神亡き世界の呱呱の聲㉑
「何だ。結局君がやっちゃったんだ」
静けさの中に現れた陰惨で鮮烈な赤い色を携えたその影は、蒼い色の生首をぽいと放り投げると、その場に座り込む少女の隣で同じように両膝を付いて遺体を見下ろした。
「……あなたは」
「山犬ちゃん――――じゃぁないんだなぁ」
山犬の輪郭と色彩とを持つも、それは山犬では無い。
天が既に天では無く牛だったように、山犬もまたその根幹を成す異世界で討たれた魔王の魂がその躯体を動かしていた。
「わたしがまだ山犬ちゃんだったら、こんなこと出来なかったと思うし」
「こんな、こと……?」
「神殺し」
そう――神の否定は神を殺した。
正確には、神となったレヲンの内側に根付く神性を否定することで消滅させ、そのために彼女は老衰で死んだのだった。
恐らく、という接頭語は着くが、神の否定がああしなければ、神としてのレヲンはあと一年ほどは生きていたと推測される。だがその事実は、今となっては無用の長物に他ならない。
神は死んだ。神の否定の命題である“神象の全否定”を受けて。それが真実であり、この世界に刻まれた歴史の終着地点だ。
「冥ってコはさ、レヲンちゃんが神様になっちゃったせいで結局それを守る側に推移しちゃったんだけど、神様の身体が拒絶反応起こしちゃってたんだよね」
あの黒い死病のことだろうか――冥という言葉に聞き覚えの無い少女は、伽藍洞になった脳内に赤の言葉を反響させる。
「あのコは唯一さ、わたし達みたいに課せられた命題ってのが無かったからさ。何せ冥ちゃんって創られた時に創った当の本人が狂いまくってたみたいだし」
少女にはよく解らない。だが霞みがかった何かのイメージが脳裏に込み上げて来ていた。
「天ちゃんも天ちゃんで、中身の牛くんは頑張ろうとしてくれていたけど、躯体の方ががっちり拒否してたねー。おかげで大変だったんだよ、今も完全に死んでないし」
部屋の隅に転がった蒼い生首を遠く見遣ると、それは確かに僅かに震えていた。
「わたしも――――山犬ちゃんだったら、レヲンちゃんを殺すとかは出来なかっただろうな、って思う。山犬ちゃん、レヲンちゃん大好きだったし」
山犬というのは彼女の演じる姿だ。言ってしまえばそもそも山犬は存在せず、ただただ彼女がそれを演じていたに過ぎない。
或いは、それは彼女が創り上げた別人格であったとも言える。独り立ちし彼女を介さずに躯体の制御を成し遂げるほどに創り上げられた強烈な規律であり、そのために彼女は山犬を赤い命として細分することで薄め、漸く本体の制御権を奪い返したのだ。
「でも、君がそう出来るとは思ってなかった。思ってたら、そもそもわたしがやってやろうとか考えなかったからね」
「私、……」
「だってさぁ、君、“神殺し”だってことも忘れちゃってさ。昔のこと全部忘れて、レヲンちゃんとのうのうと過ごしてるんだもん。考えられないよね、昔の君からしたらさ。あ、でも昔から君、レヲンちゃんのことは好きだったっけ?」
「……」
明るさを纏って飄々と話す山犬に、しかし少女は何も答えないでいた。
答えられるわけが無い――今ひとつの真実にすら、堪えられていないと言うのに。
「まぁ、今となってはどれでもがどうでも良いんだけどね」
どうでも良い序でに、と前置きをして、山犬はまたも飄々と語り出した。
冥の自決を受けて楽園が閉ざされた後、その内で蔓延る黒い死を喰らいながらそれを糧に自己の修復と増殖を繰り返し、同様に自己増殖を繰り返す冥の異能に対抗し続けていたこと。
だが楽園の内側では圧倒的に死の方が凶悪であり、やがて楽園は壊れたが聖都にばら撒いていた自身の微分子機械が功を奏し、徐々に勢力は拮抗、逆転へと至った。
しかし世界は崩壊の一途を辿り、ほぼ完全に黒い死を抑え込めた頃には世界には神と少女しか存在していなかった。
あの赤い膿はこの山犬だったのか、と少女はぼんやり考えた。しかしそれは何か言葉を発するには無感動で、どうにか身動ぎするには無興味過ぎた。
誰かが神を殺さなければならなかった。それは“神殺し”として創られた彼らの命題であり、彼らの魂幹に結びつけられた魂のそれぞれはその命題を果たす責務があった。
しかし天牛は本体である方の天が壊れ、牛が辛うじて残存するもほとほと戦力になるとは思えなかった。その問題は神自身、レヲン自身が解決したのだが、結局機能を復元されても天そのものの記録、躯体に残る彼の残滓が彼女を殺すことを拒んだ。
山犬もまた、レヲンが神になったことで命題を果たせなかった。冥も同様だった。
そもそも冥は命題を持ってはいなかったのだが、強大で凶悪な死の奔流となった彼女は自我を失ったのにも関わらず、神がレヲンであることに気付くと鳴りを潜め出したのだ。
だから山犬がやるしか無かった。そこで山犬は山犬という個性を棄て、魔王の魂に立ち戻って世界に命をばら撒いた。
やがて信仰を取り戻し、文化と文明とを取り戻し、十分過ぎるほど増えた後で、歴史がそうだったように神への叛逆が勝手に起こるまで待ったのだ。
それが起きなくても、いや、それが起きる前に神が自滅するのならそれで良かった。山犬はもう山犬では無かったが、天牛同様に、その躯体に残る山犬の残滓がその選択を強いたのだった。
それを察した黒い死は、病の形となって再び世界に湧き上がった。
赤い命達がやがて神を殺そうとしているなら、その命を殺さなければならないと自己の存在意義を組み替えたのだ。
やがて現れた黒い魔獣はその産物だ。神をも冒したあの死病は、しかし神が拒絶していなければ彼女を守るものだった。
誰も、神を殺したくは無かったのだ。
でも、神を殺さなければならなかった。
「だからね、君がしたってことに、すっごく驚いてるんだよ」
少女とて山犬と一緒だ。自分がそうしてしまったことの結果を前に、一度は現実から真実から逃げようとした。
しかし少女は今尚、受け入れられない現実と相対している。彼女の遺体を前に、受け入れられなくとも、逃げないことを選び続けている。それしか、出来ないとしても。
「でも――――君だから、君がやったって納得できるなぁ」
自分のことをよく知っているような素振りに少女は何となく腹が立った。
少女は山犬のことを知りはしない。【神の眼】に刻まれた天使の集積した記録の中を覗いても、この赤い少女のことは――――いや、あった。
「さて、と。じゃあそろそろ行くね。ここに残ってると、天ちゃんがまた煩そうだから」
あの蒼い生首はまだ僅かに震えている。その顔もまた、天使の記録に見ることが出来た。
「じゃあね、もう会うこと無いかもね。君がやってくれたのはとても喜ばしいことだけど、今の君には前みたいに全然惹かれないから―――運命的でも無ければ理想的でも無し、増してや絶対的でも無い……そんな君なら、わたしは一緒には終われないなぁ」
そうして山犬がその場から立ち去っても、少女は自分の脳裏に映し出された三基の、後に四基となる“神殺し”の記録を眺め続けていた。
それは全てでは無い。
天使が、そして天獣が見聞きした彼らの記録は断片的なものだ。全てである筈が無い。
しかしどうしてだろうか――天使も天獣もそれを記録しなかった、始まりが脳裏に映し出されているのは。
『ねえ、あなたは? あなたは何て名前を刻まれたの?』
山犬だ。目の前に移る陰惨で鮮烈な赤色を帯びながら、愛玩性をふんだんに湛えた顔だ。可憐さと凄惨さとを併せ持つ、山犬の顔だ。
『――ノヱル』
その山犬に対し返す、自分と同じ名前。それはその顔を映す者が告げる声。《《自分自身が紡ぐ聲》》。
『ノヱル?』
『そう――神を否定する天使。ノヱル」
そうだ――――神の否定は、神を否定する天使だ。




