神亡き世界の呱呱の聲㉖ ――冥の戦い・後編
「……もしかして」
「え?」
それでも、冥は笑いたかった。
いつになるかは分からないが、共に死線を潜り抜けて戦い、生き抜いた仲間たちと笑い合いたかった。
何も出来ないかも知れない。何も、通じないかも知れない。
伸ばした腕は、上げた声は、掲げた理想は、何処にも届かないのかも知れない。
――しかしそれは、何もしない理由にはなり得ないことを、彼女は知っている。
違えた世界線の向こうで自分を切り捨てて強くなろうと決意したもう一人の、本当の自分が藻掻き続けていることを、彼女はちゃんと知っている。
「……お姉ちゃん、ありがとう」
「え? え?」
ぐぐ、と力を込めて立ち上がった冥に、きょとんとした表情のまま山犬は首を傾げる。
だが彼女の目には、意を決した冥が何処か、微笑んでいるように見えた。
「あたし、……行くね」
「えっとー……山犬ちゃん、要らない感じ?」
ふるふると首を横に振る冥。
「あたしはもう大丈夫。だから、余力があるなら他を……レヲンとか、お願い」
「……うん、分かったよ。物分かりのいい姉は、妹の自立を応援するものだからねー!」
やはり、その顔は微笑んでいる――――しかし山犬はそのことを冥に伝えなかった。すぐに、その表情が戦士のそれに変わったからだ。
全てを終えてからでいいじゃないか。少なくとも、目の前の彼女は差し違えるつもりですら無い――決着をつけ、ちゃんと生還する気でいる。
それが分かったからこそ、山犬は身を引いた。
「おおっと? どうした? せっかくの二対一だと言うのに?」
「あなた程度にお姉ちゃんは勿体ないから。あ、ううん、違うね――あたしをちゃんと、見て欲しいから、が正解」
「はぁ?」
「分からなくていいよ。どうせ、あなたは死ぬんだから」
「――――はぁ?」
振り切れた業怒を、臆面も無く顔貌全体に湛える神の罪過。
しかし臆することなく、冥もまたいち戦士として対峙する。
「どうせあなたはあたしを殺せない――――殺されることでしかそれを禁じられない、あなたには」
「――っ!!」
そう――違和感は常にそこに在った。
罪を規定しそれを禁じると言うのならば、最初からそうしてしまえばいい。
だが熾天使は常に、何かを受けてからそれを罪と規定した。
その体表の高熱もそのためなのだろう――――全てを受け入れてからでないと、彼はそれを罪と規定出来ないのだ。
だから、【自決廻廊】も、戦輪も、山犬の跳び蹴りも。
冥の拳を敢えてそうしなかったのは、それすらも罪過として禁じてしまえば、剣を持たない彼が神殺しを粛清出来なくなってしまうからか。いや、それだけは戯れだったのかも知れない。
だが、どうでもいいことだ。
言い当てられた神の罪過は憎悪の雄叫びを上げ、煌々と燃え盛る焔を創出した。
全て焼け焦げたように見えたけれど、しかし【自決廻廊】はちゃんと効果を上げていたのかもしれない。
それも、どうでもいいことだ。
「消し炭になれぇぇぇぇぇえええええ!!」
蒼い紅蓮が、渦を巻いて放たれた。
それは楽園の白い地面を未だ覆う海水を蒸発させながら、いや水蒸気爆発を連鎖反応的に起こし続けながら、刹那の瞬間に冥を飲み込んだ。
白い煙が充満する向こう側で黒い影へと変えながら、確かに飲み込んで焼き、融かし尽くした。
筈だった。
「は、は、はぁ!?」
黒い影は消えない――ただそこに、白い煙を裂いて佇む、異人の影があるだけだ。
海水の蒸発した地面に未だ焼け焦げる黒い影から生まれた白い蜉蝣が舞い上がり、集合して一つの白い影を生む。
それは、古く草臥れた白い外套を羽織り、フードを目深に被る――――
「何だ、何だ何だ何だそれはぁぁぁあああああっ!」
憤怒と憎悪に駆られ理性を減じられた天使には混乱の二文字しか無い。だが確かに、あらゆる命を焼き尽くす焔は彼女を包み込み、嚥下した筈だった。その理の外側にある事象を、彼らには解することが出来ない。
神は、そんなことは知らなかったからだ。
神は、そんなことは教えなかったからだ。
神象よりも遥かに強い理屈、そんなことは――――
「――――」
罅割れた左腕が持ち上がり、枯れた指先がびしりと伸びる。
黒く焦げて果てた冥の遺体を指差した途端、その焦げた塊はその身をびしゃりと撒き散らしながらやがて中空に浮かぶ黒い球体となった。
それを掌の上に浮かべた異人は、フードの下に翳る何らかの蟲を意匠としたマスクの内側から爛々とした幽明な光を目の部分に灯した。都合七つあるため本当にそれが目なのかは熾天使には判らなかったが。
そして掌を翻し、黒い球体を差し向ける。
弾けた球体は黒い蜉蝣の軍勢となって襲来し、理外の事象に慄く熾天使へと飛び込んでいった。
今度は、一匹たりとも熱で焼け焦げるなどということは起こらなかった。
「が、あ、あ、ああああああ――――」
身の内に全ての黒い蜉蝣を吸収した熾天使はたじろいだ。
そして、今しがた冥を焼いた蒼い焔に包まれ、阿鼻叫喚を謳い上げる。
「なぁ、あ、ぁ、どう、どうしてっ!? 何故っ!? 我は、我は天使! 至高の、位階! 熾天使だっ! 何故、何故っ! 燃えるっっっ!?」
火から創られた天使は、本来燃える筈が無い。火に火を注げば更に燃えるからだ。
だが、そんな理は【我が死を、彼らに】には通用しない。
そこに在るのは、最も根源的な理屈なのだから。
神が生まれるよりも前にそこに在った――――
「熱い、熱いっ! 禁じる、禁じるっ! ――駄目だ、とっ!? 何故だ、何故ぇっ!! 神よっ! 我はっ! 我は――――っ」
燃え尽きた影から生まれた青い蜉蝣は、先程まで黒く焦げた遺体のあった場所へと飛来すると、そこに集束し冥の形を創り上げた。
佇む彼女がそれまで瞑っていた目を開いた時には、もう熾天使の、神の罪過の存在は無かった。
「――――」
だが、同時に。
「――――、――――あたし?」
そこにいたのは、冥でも無かった。
正しく言えば、冥という自我は消失した。
彼女がその力を行使したくなかった理由は、本当はそうだった。
自らを殺してしまえば、そして再生してしまえば、そこに生まれるのは違う自分だからだ。
異なる世界線において同様にその術を行使した冥は、実際には本懐を成さなかった。
自らを殺した対象を、結局は殺していないのだ。
それが成されてしまえば。
そこには、それまでとは違う自分が再生してしまう。
それは、森瀬芽衣では無い彼女――芽異のみに適用される不文律。
そもそもが本体が勝手に創り上げた別人格だ。
そして剰え、身体も別の躯体。
何もかもが違う、何もかもが不適合なのだ。
それをそうとも知らずとも――だからこそ冥は、【我が死を、彼らに】を行使したくなかった。
それに頼らない自分のまま、本懐を遂げたかった。強くなりたかった。
自分のままで。
「あたし――――分からない」
今の彼女は伽藍洞だ。自分のことも、神殺しのことも知らない。
山犬を姉と呼ぶことも、レヲンを親友だと胸張ることも、何もかもを知らない。
ただ弱い自分が死んでまた一つ強くなった、何者かがそこにいた。




