死屍を抱いて獅子となる⑪
「エーデルさんっ、エーデルさんっ!」
――何だい何だい、そんな顔して……まるでアタイが死んじまうみたいにさぁ……
声は、発せられなかった。
エーデルの胸に空いた赤い穴は、流水が濯いだ綺麗な断面を見せていただがそれも直ぐに赤黒く塗れていく。
辛うじて意識があるのは僥倖と言えただろうか。ただ、とうに苦痛は限界を超過して何も感じない。
何も、感じない。
「嫌だ、死なないでよ」
ただ、身を乗り出して顔を覗き込むシシの、ぼたりぼたりと溢し続ける涙の感触だけが温もりとしてエーデルの頬に広がった。
――いや、アタイは、そうかい……死んじまうのかい……
段々と視界は閉ざされていく。
ごぽりと、気道を遡った血の塊が口から溢れ、首回りまで真っ赤に染まった。
治療魔術ならばこの命を繋ぎ止められるか?
そう自分に問い質したものの、答えを考えるまでも無く幾つもの“否”が脳裏に溢れ出した。
まるで、空いた穴から流れ出る命のようだった。
「エーデル、さん……」
どうしていいのか分からなくなってしまったシシは先程から馬鹿になったようにただ彼女の名前ばかりを繰り返している。
時折意味のある言葉を吐いたかと思えば、「死んじゃ嫌だ」若しくは「死なないで」くらい。そんな愚かしいこの娘が堪らなく――愛おしかった。
――こんなことなら本当に、母親ってやつになっておくんだった。
どうして後悔は、過ぎてしまったものにしか訪れないのだろうか。
エーデルは傭兵になった時から、こんな想いに駆られないよう執着を棄て、未練を遺さずに生きてきたつもりでいた。
それなのに、これだ。
シシに偉そうなことを言っておきながら自分が全く出来ていないじゃないかと心の中で独り言ち、一度だけエーデルは瞬きをした。
いや、しようとした。
しようとしたのだ。
それは瞬きの筈だった。
筈だったのだ。
でもそれは瞬きでは無かった。
二度と開かぬそれを、“瞬き”だと人は呼ばない。
「ぅあ……あ、ぁあ……」
前線では湧くように投入される水獣の増援に加え、自らの肉体をも武器へと変貌させる天使の蹂躙が止まらない。
ノヱルは歯噛みし、得物を双銃へと換装させると、戦士たちに交じって白兵戦に身を投じた。
白い悪魔の状態であるノヱルの格闘斬撃は水獣たちを斬り裂き、またその最中に放たれた銃弾は天使の肉体に幾つもの穴を穿った。
しかし駄目だ。
双銃に設けた刃、刀身は短い。
とてもでは無いが、水獣も天使も切断させられないのだ。
斬撃が有効なのは、肉体の繋がりと同時に霊銀の接続をも断てるからであり。
刺突と打撃、その二つには無い、斬撃だけが持つ最も優れた利点だ。
だから神の沈鬱は切断武器の使い手であり、かつ司令塔及び精神的な生命線を担っていたエーデルを強襲したのだ。
そしてそれを葬り去った今、この場に脅威はあと一人――ノヱルを亡き者にすれば、この国を陥せる、そう考えていた。
「ぐぅ――っ」
疾駆の如き速度で見事な体捌きを見せていたノヱルの脚を、遂に天使の水鉾が穿った。
拉げて折れ曲がった金属骨格に銃弾を放って即座に切り捨てたノヱルだったが、やはり片脚では軍勢の相手にもならない。
戦士から唐突に“弱者”に格落ちしたノヱルを、今度は開幕の際に見せた大蛇のような水流が襲った。
激しく打ち付けられ、飛沫と衝撃波を波濤させながら吹き飛んだノヱルは、十メートルほど離れた場所に墜落すると、倒れ伏したまま動かなかった。
「……これで、終わりですね」
そう、神の沈鬱が呟き、衝撃の惨状に戦士たちが静まり返った、その刹那。
「|“神亡き世界の呱呱の聲”《ティル・ディアボリーク》!」
倒れ伏した体勢で放たれた、鳥銃による神殺しの一撃。
輝く隼の姿となった銃弾は風を裂き、水を裂き、命を断ちながら湖上へと到達すると、翻って湖面を突き抜けて尚も進んだ。
「がぁっ!」
苦悶の表情を浮かべた虚像は、次の瞬間には透明な水の塊へと還元されてその場に大きな水溜りを作った。他の水獣たちもまた、制御を失って水溜りとなった。
それでもまだ、勝ちとは言えない。
索敵機能に映る敵影はまだ消えていない。ほんの少し衰えただけで、未だその反応の大きさは脅威であり驚異だった。
「まだ、だ……」
ざばぁ――湖上へと浮かび上がった、赤く濡れた神の沈鬱。索敵機能はもう湖中に反応を映さない。
あれを屠れば終わりの筈なのだが、戦士たちもまたあの天使の名のように晴れない顔をしている。
当然だ。彼らもまた満身創痍であり、終わりの見えない闘争の中で疲弊しきっている。
ただ、ここに来て天使の本体らしきものが現れたその希望に似た何かが、彼らから諦めるという選択肢を奪い去った。
逃げ出すことも出来た筈だ。それなのに立ち向かうことを選択したのは、それ以外に見えなかったからか、それとも戦士としての矜持か。
そして三発という限界を迎え、剰え左脚をも失ったノヱルさえ、鳥銃を杖代わりにして立ち上がった。
口の端からは先程胴体で着地した際の衝撃で内部組織が破れたことによる循環術液が漏れ出して零れ、荒い息遣いから霊銀機関に不調が現れたことも明確だ。
対して、神の沈鬱が率いる水獣の群れは憎たらしいほどにぴんぴんしている。当の天使本人は先の|【神亡き世界の呱呱の聲】《ティル・デアボリーク》が掠めたことにより頭部を大きく破損してしまっているが、ギリギリのところで致命に届いていない。
神殺しの銃弾が命中したというのに死んでいない理由は、銃弾の持つ“神性に反応して毒と化す呪い”を、体内を渦巻く水流で拡散しその効果を抑制しているからだ。
だからノヱルでさえ、あと一発の神殺しの弾丸を命中させることが出来れば、という希望に似た何かに縋ろうとしている。
そしてその一発を外せば、限界を再度超過したことによる休眠期に入る為、絶対に外せないのだ、と。
それはもはや希望ではない。希望は、その果てに絶望を強いるものなどでは決して無い。
そこに希望はもう無い。そこには、絶望しか無いのだ。
「エーデル……さんっ……ぅ、っぐ、……エー……デル、……さん……っ」
その絶望を色濃く宿した少女の身体に、女傭兵の身から霊銀が迸っては伝搬した。
思いを言葉に載せて伝えることが出来なかったから。
視線を通じて伝えることが出来なかったから。
だからエーデルは、最期の力を振り絞って自らの思いを込めた霊銀を、彼女に託したのだ。
しかし魔術で無ければ、霊銀そのものを使っての意思疎通など出来る訳がない。
そしてそのような魔術を、エーデルは修得してなどいなかった。
だから霊銀は――少女の、右前腕に刻まれた術式に伸び、無理矢理にそれを起動させた。
魔術式をすでに構築した霊基配列であれば、たとえそれが霊基配列の持ち主の意思とは関係なくとも、霊銀が通された時点で魔術は発動する。
少女の右前腕に刻まれた魔術紋は霊基配列では無いが、魔術式を構築し、霊銀を通すことで魔術を発動する、という機能は一緒だ。だからエーデルは彼女に刻まれた、ノヱルが彼女に齎した【銃の見做し児】を発動させたのだ。
それは勿論――自らの魂を依り代に、亡骸を主材として、シシに新たな武器を授けるため。
そしてその最中でシシに、自らの知恵と技術、経験、想いの全てを、託すためだった。
シシだけが知覚できる、停まってしまった時の流れの中で。
シシは、エーデルの魂と邂逅する。
「……エーデル、さん?」
その身が、輪郭が、色彩が、質量が――霊銀へと還元され、光の粒子となってさらさらと流れていく。
それらがシシの身体に吸い込まれ溶け込んでいく毎に、シシはエーデルの言葉にならなかった想いに打ちのめされた。




