喰み出した野獣、刃乱した除者⑧
天の健脚はその身をスティヴァリの外縁であるノルド市街に運んでいた。
くの字に折れ曲がった湾岸沿いの街はこの国の特徴である運河を擁しなかった筈だが、年々国民を脅かしていた地盤沈下は急速に進み、市街地の殆どは水没していると言っても過言では無い様相だった。
とても、復興がされている様子は無い――しかし沈む人族は水辺に住まう人間種族だ。
表向き、廃墟を装っていた方が面倒ごとを避けられると考えていてもおかしくはない。
つまり、こんな有様でも目当ての集落が無いとは言い切れない。
建物の屋上や水面から突き出た街灯を足場にして天は進む。目的地の辺りまではあと十分ほど――天の速度なら、その半分少しで済むだろう。
六十年前の“粛聖”、このスティヴァリは二番目に狙われた国だった。
しかし水に恵まれた地理のため、そこまでひどい破壊活動は受けていない。それは、未だほぼ完全な形を残す廃墟群からも確かだと頷ける。
(この辺りですが……)
ほぼ水面ギリギリの低い建物の屋上へと降り立った天は、出発の際にアスタシャから受け取ったパイプホイッスルを懐から取り出した。
掌で握り隠せるほどの長さしかない細い金属の筒の上端を唇で噛み、そして思い切り息を吹き込む。
人間の可聴域では聴き取れないその高周波は、しかし特殊な発音器官とそれに適合する聴覚を有する沈む人族には聴き取ることが可能だ。
(音は鳴っている筈ですが……)
教わった通り、短音と長音を並べた記号で沈む人族を呼ぶ。水に適応しているとは言え基本的には人間だ。沈む人族も、高周波による会話は出来ず、短音と長音を並べた記号的な簡単な意思疎通しかできない。
だからこそ警戒しているのだろうか、と天は考えた。しかしそれは杞憂に終わる。
ざぱり。眼前の水面から、筋骨隆々とした屈強な肉体を持つ褐色肌の女性が一人、現れた。
天と同じ屋上へと上がった彼女は、乱れた髪を掻き上げ、ぽとぽとと雫を落としながら天を睨み付けた。
「アンタ、誰だ?」
沈む人族には美人が多い、と聞いていた天だったが、やや幼さの残るアスタシャとは違い、戦士としての女性の強さを昇華させた美を宿していると天は評価した。噂は本当かもしれないという思いが脳裏に浮かび上がると、任務中だと言うのに天の心地は機嫌を高みへと押し上げる。
「“禁書”はイェセロ支部より参りました、賤方は天と申します」
「“禁書”――真なる人族至上主義の連中か」
「その認識は半々、というところかと。“禁書”の中にも、貴方と同じ沈む人族はいらっしゃいます」
「はっ、面汚しさ。で? 何の用だ? まさかアタシたちに、“神の軍勢”を討つ手助けをしろって言うんじゃ無いだろうね?」
少なくとも彼女は【禁書】に対して良い感情を抱いてなどいないことは明白だ。
それが彼女だけのことなのか、それともこの地に住まう沈む人族全体に通じることなのか――しかしどちらにせよ、協力してもらわないことには事が進まない。天はそう心積もりを決め込むと、より一層笑みを深めて改めて言葉を紡ぐ。
「いえ、そのまさかです。ご存じの通り、“神の軍勢”は人間を滅ぼし得る強大な巨悪。手を取り合い協力し合って討たなければ、いずれこの世界は滅びます」
「そんなことは無いんだよ」
吐き捨てるように告げられた言葉に、天は眉をぎゅっと顰めた。
「“神の軍勢”が狙っているのはあくまで真なる人族だけ――アタシら沈む人族は邪魔しない限りは手を出されない。それは他の“亜人種族”も一緒だよ」
「それは……どういうことですか?」
その情報は天にとって初耳だった。しかし、“粛聖”の詳細はよく分からないが、食肉の楽園では確かに真なる人族のみが虐げられ、同じ街に住まい工場に勤務する食べる人族は寧ろ優遇されていた。
シュヴァイン・ベハイテンの回想も、彼は真なる人族だからこそ暴虐を受けていた。天使に扮した【禁書】構成員から偽装の指輪を貰い受け、食べる人族の姿を装ったことでそれは晴れた。
“神の軍勢”は、真なる人族だけを滅ぼそうとしている?
いや、その在り方は――――かつて虐げられていた亜人種族と真なる人族の関係性を、逆転させようとしている?
疑問は尽きないが、確かめる術が無い。“神の軍勢”が何をしようとしているのかは、それこそ神のみぞ知る物語だ。ここで逡巡した所で答えは出ない。
「どういうつもりか知るわけが無ぇだろ。ただ、昔も、今も、そうだってことだけが確かだ。だからアタシらはアンタら“禁書”に与する気は無い。帰りな」
ふぅ――大きく溜息を吐いた天は、しかし笑みを絶やさなかった。
自分がいない今、調査団の残された七人――六人と一基――は執拗な天獣の襲来に耐えながら自分を追って前進を続けている。
内通者の存在を確かめるためとは言え、独断で時間を大いに浪費した天は、だからこそ彼らの協力を得なければならないと固く誓っていた。自由には代償が必要だとは彼の弁であり、そして矜持である。
円転する彼の思考――用意された三基の神殺しの中で、彼はノヱルとは異なる賢慮さを有している。
ノヱルの賢さとは、溜め込んで置ける情報量の多さだ。知を欲し、無知を覆そうという気概に他ならない。
天は違う。天は、不必要に何かを知ろうと考えることは無い。だが知り得た情報を整理し、多面的に解釈して柔軟に組み上げることが出来る。
気紛れな頑固さはあれど、本来の天は“柔”を善しとする性分だ。水の如く、収まる器の形に移ろう輪郭をこそ、自らの性質として認めたい者なのだ。
「そうですか。それは残念です……では」
踵を返そうとした沈む人族の女性を引き留めた、天の吐いた接続詞。
「“禁書”には協力して頂かなくて構いません。なら賤方には協力して頂けますか?」
「は? お前に協力するのは」
「“禁書”に協力することと同義ではありませんよ。何しろ賤方は一時的に身を寄せてはいますが、身を置いてはいない、部外者です」
「……お前、人間じゃないな?」
天の躯体内の霊銀信号検知器が女の双眸に宿る高濃度の霊銀を検知した。
【瞳術】――霊基配列を介さず直接目に霊銀を収束させることで視覚機能を強化・拡張する魔術である。おそらく彼女が用いたのは体内の霊銀の流れを洞察する【霊視】か、或いは遮蔽物を透過して物事を見遣る【透視】のどちらかだろう。そのどちらかであれば、天の躯体が人間のそれとは大きく異なっていることが判る。
「はい。賤方は人間によって創られた用心棒型の人型自律代働躯体。滅びたフリュドリィス女王国にて目覚めた、三基のうちの一基です」
手を胸に当てて改めて自己紹介を行うと、向き直った沈む人族の女は困惑した表情を浮かべ、口を噤んだ。
「……少し、待ってろ」
そしてそう告げ、ざぼんと水の中へと潜っていき、しばらくしてまたざばぁと現れては、「ついて来い。お前を集落へと案内する」と告げた。
「機械は、泳げるのか?」
「問題ありません。寧ろ、三基の中で一番巧いですよ?」
天もまた水に潜る。まるで魚のように水中を難なく進む一人と一基は、やがて沈む人族の集落へと泳ぎ着いた。




