神亡き世界の呱呱の聲⑩
創造主に連れられ、ただただ白いだけの無機質なことこの上ない部屋から外に出た少女は、世界の様相を目の当たりにして困惑した。
「創造主様、……これは、海、ですか?」
恐らくそこは、灯台のような施設だったのだろう。
開けた扉の向こう側は円筒型の建物の外周に沿って設けられた外廊下。
塗装の剥げ切って腐蝕された金属の剥き出しになった欄干を掴み、少女は顰めた顔でそう問い質す。
「私の記憶では、海は蒼かったと思うのですが」
まるで血溜まり。
赤黒く揺蕩う全く不鮮明で不透明な波が、黒く濁った浜に打ち寄せては返し、ぶくぶくととても汚らしい泡を生んでは消していく。
海は生命の源とも言われていた。だが少女が目にしたそれが、何かしらの命を育むようには到底思えなかった。
「昔はね、蒼かったのよ」
「いつから、こうなってしまったのですか?」
「さぁ……もう、経った時を数えることはやめたから」
ぱちくりと目を瞬かせた少女は長い髪を指で耳に掛けた彼女の仕草に視線を死んだ海へと戻した。
全く乾いた空気さえ、つまり風さえ死んでいるように思えた。ひどく味気なく、そして一向に吹かない風だ。
はた、と気付いてゆっくりと視線を上へと持ち上げると――空までもが死んでいることが分かった。
雲一つ無い空はしかし薄汚れた霧に包まれているようで、見上げた目に日の光が突き刺さるなんてことは一切無い。
一応この世界を最低限照らすのに光量は足りているのだろうが、記憶の中の曇り模様の灰色と然程変わらないように思えた。
「どうして、これ程までに」
「それは、歩きながら話しましょう」
「……はい」
円筒型の建物にぐるりと張り巡らされた外廊下を創造主に従って歩く。
時折欠けた破片に躓かないよう足元に視線を送りながら渡らなければならなかったが、少女は何度も欄干の向こう側に望む景色を見渡した。
薄汚れて曇り翳った空の下にある、血反吐溜まりのような海――最早“海”では無く“膿”と呼んだ方が適切だと思えた程の。
そしてその膿と自分がいる塔の間には。
黒く煤けたような砂浜が先ず膿に接しており、苔程の植物すら自生しない赤く焦げた荒野が罅割れながら伸び、黄土色を経由して白く滲んでいく果てに砂と白い瓦礫で構成された死都が広がっている。
建造物は軒並み崩れ落ち、或いは崩れ落ち、若しくは崩れ落ちている。
真っ直ぐに天を向いて建っているものなど、何処にも何一つとして無い――いや、例外的に、二人の渡る廊下を有す塔と、それを擁す一際大きな建造物だけは辛うじて自己を支えることが未だに出来ていた。
だがそれは何故なのだろうか。
所々滅びつつも、この建物だけがここまで原型を留めているのはどうしてなのだろう。
そもそもこの建物は何のために造られた何なのだろう――――そんな疑問を抱きながら少女は創造主の後に続き、そして創造主は少女の手を優しく引きながらただ歩き続けた。
「ここには、かつて白百合が咲き誇る国があったの」
「白百合が」
塔の麓まで下りた二人。少女の手を引きながら彼女はそんな昔話を語り始める。
「この世界のありとあらゆる万物を創造した魔女を讃えるために、魔女の一番好きだった花を一面に咲かせるために植えられた白百合は、季節が初夏に差し掛かるとこの庭園をその清廉な純白で埋め尽くしたの」
「……はい」
決して狭いとは言えない範囲だ。
四方を壁に囲まれているとは言え、塔の麓の広場は広大であり、また囲む壁面も段々になっている。
劇場のような摺鉢構造。
抜けるような青い空の真下に咲く純白の風景を想像した少女は、その壮観さに言葉を失った。
それはまるで、その風景を一望したことがあるかのようだった。
「やがて魔女がいなくなり、この世界の管理運営は魔女が選抜した“神”が代行することになった。神の代行は魔女の思う通りには行かないことが多々あったけれど、でもこの広場の一面の百合は、いつまでも失われないままだった」
「いつ、無くなったのですか? その、ここの白百合は」
顔色を伺うように問う少女に、遠く遙かに視線を投じながら彼女は懐かしむように答える。
「いつだったかしら……もう、時を数えることをやめたから」
「そう、ですか」
再び塔を見上げた少女は、天を衝く高い頂上にあった筈の機構を探した。
しかしそれは見当たらず、だが百合の代わりに足元の地面を覆う瓦礫に、それを見つけ出す。
「これは……」
瓦礫を持ち上げ退ける。その作業を数回繰り返して、やがて少女はそれを拾い上げる。
「針、ね」
「針……」
何の――――そう問おうとして、しかし少女は疑義を取り下げる。
知っている。
それが何の針であるかを、少女は知っている。
長さを推し測るには千切れて短すぎる破片に過ぎないその針が、しかし時を報せる装置の重要な部品の一つであることを。
「あの塔には、時計が備わっていました」
「そうね。確かにそうよ……でもよく見つけたわね」
「……どうしてでしょう?」
ひどく真面目な顔で全く素っ頓狂な言葉を漏らした少女のことを、彼女は笑った。
しかしそんな彼女に関わらず、少女は自らが拾い上げた針の捩じくれた先端を見詰めては、何故自分がそれを知っているのか思議せずにはいられなかった。
「創造主様」
「何?」
「これは、……貰っても、よろしいですか?」
「貰う? それを?」
それはとても訝し気な表情だった。
当然だ。彼女にとって、その針の断片には何の価値も無い。そこら中に落ちている瓦礫と何ら変わりが無い。
だから少女がそのように申請した理由が判らなければ、その目的もやはり定かでは無い。
だが、少女の何処か必死に訴えるような悲痛そうな表情は酔狂では無いと断じれた。
まるで断たれ別たれた半身かのように、自分の掌よりも少し長いだけの捩じくれた尖った断片を抱える少女。
無碍にすることなど出来ようが無い。
「……あなたが見つけたんだもの。あなたの好きにすればいいと思うわ」
「本当ですか? ありがとうございます」
柔らかく微笑んだ彼女は、しかし許可を得て尚、安堵を宿さない少女の顔貌に仄かな戸惑いを覚える。
欲しいと進言したものを手に入れたのだから、普通は喜んで然るべきだ。
だが少女はそうでは無かった。寧ろ逆とも言える――――言葉にすれば“無念”や“後悔”、或いは“未練”という表現が適合する表情を灯したのだ。
そんな少女に、彼女は閃く。
例えるなら。
愛しい人の遺物を見付け、譲り受けたのなら。
自分も、そんな表情を見せるのかもしれないと。
「……さぁ、行きますよ」
「はい、創造主様」
その針は、少女にとって何だったのだろうか――しかし彼女にとっては、少女が生まれ立ての天使であり、知識以上の記憶を持ち合わせている筈が無いことの方が疑問だった。




