消えない肉沁み⑲
「天、大丈夫かな? 大丈夫だよね?」
シュヴァインの肩を揺らすシシは明らかに動揺している。しかしそれはシュヴァインも同様だ。
出来ることなら天を援けたい――しかしそんな能力を持ち合わせていないことを知っている二人だからこそ、せめて見守りたいという気持ちが強く湧き出ている。
だが研究棟一階の培養施設、その大きく空いた穴の表には、自らと同じく見守ろうと犇めく豚面の兵たちがいる。
その輪には入って行けない。
そこで捕まってしまえば、天が切り開いてくれた自由への道を、文字通りの献身を、裏切ってしまうことになる。
「……天なら、大丈夫だ」
「本当?」
「ああ。だから、儂らは先に駐車場へと向かおう」
「……うん、わかった」
実の所、シシはまだ自分がどうしたいかを決め切れていない。ただ運命に弄ばれるまま流れに身を委ねているだけだ。
そしてそれが天の意に、天が最も尊重すると告げた“自由意志”に反することに心をきりきりと軋ませている。
決めなければならない。
食肉としての自分を誇り、シュヴァインのこれまでを肯定するか。
自由を以て自らの肢で歩み、シュヴァインのこれまでを否定するか。
全てを知った今、そのどちらかを選択しなければならない。
(ボク……どうしたらいいんだろう……)
食肉としての矜持を選ぶなら、シュヴァインの願いに反して命を散らすことになる。
自由を選び命を運ぶなら、シュヴァインが施してくれたこれまでの全てを嘘だと認めてしまうことになる。
そのどちらもを、シシは選びたくなかった。
シュヴァインの願いを叶えたい、しかしこれまでの記憶が嘘の上に成り立っていたとは認めたくないのだ。
認めてしまえば、シュヴァインが自分を騙していたことになるのだから。
自分は、愛する人にずっと騙され続けてきたのだと――
「ぐぉっ!」
「がぁっ!」
「ぎゃっ!」
「ぐびぃ!」
巻き込まれ、串刺しになった豚面たちが思い思いの断末魔を叫び上げる。
「クソがっ! デカい図体のくせに動きやがるな!」
「馬鹿かっ、動かなければ殺られるだけだろっ!」
撃ち出される銃弾の直撃を意に介さず神の嗜虐は赤熱の棘を繰り出し、しかしノヱルが背に乗る山犬は縦横無尽とも言える見事な獣の機動で棘の生成よりも遙かに速く移ろう。
対照的に天はほぼ動かず、また動いたとしても非常に緩慢な泥土の如き速度の運足を見せ、しかし鉄砲水の如き刀速で振り抜かれた蒼刃が歪な軌道を描いて二体の天使それぞれの身体を斬り刻む。
弾丸は確かに穿つ。
斬閃も確かに断つ。
だが結局、その直後に何事も無かったかのように手傷は癒えてしまうのだ、消えてしまうのだ。
その謎を紐解かなければ、神殺しと言えどこの二体の天使を殺し切ることは出来ない。
「あはは、何やっても無駄だよぉっ!?」
下卑た嗤い声を上げながら神の被虐が放った業火球は山犬の影を掠めて南側の壁に着弾すると10メートルの高さを誇る壁面いっぱいに拡がる爆炎を生み出しては衝撃を伴う熱波をはためかせた。
その熱量を培養管の影に隠れてどうにか免れたエディは、その視線の先に大穴で見守る豚面たちの向こう側で駆け抜けようとするふたつの人影を垣間見た。
(――シュヴァインさんっ!)
立ち上がり、駆け出すエディ。
ここにいても正直、この戦いについていけるほどの人外じみた力など持ち合わせていない。そしてその姿を見たのなら、探し当てることが出来たのなら。
援けないわけにはいかない。
「退けぇっ!」
エディは16歳と若くとも、神に抗う【禁書】の歴は長く今や中堅だ。
食肉の楽園へ潜入を開始する前には単独で天使を討ち取った交戦経験もある――寧ろそれが無ければ【偽装の指輪】に天使の姿を格納できない。
だから、慌てふためいた食べる人族の兵4人程度なら、例え左手の指を二本失っていたとしても簡単に無力化出来るほどの実力はあるのだ。
「げひっ!」
「ごばっ!」
「ばがらっ!」
「ばうちっ!」
培養施設から抜け出したエディは、駐車場へとひた走る二つの人影を追う。
そして目的地まであと数歩、というところで追いつかれた二人は――突如として眼前に現れた異形たちに戦慄し、足を止めてしまった。
「シュヴァインさんっ!」
左手で制し、右手で握る直剣を構えるエディ。その背を見遣り、奥歯を震わせる二人は身を寄せ合いながらたじろぐ。
「君は――」
「16年前、あなたに取り上げていただいた者です。名を、エディ・ブルミット――“禁書”と言えば判りますよね?」
「“禁書”――っ! じゃあ、君が、」
「はい。遅くなりましたが、お迎えに馳せ参じました。しかし――」
駐車場の上層階から飛び降りて現れた異形――直接的に表現するなら、“肥大した捕食器官を持つ大柄な真なる人族”と言うべきか。
まるで食べる人族のように膨れ上がった胴体を持ち、脂肪に包まれて首は見えず、しかし四肢はか細く、目は白く濁っており、肌は紫色に変色している。
最たる特徴は――口から臍までにかけて縦に走る裂け目。それががばりと開き、黄色く濁った無数の牙を備えた捕食器官だと判った。
「“捕食者”――まだ研究段階だと思っていたのに」
「“捕食者”? 知っているのか、エディ君?」
「はい、食肉の楽園に潜入した際に愚かな天使から教えてもらいました。培養して育てた食肉の一部を改造して、こういった化け物を創っていると」
「どうして……こんなものを……」
「共食いをさせたいのだそうです――それが滑稽で堪らないから、と」
それは驚愕の事実だと言えるだろう。
天使は機械人形同様に補給を必要としない。空間に霊銀さえあれば吸気によりそれを取り込んで動力を得ることが出来る。
しかし多くの機械人形と異なるのは、山犬のように嚥下したものを霊銀へと還元してこれまた動力へと変換できることだ。
だから天使は、ほぼ趣味の延長だが食事を摂ることが出来る。
ゆえにシュヴァインは当初、天使が食肉の楽園を創ったのは、獣人種族を長らく虐げてきた真なる人族への罰であり、加えて食に興味を覚えた天使の舌を唸らせる肉を開発するためだと認識していた。
事実彼はそういう風に教わって育ったし、他の食べる人族の職員たちも同じだ。皆一様に、食肉の楽園とはそういう施設だと思ってきた。
しかしエディによって聞かされた真実はそれとは異なっていた。
人が、人を喰らう姿を見たいから。
滑稽だから、笑えるから。
ただそれだけの理由のためにこの施設は創られ、50年以上も食肉の研究を行い、運営されてきたのだ。シュヴァインもまた、同じだけの年月を捧げてきたのだ。
「そんな……そんな……」
「シュヴァインさん……」
力抜け、膝から崩れてしまったシュヴァインを支えるシシ。その二人を庇うエディの前には、次々と落ちて来ては立ち上がる捕食者の数が12体となった。
「ここは俺が切り開きます、二人は走る準備を」
そしてエディは術式を構築するとそれを左手に纏わせた。魔法円が二つ指を失った左手に展開されて煌めくと、三人の輪郭を薄ら白く光る霊銀の膜が覆う――万が一のための防護魔術だ。
「命を取り上げていただき、そして運命を変えていただいた――俺にはあなたに報いるための理由が二つもあるんです。全うさせていただきますよ!」
最も近い捕食者に突進したエディ。捕食者は巨大な縦開きの口をかぱぁと開くと大人の腕の太さはある長い舌を射出してエディを絡め取ろうとする。
それを掬いあげるような剣閃で断ち切ったエディは、伸びた上体を低く落としながら斜めに振り下ろした剣で捕食者の右足を深く斬り払った。
「ヴィオオオオオ!」
巨体ゆえにバランスを崩して真横に転がった捕食者。天獣や魔獣のような再生能力は無く、肥大した胴体のために自分で起き上がれもしない。だから放っておく。
「右側が手薄です。行きますよっ!」
短い跳躍で一歩後退したエディは、再び鋭い前進からの切り崩しで捕食者を斬り屠る。戸惑いながらもその背を追従する二人。
しかし運命は、そう簡単に安寧を齎してはくれない。
捕食者は、食べるからこそ捕食者なのだ。