消えない肉沁み⑩
「神の償いは死んだ。元からそのつもりだった」
「え?」
次なる天使は“神の贖い”と名乗った。その位階は“座天使”、前任者と同じ嘯きだった。
天使には寿命や老化という概念が存在しない。創られたなら棄却されるか屠られるまで永遠に同じ姿かたちと能力を義務付けられる。
しかし天使の姿を纏う人間は違う。人種によってその寿命はまちまちだが、最も短命な真なる人族は概ね80歳も生きれば長命に類する。
勿論老化による衰え、経年劣化は避けられない。だからその時が来れば身代わりとなって暴かれ裁かれる。
逆にそうすることによって、暴いた偽天使は嫌疑の対象外となる。いずれは披見されるだろう策だが、真なる人族の残党は魔術にも聡い。露見される前に次なる策を見出すのも時間の問題と思えた。
神の償いの中身はすでに齢70を超えていた。神の贖いの中身はまだ20代の勇敢な青年だった。
シュヴァインは、38歳になろうとしていた。
毎年毎年、春先に生まれたばかりの赤子を売る。
それ以外は特に取り立てて語ることの無い、取り上げた赤子を育て上げ、一級品の食肉として出荷する。
毎日は愛情の矛先がはしゃぎ、笑い、陽光のように暖かな風景が広がっている。
街並みは色付き、絶え間なく過ぎる時は新たな出会いと新たな別れを運び、ただただ機が満ちるのを待ち続ける。
待つ間、どれほどの血の涙を流しただろうか――50歳を迎える頃には涸れたように感じた。
段々と、食肉たちがちゃんと美味しく食べられただろうかだなんていう想いに駆られるようになっていく。
自分の立ち位置が、引かれた線のどちら側にあるかが見えづらくなっていく。
それほどに月日は彼の信念を削ぎ、堆積した埃に被さってあるかどうかも判らなくなる。
身体が思うように動かなく、硬くなっていき、勤勉な性分と信念に裏付けられた丁寧な仕事もうまく成果を出せなくなっていく。
「シュヴァイン・ベハイテン――長年の勤務、ご苦労だった」
神の息吹の直属の大天使が彼に告げた。
彼は食肉の飼育に、もはや不適当だと。
狼狽するシュヴァイン――食肉の楽園での職務を失えば、彼らへの協力が途絶えてしまう。
だから声を荒げるように、叫ぶように言い放った。
「あと一人――あと一人だけ、育てさせてください」
そして51歳の時――彼は未熟児である女の赤子を取り上げた。
春先に生まれた彼女は、しかし未熟児であったがために売り出されることは無かった。
「……育て上げるんだ。うまく遣り過ごして成熟を待て」
「成熟を?」
「そうだ。私たちももう、ここには来れないかもしれない。組織のことが薄々と勘付かれ始めている」
「そんな……」
「これを」
神の贖いは丸められた一枚の紙を手渡した。厚く滑らかなそれは、獣皮を鞣して造られた高級品だった。燃えにくく破れにくい、重要な文書に使われるものだった。
「これは?」
「15年――15年待ってくれ。きっとその頃には私はいないだろうが、私の仲間が、後続の希望が必ず、その場所で君たちを待つ」
広げた獣皮紙に記された暗号は、読み解いてグラフにすれば地図となるものだった。勿論、その解き方をシュヴァインは知っている。
「ご達者で」
「……はい」
最後に取り上げた赤子には、管理番号を捩った“シシ”という名を付けた。
ひどく小さな身体で生まれた彼女はすくすくと育ったが、非常にきわどい調整を施さなければならなかった。
肥し過ぎては出荷される。だから食事は蛋白質を多めに、糖質と特に脂質は控えさせた。
いつもなら語らい眠る時間を運動と勉強とに充てた。もしも道半ばで自分がいなくなってしまったとしても、一人でも生きていけるようにしなければならなかった。
道具の使い方、調理の仕方、裁縫の仕方――――教えるべきことは多くあった。
引き換えに注ぐべき愛情を削った筈だった。それでもいつしか、その成長を愛おしく思うようになった。
叱ることもあった。泣くこともあった。
一度屋根から落ちて大怪我をした時は頬を張った。眦に滲む涙にはっと我に返り、身が軋むほど強く抱き締めた。
決して手放したくなかった。もはや、彼女が組織に辿り着こうが着くまいがどうでも良かった。ただただ生きてほしかった、生き延びてほしかった。
けれど食肉の楽園では、“食べられる”ことが至上の喜びであり、それを徹底して叩き込まなければ何もかもが綻ぶ。
だからその時が来るまでは真意を嘘で塗り固めた。シシは何も知らずただ“食べられる”ために日々を育ち、延々と“食べられない”自分を恥じ続けた。
何度も何度も、彼女に心の中で謝った。懺悔した。
それでも命のためだと楔を刺し込み、信念が剥がれ落ちないように固定した。
シュヴァインは66歳になった。
シシは、15歳を迎えた。
◆
「……ありがとうございます」
まるで懺悔のような老人の語りを聴き終えた天は、変わらぬ微笑みのままで頭を深く下げた。
憑き物が落ちたようにシュヴァインは心の軽くなった感覚に少しだけ身動ぎし、細めた目で琥珀色の食卓に視線を落とす。
――これで、良かったのだろうか。
ふとシュヴァインの脳裏に浮かび上がった疑問は、果たして何に対するものだったのか。
天に全てを語ったことだろうか、シシを欺き続けていることだろうか、それとも。
それとも、神の軍勢に蹂躙され尽くしてなお、真なる人族の復興を願っていることだろうか。
「いくつか質問させていただいても宜しいですか?」
「ああ……構わんよ」
「では――――先ず」
シュヴァインは疲れ切ってしまっていた。シシが15歳を迎え、もうすぐこの日々にも終止符が打たれる期待にこれまでの緊張を失いつつあった。
だから、一切気付くことが無かったのだ。
「先ず、このお話はシシには秘密、ということで良いんですよね?」
「ああ、当たり前だ。まだ計画の実行には早い」
「判りました」
シシが、薄い扉の一枚外で耳を欹てていることを。
(――嘘だ)
眠れない夜、いつも通り天井へと上がろうとブランケットから抜け出したシシは喉の渇きに気付いた。
だから調理場の水差しを拝借しようと扉を開け――蝶番は昨晩、巡回の序でに天が直していたため軋まなかった――階段を下りたところで。
薄く開いた扉の隙間から漏れる、二人の話し声を聞いたのだ。
いやに神妙な語り口から、きっと大事なことを話しているんだろうと察したシシは踵を返そうとして、しかし気に留まってそうすることをやめた。
(少しくらいなら、いいよね)
ゆっくりと音を立てぬように板張りの廊下を歩み寄り、扉の隙間に耳を欹ててシュヴァインの語りをじっくりと聴く。
シュヴァインの声音のひとつひとつはまるで、彼女の夢と憧れを挽き潰すような重苦しくざらついた響きがした。
(嘘だ、そんな――――シュヴァインさんはずっと、ボクを……)
そんな困惑を無視するかのように、食卓にて向かい合う二人は片方が問い、片方がそれに答える遣り取りを続けていく。
「計画の実行――貴方が彼女を連れて逃げ出す日にちは、いつでしょうか」
「……一週間以内には」
「その、神の贖い殿はいらっしゃるのですか?」
「いや――恐らくは後任、もしくは部下という立場の者が手筈を整える」
「なるほど――逃げ果せられるのですか?」
「……っ」
ヒトガタとは人の荷姿をしているとは言え、その理性も感情も全てが人がインプットしたものだ。
誰しもを安堵させるような微笑みは、この場面では全く別の何かに見えて仕方が無い。事実シュヴァインはここに来て、この碧髪の青年の姿をした機械人形が悪魔か何かに思えて仕方が無かった。
きっと自分は、唆されて全てを吐き出してしまったのだろうと――そしてそれは、強ち間違ってはいない。
「……天よ、頼みがある」
「お断りします」
「っ!?」
冷淡な口調でさえ、その表情は変わらない。目を見開いて見据えるシュヴァインに、小首を傾げ微笑みを深めた天は諭すように言葉を紡ぐ。
「賤方の信条は“自由であれ”――先程から紡がれる貴方の物語には、賤方が何よりも尊重する“自由”が最も欠けている。何を賤方に頼もうとしているのかは判りませんし判ろうとも思いませんが……賤方から“自由”を買うのであれば、相応の代金を頂戴しなければなりません」
「代金……?」
「ええ――――いえ、意外とお安いと思いますよ?」
「いくらだ?」
「――シシに、全てをお話しなさい。そしてシシに決めさせなさい。全てを知ってなお、この場所で食肉を目指すか、それとも貴方とともに真なる人族として生きることを願うか、将又そのどちらでも無い、独自の生きる道を選ぶか――――賤方はずっと、彼女の“自由”の足らなさ具合に辟易としていたんですよ?」
やはり、それは碧髪の悪魔と言わざるを得なかった。