喰み出した野獣、刃乱した除者⑩
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「――ほう、お前の仲間とやらに襲い来る神の軍勢と戦え、とな?」
沈む人族の長、キユラスは妖艶な微笑を湛えたままで天に確認を発した。
天もまたにこりとした穏やかな笑みを浮かべたままで首肯し、しかし言葉を付け加える。
「今後ずっと、という話では無いことはお伝えした通りです。差し当たり現在と、そして可能ならば我々が女王国へと至り、賤方が任を全うするまでで構いません」
「我らのメリットは?」
「賤方が女王国へと至り為す任とは、あの国の王城の鐘楼塔の頂点付近に開いた“神の門”の消滅です。それを完遂できれば神は軍勢をあの地に送り出すことが出来ず、天使や天獣たちもこの地へと訪れなくなります。そうなれば貴女方も、この地を楽園へと造り返ることが出来るのでは?」
キユラスは目を瞬かせた。
確かにここスティヴァリの地に未だ住まう沈む人族は、真なる人族がいなくなったと言うのにその身を地上に完全に出してしまうことを不安視していた。
いくら神の軍勢が亜人種は襲ってこない、蹂躙の対象ではないと知っているとは言え、それが真実には自分たちの思い込みでしかない可能性もあるのだ。
それに真実だったとしても、それが気まぐれに変わってしまっては困る。
何しろ彼女たちは神そのものじゃない。その心は誰にも分からないのだ。
だから天がもしもそんなことが出来るのであれば、自分たちは地上に栄華を極めることが出来ると彼女たちは息を呑んだ。
キユラスの目も丸く見開かれていた。それは彼女が求めている見返りとは大きく異なるが、魅力的でないわけでも無い。
しかし欲張りなキユラスは、その答えに色をつけることを提案する。
「なるほど、確かにそれは素晴らしい。この滅んだ国を再興し、沈む人族の楽園へとするのは確かにいいことだろう。でも天よ、神の軍勢はいずれ現れる。北の女王国の“門”が閉ざされたとて、大陸中央の“門”からやがて飛んで来る。そうなった時――妾たちはまた、水面を突き抜けて逃げねばならぬのか? 地上の楽園を捨てて?」
「回りくどい言い方をするのですね」
湾曲な物言いに返した天の言葉は、まるで彼の放つ刀のように鋭さを帯びていた。
穏やかな笑みの形は変わっていない。だと言うのに、その瞬間にどうしてだかその場にいた全員が彼の笑みを、“まるで悪魔の様だ”と錯覚した。
「正直に言えばいいでしょう――賤方が欲しいのでしょう? この身をこの地に縛り付けたいのでしょう? あなたの色付いた瞳を、賤方がまさか見逃すとでもお思いでしたか?」
ごくり――キユラスの喉が鳴る。全てを見通したその上でこれから何を言い放つのか、キユラスは自然と耳を欹て、意識の全てを天へと向けた。
それは他の誰しもにも言えたことだった。そんな彼女たちの一人一人に視線を投じて見渡しながら、眼光の鋭さを深めた天は最後にキユラスを真っ直ぐに見詰めた。
「賤方は飽きが早い――貴女方はその全身と全霊を費やして、趣向を凝らし続けることが出来ますか?」
「き、貴様っ!」
息巻いて立ち上がったのは最後列に座していたニスマだった。幾人かは天の言わんとすることを理解してしまい、顔を赤らめてしまった者もいる。
「女性が泣くことは好きじゃありませんが、女性を鳴かせるのは得意ですよ。涸れないよう、覚悟をしておいて下さいね。それが出来ないのならば」
告げながら立ち上がった天は踵を返して顔を赤くさせながら睨むニスマへと歩み寄る。
対するニスマは奥歯を強く噛み締めた。
その頬の赤らみはあくまで憤怒だ。血が頭に上ったせいだ。だから彼女はわけのわからぬ言葉を吐く得体のしれない男に拳を振り上げた。
ニスマは序列は下位だが腕っぷしには定評がある女戦士だった。だから、目の前の細い優男がいくら得体が知れなかろうと、組み伏せて打ち砕ける自身があった。
それは完全に間違いであり、振られた拳は空を切るどころか、振るったニスマ自身の身体もまた宙を舞っていた。
ぐるりと円転する景色は気持ち悪く、しかし捕まれた腕を引かれたことで、地面に強かに打ち付けられることは無かった。むしろ優しく、尻から地面に落ちることを許されたのだ。
何をされたのかすら判別できないニスマの首筋に天の手が伸びた。それは灰褐色の肌に添えられると、撫ぜりながら顎の骨を駆けあがって頬を包み、そして眼鼻の先には顔があった。
綺麗な顔だった。とてもとても綺麗で、とてもとてもこの世のものとは思えない。
「……一応、痛いのも痛くするのも苦手ですが、お望みとあらば施しましょう。どんなスタイル、要望にも応えられるように殆どの機能は有していますが――賤方自身が傷むこと、また自由を奪われることはお断りです。それ以外なら、どんな風にでも夜を彩れますが……?」
蠢く唇は白く、ほんのりと赤みがかっていた。
言葉には抑揚が無い。だけれどその含みは甘く糸を引いている。耳に絡み付き、鼓膜を冒している。
ニスマは恐怖を覚えた。だと言うのに、その顔を赤らめさせる熱は、異なる意味を帯び始めた。
「天よ、我が同胞が済まない」
キユラスが表を上げたままで謝罪の言葉を放る。天はニスマの頬に添えていた手を戻し、そして立ち上がってキユラスを振り返った。
「歓迎しよう。妾たちスティヴァリの民は、全身全霊で以てお前をもてなそう」
「なら、賤方がこの地に留まらない理由はありません。今受けている任が終わり次第、片っ端からお相手しましょう」
淫靡な破顔が交差する。
全員が固唾を飲み、息を呑みながら――交渉は、ここに成立した。
ならば問題はあと一つ――――あの襲撃を裏で手を引いていたのは誰なのか。
しかし天はその答えをすでに得ている。いや、確信はまだ無いが、核心的な事実ならばひとつ得ている。
後は急いで彼らの元へと戻り、神の軍勢を蹴散らすだけだ。
(ミリアムさんに、アスタシャさんも……惜しかったなぁ)
沈む人族の女戦士たちと共にノルドの街へと急ぎながら天は、不謹慎ながらもそんなことを少し思ったのだった。
◆
「お待たせしましたね」
東国の武士が古来に編み出した立ち泳ぎで水面に顔を出した天は、同様に息継ぎのために顔を出したアスタシャに笑みを贈る。
「急ぎましょう」
そして二人は戦場へと舞い戻る。
スティヴァリを楽園へと変えるため天に迎合した――中にはそれだけでない者もいたが――ニスマを含む六人の戦士と共に、神の軍勢を討つために。
「天さん!」
廃屋の広い天井である地面へと上がったそれらの増援を視認したエディは顔を綻ばせた。
天は状況を一目で察すると、いつもの低い構えを見せる。いや、見せた。
その身体は爆ぜたように座標を塗り替えると、サリードに襲い掛かろうとしていた豹の天獣を両断しながら同時に、空を旋回しながら炎を吐き出していた凧の天獣の四体を斬り墜としていた。
それでいて天は、巨獣へと変身した山犬の傍らに在り、鞘へと納めた刀から手を離して神の咀嚼を涼やかな目で見詰めていた。
「――山犬、彼の者の相手は賤方が務めましょう。貴女は、群がる天獣たちを喰らいなさい」
ふるる、と唸っていた山犬はひとつ短い咆哮を放つと、新たに上空より降りてきた天獣たちをその顎と牙で一掃する。
「真打ち登場か?」
「彼らが影打ちだとは思いませんが……単に、新手が現れただけのことですよ」
すでに沈む人族の戦士たちも【禁書】に加勢している。窮地はここに来て覆され、戦場の流れは神の軍勢から【禁書】側に移ろった。
「ははははは! ならば愉しませろよ新参! 我が位階は能天使、我が名は“神の咀嚼”! 神に反旗を翻す不届き者どもに今生の別れを齎す者なり!」
「賤方は天。かつて貴方たちに滅ぼされた祖国フリュドリィス女王国において創られし人型自律代働躯体の一基にして、この場において貴方に避けられない別れを齎す者です」
「ほざけ! いざ尋常に、勝負!」
「受けて立ちましょう!」
ふたつの剣閃がぶつかり合い、火花が散る。
“神の咀嚼”は屈強な肉体と遥かに堅牢な鎧に身を包む、難攻不落の天使。しかし巨大な剣の一撃も、当たらなければ致命になり得ない。
流水の如き体捌きを見せる天の攻守に、“神の咀嚼”は匹敵できない。結果として彼はその顔の綻びが秘める意味を、決して届かない地力の差を思い知らされた絶望と諦観に変え、「見事」と言い遺して炎へと散った。
天が振り向くと、天獣たちの襲来も、ちょうど今しがたその全てを討ち終えたところだった。




