消えない肉沁み⑬
「何が起きてる!?」
三人が宿舎から出て来たのと工場から轟音が響いてきたのはほぼ同時だった。
他の宿舎からも慌てふためいた飼育員と食肉たちが夜空の下へと駆け出し、顔と顔とを見合わせて困惑を確かめ合う。
楽園内の至るところに設置された赤色灯が危険を報せる赤色の輝きを放ち、けたたましく警報を鳴らしている。
「工場で何かあったのか?」
「こんなことこれまで一度も」
「あれ、見てっ!」
思い思いの喧騒を繰り広げる中、一人の食べる人族の女性飼育員が指差した。
宿舎にほど近い棟、その鉄壁をぶち抜いて現れた大型の魔獣。
夥しく血を被ったかのような鮮烈な柘榴色の毛並みを揺らしながら、閉じた口の端から本物の血と肉とを垂らす、狼の形状をした巨獣だ。
「……山犬」
「え?」
天の呟きにシシが問いを発したが、冷たい微笑を浮かべる彼は答えない。
細めた目で同胞の変貌した姿を確認した天は、素早く首を回してシシとシュヴァインとを向いて諭す。
「アレは危険です。いつもの彼女ならそんなことは無いのですが、あの姿の彼女は見境がつかない――混乱に乗じて移動しましょう」
「あ、ああ……」
遠くに絶叫、近くで悲鳴が上がる中、三人は逃げ惑う人々に隠れるように先ずは宿舎の裏手へと回る。
【神殺す獣】となった山犬は遁走する餌に狙いを定めるとゴクリと喉を鳴らし、口許に未だ垂れる血を舐めずって大きな肢で地面を蹴った。
「うああああああっ!」
ダォンッ――ひとっ跳びで10メートル以上の隔絶を無かったことにした【神殺す獣】は前脚で踏み付けて絶命させた食べる人族を噛み込み咀嚼する。
「増援を呼べ!」
「天使様が来るまで持ち堪えろ!」
棟から現れた豚面の衛兵たちは手に手に持つ剣と盾、槍や十字弓をそれぞれに構えて山犬を取り囲もうと走る。
しかし眼中に無い山犬は逃げ切れずに転んでしまった食肉の女の子を掬うように裂けた口に頬張ると、骨や衣服など気に留めずにバリゴリグチリと咬合する。
「我、来たれり! 与えられし位階は天使、名は――」
ごぶり――――棟の高層階から漸く舞い降りた天使の一人を、その名乗りが言い終わる前に喰らった山犬に、取り囲んだ衛兵たちは膝を震わせた。
次々と現れる天使の数は6体。
知っている。この上質な肉は、さっさと飲み込まなければ火の粉となって消えてしまう――だから山犬は豚肉には目もくれずに踏み付けて挽肉にすると、その脚で跳び上がって赤く濡れた牙を剥く。
宿舎の影で、その様子をしばし三人は見守った。
「……相変わらず、食い意地が張っていますね。そこは彼女も変わらない」
呆れた笑みの吐息を零す天の独り言を、シシは聞いていない。
シュヴァインが作ってくれた教科書に載っていた、“食べる”という行為を。
シシはその目に、初めて映したのだ。
こんなにも残酷で。
こんなにも残虐で。
こんなにも――――無残。
これが、“食べる”ということなのか?
あれが、“食べられる”ということなのか?
それはもっと敬虔で、崇高な営みの筈で――決してあんな、惨たらしいものでいい筈が――
「……シシ、大丈夫ですか?」
奥歯の噛み合わない蒼褪めたシシに向けられた天の表情はやはり、天使のような美しさで――だからこそそれは、何よりも悪魔めいている。
「いい機会だからよく見ておくといいですよ。今下手に動くと、賤方たちも狙われるかもしれませんからね……シシ、あれが“食べる”ということです」
血と肉が散り、分かれ、断たれ、爆ぜ、飛沫が上がり、撒き散らされ――見事に喰い散らかされていく。
「命を奪う、ということです――まぁ彼女は少し、遣り過ぎな面は否めませんが」
6体の天使をほぼ瞬時に噛み殺した山犬は、飽き足らず豚面の兵たちを身に纏う鎧ごと噛み砕いて飲み込む。
彼らの振るう剣や槍の一閃、或いは一薙ぎなど巨獣の肉体には全く意味を持たない。運よく傷つけられたとしても山犬の持つ凶悪なまでの再生能力は瞬きのうちにその傷口を塞いでしまう。
しかし増援がまたも現れる。今度はノヱルのように魔器で武装した小隊に大天使が2体。そのうちの1体が腰から抜いた剣で空を斬ると、開いた門はフリュドリィスで交戦した上半身の天獣を3体送り出した。
「今のうちに行きましょう。彼女の目と牙が、彼らに向いている内に」
「ああ――シシ、行くぞ」
「う……うん……」
手を引かれるシシはしかし、まだ山犬の肉を喰らう姿を目に焼き付けていた。いや、主体的にそうしていたのではない、ただその光景から、どうしても目を離すことが出来なかったのだ。
一方――山犬が【神殺す獣】へと変貌して瓦解させた地下牢の区画では。
「っくそ、あいつ……己れの牢も壊していけよ……」
唯一取り残されたノヱルが未だ、霊硝に閉ざされた牢の中で頭を抱えていた。
一枚隔てた向こう側は壁と天井が貫かれて吹き抜けとなり、跳び上がる際に山犬の踏み散らかした血と肉片とが辺りを赤黒く染め上げている。
ふと、ノヱルは気付いた。
確かに廊下と牢とを、牢と牢とを隔てている霊硝は撃ち抜けない。
しかし床と天井は鉄だ。鉄なら、猟銃の至近銃撃でも十分に穴を穿つことが出来る。
問題は――
「己れが通れるくらいの穴を、どうやって空けるか、だが……」
こうして思考を巡らせているうちにも、山犬はこの食肉の楽園に存在する天使を蹂躙していくだろう。それだけならばまだいい。
しかしああも凶暴で強靭な山犬にも、弱点は二つある。
まずひとつ――彼女は、恐ろしいほどの短期決戦型だということ。
彼女の行使する【神殺す獣】は彼女の溜め込める容積のおよそ半分ほどの動力を消費する。
変身だけでもそれだけを消費するのに、その姿を維持するためにも1秒ごとに動力は少しずつ失われていく。
山犬にとって動力とは血液であり、体力であり、気力だ。餓えていくほどに生存本能から来る食欲――攻撃性能は高まっていくが、動力を得られなければ、つまり“餌”を喰らえなければやがて枯渇し休眠状態となる。
そしてより致命的なもうひとつが――彼女は、あらゆるものを喰らってしまうということ。
口に頬張れるものなら真に何でも、それが病毒だろうが呪物だろうがお構いなしに咀嚼し嚥下し喉に施された機能で動力へと変換する。
しかし喰らうものはそれだけでは無い――彼女は、喰えないものであったとしても喰らってしまう。
特に、敵からの攻撃を、山犬は喰らってしまうのだ。
それは【神殺す獣】の器として設計された彼女の、構造上の欠陥だった。刻まれた呪いのような命題が、正しく呪いを齎しているのだ。
そして攻撃を喰らうからにはいつか傷つく。
傷ついたのなら彼女の再生能力はその意思に関わらず自動的に機能を発揮し、より一層の動力を消費する。
そして、枯渇に近付くのだ。
だからこそノヱルは焦っている。何故なら彼には、この食肉の楽園に存在する天使の数が判る。無論天使だけではなく、神の軍勢ならば神も、そして天獣もその存在する数と大まかな強さを察知できる。
そして今しがた、天使は門を開き、天獣を召喚した。
一か所ではない、複数個所で事態収束のために天獣の召喚が行われているのだ。今現在も。
その数は爆発的に膨れ上がっていく――いくら天使よりも下位の存在とはいえ、世界において最も強い力とは“数”である。そうでなければ“粛聖”の時まで真なる人族が覇権を握れていた理由は無い。
「――――っ」
大きく溜息を吐いた。山犬の性能は自分なんかとは段違いだが、それでも増え続ける数に減り続ける動力が劣らない確証は無い。
「……出し惜しみしてる場合かよ」
固く握った拳骨で額を小突いたノヱルは人造霊脊を円転させる。
鉄床あるいは天井に自分が通れるほどの大穴を空けることも。
頑丈にも程がある眼前の霊硝を割り砕くことも。
白い悪魔となった彼の放つ、猟銃による【神亡き世界の呱呱の聲】ならば可能だ。
「“世を葬るは人の業”――」
肌が見る見るうちに蒼褪め、額の左右に走った亀裂から赤い角が伸びる。
淡い撫子色の毛髪は新雪のような色合いに濯がれていき、迸る霊銀は硝煙のように黒い霧となって彼の身体に纏わりつく。
しかし。
「待てっ!」
見開いた目に映ったのは――天使。
しかしノヱルの索敵機能に、彼の存在は映っていない。つまり、それは偽りを纏う、おそらくは真なる人族。
逆再生のように肌も髪も角も戻っていくノヱル。白銀の短髪天使は霊硝を挟んで彼の目の前まで来ると、一度惨状を見渡して再びノヱルに向き直る。
「……君は、“禁書”か?」