消えない肉沁み㉕
結局故障の原因は分かったが、修理のために停滞を余儀なくされる。
ノヱルがランゼルに習いながら修理を進める中で、エディとゾーイは就寝を、天と山犬は周囲の警戒を担当する。
シシはやはり、車体の側面であくせくと作業を進めるノヱルを暗闇を纏う双眸で睨み付けていた。
何かを考えることも億劫だ――このまま、自分は死んでしまうかもしれない。
そう思ってもシシにはやはり何かを自ら行う気力は湧いてこなかった。ノヱルのことをいくら睨み付けようとも、その根底にある感情が何なのか――きっと、いいものでは無いのだろうが――判らない以上、どうしたいという指針は無い。
やがてランゼルが就寝を取るために離脱し、機器の解析を中断したノヱルがその視線に気付く。
いや、ノヱルはずっと気付いていた。気付いていたのだが、敢えて何もしなかった。
「……お前、死ぬのか?」
ひょいと荷台に乗ったノヱルはシシの対面に腰を落ち着ける。
対するシシはノヱルの問いに肯定も否定もしない。
「山犬が心配していた。お前は眠らないし、食べないし……死ぬ気なんじゃないか、って」
だからどうした、と言おうとして、シシは自らの喉が涸れ果ててしまっていることに気付いた。肺の空気を押し出そうにも、まるで腹部には何も無い。ただただ本能が生きようと意識の及ばない外側で動かしている肉が蠕動しているだけ。
「別に己れはお前が生きようが死のうがどっちだっていい。己れに課されたのは“神の否定”――神を、神の軍勢をぶっ殺すことさえ出来ればお前ら人間のことなんてどうだっていいんだ」
一度荷台の床に落とした視線を、再び持ち上げる。
影の落ちた撫子色の髪が、東から吹き抜ける風にはらはらと踊る。
「……それ、そんなに大事なものか?」
告げてノヱルが指差したそれは、シシの両腕に抱き締められ彼女の薄い胸の中に収まっている。
シュヴァインさんの腕――脳内で出ない声を絞り出し、どうにかそれにはこくりと頷きたかったシシだったが、それすらやはり駄目だった。
もう三日三晩も飲まず食わず、剰え一時も寝ず、だ。そう出来るような体力は彼女の中に残っていない。
だから、滲んで薄ぼやけた視界の中で、そう問われて漸く気付いた。
「喰われてんぞ」
俄かに目を見開いた。
幾多のうぞうぞと蠢く蛆が、断面をびっしりと埋め尽くしていた。
瞬間――シシの中で、その感情が漸く名付けを得た。
どうして。
どうして。
どうして――――お前らが喰らうのか。
ふざけるな。
ふざけるな。
ふざけるな――――これは、お前らが喰っていいものじゃない!
憤慨、憎悪、怨嗟――そのどれとも違う、その感情の名は――。
――がつりっ。
「おお」
がつっ、みち、ぶちぃ。がっつ、がつり。
周囲を警戒しながら二人の遣り取りに耳を澄ませていた天も山犬も、突如耳に入り込んだ異常な音に慌てふためいて振り返った。
「……シシっ!?」
「わぁ、食べてる」
がぁつ、ぐち、ぐちゅ、はつ、ぁつ、がつり、ごぶ、ぐちゅ――――ごくり。
ゆっくりと、しかし確かに咬合し、咀嚼し、嚥下するシシ。
それは愛する人の腕。残された右腕。そこに蔓延る蛆とともに、シシはその腐った肉を喰らった。
「吐きなさい、シシ! その肉は――」
「止めんなよ」
「……ノヱルっ!」
「いいじゃねぇか、喰うってのは本来こうだろ。なぁ、山犬?」
問いかけられた山犬の微笑みは、聖母のように嫋かで、魔女のように艶やかだ。
「そうだ――喰えよ、死を。喰らえよ、命を。生きるってのはそういうことだ」
シシ――生きろ。
鼓膜の奥で重なる、愛しい人の最期の言葉――最期の願い。
嚥下した腐肉の瑞々しさが吐き気とともに、涸れた筈の涙を込み上げる。
「そいつがお前に望んだ“生きる”ってのは、残酷で残虐で無残極まりない――幾多の命を殺して殺して殺し尽くして、漸く手に入るようなクソみたいなもんだ」
声の主を睨み付けながら、いつか必ず殺してやると強く誓いながら、落ち窪んだ双眸に危険な耀きを宿して咬合を繰り返すシシ。
「それでも生きて欲しいって――お前は願われたんだよ」
ガチンと脳髄に奔った激痛は、どうしてだろうか。
眼前で自分を見下ろす撫子髪の青年の強そうな顔が弱々しく翳ったからか。
ぼりぼりと右の側頭部を掻き毟るノヱル。
シシには分からなかったが、彼の目にはかつての狂人に刷り込まれた、十人の孤児たちが笑い合う幻影が映っている。
「生きろよ。お前が死んだらそれこそジジィは犬死にだ」
「——生きるよ」
「おう」
「生きる、生きてやる! 生きて、天獣を、天使を殺してやる! 神を殺してやる! お前を、殺してやる!」
「はっ、上等だ――」
にたりつくノヱルは立ち上がると、頸部に内蔵する人造霊脊を旋回させてはその術式を右の掌に展開し、それと同時に歩み寄った先でシシが両手でしっかりと掴む故人の右腕を左手でするりと抜き取った。
「――っ! 返っ」
「“銃の見做し児”」
魔法円が淡く紫色に光る右手が僅かに剥き出しになった骨に触れると、魔法円から溢れ出した術式が幾つもの帯となってその輪郭を歪めていく。
「ぁ……」
「“銃剣”――――餞別だ、くれてやる」
取り返そうと伸ばした枯れ枝のような弱々しい手に握られたのは、護拳部に引鉄のついたようなひと振りの軍刀――艶消しの黒の刀身には、根元に砲身が備わっており、鍔と柄の境界には六連装の回転式弾倉が座している。
鞘から抜き放った刀身に刃紋は無く、代わりに切羽から切先へと薄く輝く筋が流れている。
柄を握り、その全身に視線を落としながらきょとんとシシがしていると、銃剣の輪郭が淡く輝き、シシの右腕に吸い込まれるように溶けていった。
後に残ったのは、まるでトライバル・タトゥーのような右肘から右手の甲にかけて刻まれた模様――魔術紋だけ。
その魔術紋を左手の指でなぞり、顔を上げたシシ。
見下ろすノヱルは鼻から溜め息を吐くと、シシの隣を摺り抜けて荷台からひょいと跳び降りた。
「弾の創り方はまた教えてやる。刀の振り方は天にでも訊け。ただし、お前が死にたいなら話は別だ」
「……何で?」
「何で? 何が?」
「何で、ボクにこれを?」
「己れを殺すんだろ? そいつを見捨てた己れを殺すんだったら――己れに見捨てられたそいつで殺すのが一番いいだろ」
「ふざけるなっ!」
感情に呼応して溢れ出した術式が再び銃剣を象る。
同時にノヱルもまた、自らの術式を展開して右手に輝く騎銃を編み上げた。
ガチャリ――振り上げられた刀身と、突き付けられた銃口。どちらが早いかなんて、判りきっている。
「いいぜ――そんな感じでいつでも来いよ、寝首を掻きに来い。最も、己れは眠らないけどな?」
「殺してやるっ……お前を、絶対、絶対に殺してやるっ!」
悔しさのあまり、奥歯で苦渋を噛み殺すような。
憎しさのあまり、犬歯を突き立て噛み千切ろうとするような。
虚しさのあまり、誰かの命を恨んでそれを糧とし噛み砕くような。
侘しさのあまり、死屍累々の上で憎悪と怨嗟とで腹を膨れさすような。
命を奪い、生きようとする激烈な欲動。
その名は、きっと“悔恨”だった。
◆
Ⅱ;消えない肉沁み
-Meatpia-
――――――――――fin.
◆
シュヴァインさん。
シュヴァインさん。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ボクは生きます。
あなたの死を喰らってボクは生きます。
本当はずっと、あなたと一緒にいたかった。
最期の日まで、ずっとあなたといたかった。
あなたがいなくなった時も、本当ならばボクが死ぬべきだった。
だってボクは、食肉だったのだから。
あなたにそう、育てられたのだから。
胸を張って、食べられるべきだった。
美味しいでしょ、って――
でもまたうまく、そうできなかった。
だから代わりにあなたが食べられた。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
だからボクは生きます。
あなたの死を喰らってボクは生きます。
いつかあなたを喰らったことを忘れて、食肉だったことも忘れて。
ボクでは無い、あなたでは無い、違う命を奪い喰らって生きます。
幾つもの、それこそ幾千もの命を奪って――そうしてボクは生きていきます。
そうでないのなら。
どうしてあなたの死を喰らい、
ボクは生きなければならなかったのでしょうか。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
控えめに言ってエゲつない表現を多用させていただきましたが、お気分悪くなってはいませんでしょうか。
今後は今章よりもイメージとしてはマイルドな、しかしその分社会的・精神的にエゲつない物語を連ねていきます。
断言しますが、すかっとはしません。薄暗くて、重苦しくて、胸焼けするような。そんな、気持ち悪い話が続いて参ります。
さて。次章の準備をさせていただきます。
ひとつきほどお時間をいただきたいと思っておりますので、今しばらくお待ちいただければと存じます。
それでは、久々の唱和となりますが――宜候。




