死屍を抱いて獅子となる⑨
大蛇の形に創られた塩味の効いた八本の湖水の塊が湖畔の広場に激突した。
飛沫を散らし、一時的に波濤する高波はその場にいた四人の戦士たちを飲み込み、綺麗さっぱりと消し去った。
衝突の瞬間、彼らはその膨大な水の容量と質量とで圧し潰され、しかし飲み込まれて流されたおかげで周囲に血肉や臓物を散らさなかったことはまだ幸いと言えた。それは、残された者にとって、だったが。
「ふふ――次々と、行きますよ?」
不敵に笑みながら、神の沈鬱は手指の操作で霊銀を迸らせ、湖水を塊上に切り取っては形と命とを宿す。次いで現れたのは湖水で出来た熊の群れだ。六頭もの透明色の熊が雄叫びを上げ、【禁書】の前に立ちはだかる。
「っくそ、天に似てて気持ち悪ぃ!」
ノヱルは忌々しく言い捨てると、手に持つ銃を猟銃へと換装した。一撃の破壊力もそうだが、“撃ち込んで散らす”という効果が必要だと本能的に嗅ぎ取ったのだ。ただ穿つだけでは、簡単に再生してしまうだろうと。
「よいしょおおおおおっ!」
幅広の両手剣を振るうエーデルも、どうやらそのカラクリには気付いている。手傷を負わせるよりも、深く踏み込み深く斬り込んで、部位を切断する、という目的で振るわれた剣は、時に命中の直前で寝かせた刀身が熊型の頭部を打ち付け激しく水飛沫を弾かせた。
「頭だ! 頭を潰せば水に戻るよっ!」
「「「おうっ!」」」
熊に次いで現れた狼の群れも、狙うべき頭が向かってくるためそこまでの脅威にはならないと思われた。
水獣に有効なのは刺突よりも斬撃、斬撃よりも打撃――魔術を使える者も、物理的に塊を射出する型の魔術に切り替えて繰り出し始める。
ただし厄介なのはその数だ。彼らは膨大な湖水の量と戦っているとも言える。湖水が干上がらない限り、敵の増援が費える見込みは無い、そう思われた。
「――“白銀世界”!」
七つ指族の魔術士が圧縮された冷気を奔らせ、それを湖面で爆発させた。とたんに湖面は白く氷結し、天使の姿もまた凍結する。
「ぜあっ!」
ガシャン――相手が水だとて、根本的な戦い方は天獣と違わない――冷気を操る氷術が有効だということを確認した一同は、攻め手を見出して勢いを強めた。
「ちっ、氷使う魔術は苦手なんだよねぇ……その分叩きまくるとするさねぇっ!」
凍らせ、叩き、壊す。そのサイクルを繰り返し、着実に敵の数を削いでいく【禁書】――そこに現れたのが天獣だ。編隊飛行する五体の凧の天獣が西の空より現れ、頭部にただ空いているだけの空洞から翡翠色の炎を吐き出した。
途端に湖面は炎に包まれ、折角凍らせた水はたちまちに瑞々しさを取り戻す。
「――なかなかやりますね。少し、ひやっとしましたよ」
水獣の増援が追加される。今度は虎が三体だ。狼と同じく頭部が前にあるにはあるが、狼よりも身体が大きくその分重い。動きも鋭く、個々で十分に脅威になり得た。
「退けっ!」
そこで飛び出たのがノヱルだ。再び銃を雷銃へと換え、そして全身から呪詛のような黒い霊銀の瘴気を漂わせ、致命の一撃を繰り出そうと突出したのだ。
「――“神亡き世界の呱呱の聲”!!」
引鉄を押し込んで放たれた弾丸は、砲身を飛び出たその瞬間から雷条へと変化した。音よりも速く、それこそ光速で飛来するそれを避ける術は無く、幾百の雷撃が視界を埋め尽くすほどの密度で天獣と水獣、そして湖上の天使の身を貫く。
それだけでは終わらない。
まるで連鎖反応のように、貫かれた敵同士がさらに雷条で結ばれ、辺りは真っ白い爆光で覆われた。
誰もが手を翳して白熱する世界の様相から目を背ける。
光が過ぎ去った後、そこに残されていたのは五つの焼け焦げた霊銀結晶だ。
「……やったの?」
「シシ、静かに」
ざぱぁ――神の沈鬱が湖上に現れた。不敵な笑みはそのままに、そしてまた水獣の群れを湖水から召喚する。
「堂々巡りだな」
「そう言うなって――お互い尽き果てるまで繰り返すだけさ。ああ、何て素晴らしい戦場さね」
再度前線に上がってきたエーデルが軽く笑い、意気込んで先陣を切る。
戦況は振り出しに戻った――とは言えない。ノヱルは創られた存在だ、だから同じく創られた存在である天使の胸中を何となく察した。
彼らに疲れは無い。
しかし人間は違う、剰え勝利の兆しが潰えたのだ、その徒労感は甚だしい。故に持久戦に持ち込まれると弱い。
加えて、魔術を使えば使うほど、周囲の大気に満ちる霊銀の活性率が上昇していく。
霊銀とは“変貌の元素”だ。活性率が低い場合は特に他の元素と結び付くことも稀であり、それそのものが危険となることは少ない。
しかし何らかの理由により――多くは魔術の行使――励起され活性化されると、途端に他の元素と結び付こうとする。そして結び付いた元素を歪め、異なる形や異なる性質を発現させてしまうことがある。
だから魔術士は独自の呼吸法により、体内の活性化した霊銀を排出し、逆に体外の正常な霊銀を取り込む。これを怠り体内で霊銀が有機化してしまうと異形の存在へと変貌するからだ。死ぬだけならまだしも、危険な敵性存在――異獣へとなった場合、近くに存在する誰かすら危ぶめてしまう。
しかし戦闘が長期化すると、その場に漂う霊銀は全体的に活性率が上昇し飽和する。そうなるとただ呼吸をし、ただそこにいるだけでも致命的となる。
それに抗えるのは、創られた存在であるノヱルと、そして神の軍勢だけだ。人間は皆、異形として変貌する危険性を孕んでしまう。
「だっしゃらぁぁぁあああい!」
それを解っているのだろう、エーデルは魔術を行使せず剣戟だけで新たに繰り出された水獣たちを圧倒する。
同じく前線に駆け上がってきた戦士たちも、純粋な戦技のみで対抗する。そうなると段々と、押していた筈の戦況は逆転していく。
「風よっ!」
烈風が汚染された大気を吹き飛ばし、新鮮で清浄な空気で場を満たした。七つ指族の魔術士は冴えていた。再び【禁書】たちが優勢を取り戻す。
しかしあの天使をどうにかしなければ、結局はまた同じことの繰り返しだ。空間が穢れ、魔術を控えるようになり、水獣の群れが蹂躙し始める。
長い目で見れば膠着した戦闘と言える。【禁書】側も、異なる戦場に勝利を齎した一団が加勢に駆け付けたが、水獣の猛攻や天使の放つ流水の魔術に着々と命を散らしていく。
誰もの内側に焦燥があり、それは燻ぶるばかりで明るい未来を思い描けない、そのための打開策を見出せない。
そんな中でも、エーデルは笑っていた。だだっ広い草原を駆け回る子供のような無邪気な笑顔で、ただただ両手剣を振り回し、創られた仮初の命を弾けさせ続けた。
長ければ、それでいい――エーデルにとって戦場はもはや故郷だ。こんなに長い帰省は願ったり叶ったりだし、それに今はシシも後ろにいる。彼女にどれだけのものを遺してやれるかで、失うばかりの人生にも何か意味が生まれるのかもしれない――そんなささやかさが、彼女の中に希望の火を点していた。
そんなエーデルの奮戦を、シシは何も出来ずにただただ見詰めていた。
ここは戦場で、しかし自分はまだ戦士にはほど遠いと認識するシシは、だからこそ戦闘には参加せずに、守られているという立場に甘んじてエーデルの戦う姿を目に焼き付けている。
ただそこに突っ立っているようにしか見えない彼女も、しかし内面では戦っているも同然だ。
今にも駆け付けて未熟な銃剣を振り回したい衝動を必死に殺し、彼女は“見守る”という行為に徹する覚悟を、ただ剥がれないように繋ぎ止めているのだ。
「ノヱルっ! さっきのアレ、もう一発行けるかいっ!?」
エーデルが吼えた。最前線で繰り出される水獣の進軍を断ち刎ねながらノヱルの切り札の再行使を求めた。
ノヱルの切り札――|【神亡き世界の呱呱の聲】《ティル・ディアボリーク》は見た目通りの霊銀活性上昇率を誇る。だからそう問われたノヱルは眉を顰めたが、しかし風を呼べる七つ指族の魔術士は健在だ。まだ、使えないと断じるには早い。
「――あと二発ならな」
「そんな連れないこと言うなよぉ、二発と言わず、百発――」
「無茶言うなっ」
再び、ノヱルの身体から呪詛のようにどす黒い霊銀の帯が立ち昇る。
「総員、退避ぃっ!」
言うやエーデルは、両の足首に魔術円を展開して高度の低い、それでいて長い跳躍で最前線から飛び退いた。他の戦士たちも同様に、身を翻してノヱルと擦れ違い様に後方へと避難する。
前に出たノヱルが再び放った雷銃による凶悪なまでの殲滅の一撃は、先程と同じように巨大な放電膜を形成して誰しもの視界を白く染め上げた。
光が消え去った後の状況も変わらない。眼前には焼け焦げた地面と大気だけが広がっており、そして直後、また湖面にざぱりと神の沈鬱が現れるのだ。




