタ――アナタが着いて来てくれるのならば、ワタシたちはもう何もせずこの地を去りましょう。ワレワレは神より、“神殺し”を一体連れ帰りなさいという使命を受けていますから」
鞘に納まった刀の柄に右手を添える天は、低く構えた上体を起こして真っ直ぐに立つと、振り返らずに真っ直ぐ進んだ。
「天さん!?」
「心配無用です。賤方が頷けば、言葉通り手を出さないでいてくれるのですよね?」
「ええ。ご安心を、ワレワレは嘘は吐きません」
「その代わり、変な動きしたらずどんっ、だからな!」
「移送はオレが担当する。楽にしてな」
再び、神の蝗軍の腕が紅蓮の蝗の群れへと転じた。それらは天の身体に纏わりつき、その身を宙へと運ぶ。
「そして残る神殺しの皆さん――どういう遊戯かは知りませんが、一応伝えよという使命ですのでお伝えします」
「えっとな、何だっけ……あ、そうそう。返して欲しければ今は亡き女王国の王城に来い、だ!」
「ちなみに、期日は夜明けから72時間――ちょうど三日だ。それが過ぎれば、この“神殺し”とはもう二度と会えないと思え、だってよ」
「ふふ。それでは楽しみに待っていますよ」
一方的に押し付け、三体の天使は身を翻す。
青はとぷんと溶け込むように水面へと素早く潜り、黄と赤は宙をまるで吹き荒ぶ風のようにごうと舞って。
そして十四人の戦士たちは、今しがたの出来事を飲み込むのにしばらく時間を要した。
歴戦の戦士であればあるほど――あの三体の天使の凶悪なまでの強さを、肌で感じてしまった。
そして。
それがこれから向かうフリュドリィス女王国に待っていると知ると、自然と震えが込み上げてくる。
「……山犬ちゃんが行くよ」
そして屋上の中央で落とされたまま静かにしていた山犬が、漸く胸の穴を修復してむくりと起き上がった。
【饕餮】を行使した後はそれが持続していた時間に応じて暫くの間機能低下を余儀なくされるが、今回の行使は殆ど一瞬だ。それでも、およそ二、三分は何も出来なくなってしまうのだから質が悪い。
しかし身体を動かせなかったのは胸に位置する重要な神経伝達系の破損が原因だった。再生能力が再起動されるまで彼女は身体を動かすことは出来なかったが、自らの周囲でどんなことが起きていたかは知覚していた。
「だって天ちゃん、お仕事終わったらここに戻って来なきゃいけないんでしょ?」
「……山犬さん」
天とキユラスの密約を知っているアスタシャ、そして沈む人族の戦士たちが眉根を顰めた。
彼女がその身を費やして天を取り返すために動くのは分かる。しかしその理由が今しがたの言葉であるというのは何とも理解し難い。
「お前……そのまま天様を連れ攫うつもりじゃ無いだろうな」
だから沈む人族の女戦士の一人――キユラスの寵愛を受ける近衛騎士の一人だ――は声を荒げて山犬に吼え立てた。
しかし山犬はその激昂の声音にも何ら反応を見せず、ただ面倒臭そうにゆっくりと振り向くと、腹を空かせた獣の双眸で彼女を見据えた。
斜めに十字を切る瞳孔が内側から妖しく輝き、獣の相貌を直視した女戦士は戦意を削がれ、その場にぺたりと尻もちをついてしまう。
「あのねぇ――――天ちゃんは絶対に気にしてないから、あなたたちのこと。だけどあなたたちは約束したんでしょ? だったらそれを守らせないと。あの天ちゃんのこと、欲しいって思ってるんでしょ? だったら首根っこ捕まえてここまで送り届けるよ。そっから先は自由にしなよ、煮るなり焼くなりさぁ。どうせどう料理したってあいつはとても喰えたもんじゃない」
「山犬さん……」
こんなにも自らの負の感情を表に出す山犬を、誰も見たことが無かった。
確かに山犬は戦闘狂であり、【神殺す獣】を行使して巨獣の形態を取る時には獣性を発揮して本能のままに敵を嚙み殺して喰い散らかす。
しかしこの、少女の形態は違った。
愛らしい天真爛漫な少女の様相の通りの精神性を発揮して、誰しもに明るい笑顔と溌溂な甘い声音を響かせる、そんな愛らしい少女なのだ。
それが、ここまで憎悪をちらつかせて怒りの形相を見せるのは違和感があった。
しかしその違和感は、何故だか少女の体躯に合致する。それはきっと、それもまた少女のひとつの心の在り様だからだろう。
「ああ――そう言えば、ずっとあいつはそうだった。ずっとずっと、ずぅっっっと、昔から――――」
少女に備わる記録保持機構。そこに、山犬の魂から封の解かれた記憶がどんどんと溢れては流れ込む。
それは追憶。
少女がまだ山犬では無かった頃の。
そして、剣士がまだ天牛では無く、青年がまだノヱルでは無かった頃の――――
◆
「おはよう」
「……おはようございます、創造主様」
それは66年前の朝のことだった。
作業台に寝かされていた身体を起こし、床へと降り立った少女の形をした人型自律代働躯体の一基はぺこりと丁寧に頭を下げた。
それは創造された身として、自らを創り上げた創造主に対する起動時の所作として刷り込みされている行為のひとつだ。その洗練された動きにうんうんと頷き、創造主――後に“狂人”と呼ばれる男はにかりと笑いを顔に浮かべた。
「判っておると思うが、ワシはクルード。お主を創った者だ」
「はい、心得ています、創造主様」
起動されたばかりの少女はまだ上手く表情を作ることが出来ない。知能的演算核の挙動と躯体の動きにまだ齟齬があり、その摩擦を限りなく零に近付ける必要があるのだ。表情はその作業のうちに自然と作るようになる。
「しかし、外見に大枚を叩いただけのことはあるな。うん、肌や髪の質感も最新鋭そのもの。容姿に至っては最高級品そのものだな」
老いた紳士は顎髭を撫でながら少女の躯体を隅々まで観察する。そしてひとつひとつの部位の出来栄えにうんうんと幸せそうな唸りを上げながら、それを組み上げた自らの手腕を高らかに褒め称えるのだ。
少女はその言葉を聴きながら、特に何かを思うことは無かった。まだ、感情の全てを理解していないのだ。知能的演算核はまだ神経伝達索と躯体の挙動の擦り合わせを実行しているところであり、感情表現にはまだ早い。
それでも、彼女の知能的演算核の中枢には確りとその種火が熾きていた。
創造主から賞賛の言葉を貰う度にその種火は大きくなっていき、少女の身体全体に不思議なぬくもりを広げていく。
惜しむらくは少女がまだ、そのぬくもりが何なのかを理解できないこと。しかしそれは時間の問題だった。
「じゃあルピ――お前の先輩を紹介しよう」
「“ルピ”?」
「ああ。お前の名前だよ」
「ルピ――――ワタシの、ナマエ……」
記録保持機構に初めての項目が記録される。重大で、この先決して消えることの無い、彼女が彼女であるための唯一の識別名称。
起動を果たした少女のヒトガタは、“ルピ”という名を貰い受けた。