消えない肉沁み㉑
ガチン――“山犬、神を喰い殺せ”
ガチン――“お前は獣”
ガチン――“万象悉く貪り盡せ”
「“ 饕 餮 ”」
刹那、反転する人造霊脊の配列。
躯体の中枢、魂の座に刻まれた“獣の数字”が逆転する。
6と6と6――それが、9と9と9へと。
それは、1,000に届かない、999の数字。
白かった柔肌が、死病に伏した者のように黒ずみ始めた。
病み色の斑点は蔓延し、その肌を暗褐色へと染め上げる。呼応するように、鮮やかな柘榴の果肉のようだった頭髪も暗く翳る。
鮮血色の虹彩に刻まれた、斜十字の瞳孔は開き、菱型へと移ろった。
病み色の輪郭から迸る、黒い瘴気のような呪詛の群れ。
それは中空に放り出されたノヱルに放たれた天使たちの致命の攻撃を、強制的に吸い寄せる。
「何だとっ!?」
「何でっ!?」
反転したのは何も、数字だけの話では無い。
本来ならばその咽頭——食道の入り口に円環状に展開されていた術式が、体表全てを包み込んだのだ。
それはつまり——山犬の黒ずんだ病み色の肌そのものが、全てを喰らい尽くす胃袋となったということだ。
だから赤熱の棘の数々も。
灼熱に燃え上がる業火球も。
滲む呪詛の引力に吸い寄せられて着弾した瞬間に、霊銀に分解され彼女の動力へと変換された。
「山犬、よくやっ——痛ぇっ!」
目を見張ったノヱルは賞賛を口に発したが、ちょうどその瞬間に重力により地面に叩き付けられた。
その様子を視界に入れていた山犬は思わず吹き出し——吹き飛ばしたのは自分であるにも関わらず、である——目の端に涙を滲ませながら小さな溜息を吐く。
「本当、様になんないなぁ!」
言葉は打ち切ったが、本来その後に続くのは「だから好きなんだよね」だ。
じんわりと胸の奥に生まれた温みに微笑んだ山犬は、遠く驚愕する二体の天使にその微笑みを深化させて淫魔めいた蕩け顔を見せつけると、お決まりの語彙を少しだけ変えて解き放つ。
「ねぇ、きもちいいことして?
エロくて、
エモくて、
とぉ、っっつても————エグいやつ」
その有り様に、二人の天使は身動ぎを禁じ得なかった。
だが不死性ならば自ら達にも宿っている。
神が与え賜うた、二人ならばあらゆる傷を排斥し得る絶対のものが。
それを想い起こし、二人が瞬間抱いた恐怖を棄却した時。
「余所見は禁物だろ?」
ふふふと笑んだ蒼い悪魔の一薙ぎが神の被虐の脇腹へと捩じ込まれ、その身を鋭く真横に吹き飛ばした。
天は敢えて、刀の峰を叩き付けていた。
その衝撃は巨獣の山犬がこの培養施設に飛び込んで来た時には劣るも、吹き抜けとなった壁の大穴を抜けて事務所棟の前に到達するほどには激しいものであり、神の被虐は20メートル強飛翔した後で舗装路の上を三度バウンドし、表皮を削られながら4メートル程滑走した。
彼女が滑り込んだ軌跡には血の代わりに緋色の炎がチカチカと火花を爆ぜさせた。
「貴様ぁっ!」
振り抜いたまま残心する天に神の嗜虐は手を差し向けて赤熱の棘を放つ。
しかしやはりその攻撃もまた、病み色の山犬に吸い寄せられ無効化された。
「なら——貴様からだぁっ!」
山犬へと向き直った神の嗜虐は両手に夥しい霊銀の奔流——霊脈を素早く築き上げると、撒き散らすような仕草でそれを周囲に波濤させた。
霊脈は山犬を取り囲むように百を超える棘を産出したが、やはりそれが山犬を貫くなどということは無く。
「うーん、ちょっと——薄味かなぁ?」
表皮でそれを味わった山犬は微妙な感想を吐き、パンキッシュ天使を驚愕で震え上がらせた。
「ふふ——ガラ空きだぞ?」
その真横へと歩んだ天が振り上げた蒼刃は凶悪な速度で振り抜かれ、神の嗜虐の身体を前後に等分した。
復元は————今、起きた。
「——っ!?」
我に帰り飛び退く神の嗜虐。破顔する悪魔武士は嘲るように言い捨てる。
「タネは割れた。道理で番でいる筈だ、その距離が隔てられる程に復元——同期と言った方が適切か。その間隔は長くなる」
「く、くはっ、くははぁっ! だからどうしたよ!? 俺様の殺し方ならそれじゃ半分だぜぇっ!」
「知ってるよ。同期されるその前に、二人共々殺し切る――大方、そんなもんだろ?」
「な――っ」
そして神の嗜虐が視線を向けたのは、同期によって摩耗した表面を復元させ漸く立ち上がった神の被虐を狙う、長大な銃を片膝立ちで狙う白い悪魔。
「逃げっ――」
「“鳥銃”――“神亡き世界の呱呱の聲”!」
空間を破砕する轟音を響かせて射出された黒い弾丸は、放たれた直後から隼の形状へと変貌すると、鋭い飛翔を見せて飛び上がろうと四翼を広げたばかりの神の被虐の胸の中心へと衝突し。
「ああ、ああああああ――――」
穿たれた胸の中心から黒い羽根が飛び散り霧散する。
幾百もの黒い羽根が舞い散る後には、天使の姿は一切残っていなかった。
(まだだ……まだ俺様が残っている。同期が始まれば相棒は復活する!)
必死の形相となった神の嗜虐は四翼をはためかせて再び上空へと跳躍した。
ぐるりと身を翻して目指すのは培養施設の奥へと続く鉄扉だ。
大技を使ったばかりのノヱルは反動でまだ動けずにいるし、【饕餮】状態の山犬は能力すら反転してしまっているため事実一般人よりも走力は劣る。
その二人には神の嗜虐に追撃することは叶わない。
だから、ここでそうできたのは唯一人だけ。
「何と不自由な選択だろうか――貴様は枷だらけだ、天使。そんな貴様に真の自由をくれてやる。何にも縛られず、何をも縛らない真実の自由――――」
斬閃は伸び、ぐちゃぐちゃな軌道を描いて襲来する。一度その身に触れたなら突き抜け、肉の内から更に複雑な経路で縦横無尽に蹂躙し、細切れにされた天使をさらに挽肉へと変えていく。
「お気に召されよ」
鯉口に切羽がキンと鳴る。それと同時に、地面に無惨に散らばった挽肉に緋色の炎が灯り、また事務所棟の前に散らばった黒い羽根も同様に激しく燃え上がった。
後には、一際大きい焦げ付いた霊銀結晶が残っているだけだった。
「さて――追い縋りましょう」
白鞘に刀を納めたことで【神斬武士】は解除され蒼い悪魔の様相は棄却される。
同様に白い悪魔の状態から元に戻ったノヱルと、【饕餮】から戻った山犬を一瞥した天は、壁に空いた大穴から表へと駆け出る。
「おい、待て!」
「うー、お腹いっぱいで走りたくないよぅ!」
その背を追って二人もまた事務所棟へと駆け出した。
「――――シュヴァインさんっ!!」
一方その頃、剣を振り抜いて12体目の捕食者を斬殺したエディは、その隣で振り下ろした斧を巨大な口に噛み留められてしまったシュヴァインの窮地に荒げた声で叫び上げていた。




