神亡き世界の呱呱の聲⑥
「レヲンは?」
機を伺うガークスが訊ねる。
山犬が創り上げた秘匿の海はすでにニスマが支配した。ならばもう一つの機であるレヲンの状態、それが整えば【禁書】達はいつでも空へと向かって行けた。
「……」
しかし首を振るのは冥――レヲンの傷は癒えたが、体力や気力、精神力といった面で全快と言うには程遠かった。
ここにいる全員が解っている。神殺しの二基と連携し、最後の一体にまで減じたあの天使を討ち、そして人類を滅ぼそうと画策するあの神を逆に滅ぼすのなら、それはレヲンの他にはいないだろうことを。
彼女こそが【禁書】の最大戦力であり、そしてエディ無き今、彼女以外にあの神殺しと連携できる人間などいない。
そして、レヲンにとって見ればそのエディがいないということが問題であり、また神殺しの中にノヱルもいないということが、彼女の快復を妨げている最大の要因だった。
魔術で傷は癒えた。ただしそのために現在は体力を消耗してしまっている状態だ。
休めば体力は快復する――だが、ここに来て立ち上がろうとする意思を彼女は欠いていた。
自らと同じ、あの食肉の楽園を出自に持つエディが、神になってしまった。
人類を滅ぼそうとする軍勢の頂点を継いでしまったのだ。
剰え、ノヱルは彼の手によって直々に葬られてしまった。
その消沈を、引き上げる何かが何処にあると言うのだろうか――――それでも、レヲン立つ。
もはや涸れ尽くした涙を拭い、血の通い切らない青褪めた表情のまま。
「……大丈夫」
「大丈夫じゃない」
「大丈夫だってば」
「レヲン!」
「おい」
意地を張るレヲンに対しそれを諫めようとする冥に、透明な水面に漂うニスマが声を上げた。
「戦士はもう立ち上がっている。それを窘めるのは侮辱と一緒だ」
「侮辱でいい。あたしはこの子に死んでほしくないだけ」
「死なないよ。あたしが死ぬ時は……君がいてくれる」
「レヲン……」
冥を真っ直ぐに見据える少女の双眸は微弱ながらも確かな熱を帯びていた。
確かにそうだ――冥は、彼女を死なせたくない。ならば自分がどうすればいいかなど、とうに解り切っている。
それでもそれをしてしまえば、自分が暴走してしまうのでは無いか。
神の軍勢ごと、この世界そのものに死を齎してしまうのでは無いか。
そうならないとは言い切れない自信の無さが、冥を過保護にしてしまっている。
「冥がいるなら、安心して戦える。あたしのも含めて、みんなの分も全部、預けて戦うことが出来るから」
「……あたしは」
言いかけた言葉を、首を振る否定で飲み込ませるレヲン。
「ここまで来て、ここに誰がいないからやれない、なんてのは流石に駄目なことくらい分かってる」
「レヲン……」
「大丈夫、……もう、大丈夫。君がいるなら戦える」
何という脅し文句だろうか――それでも冥は、レヲンが戦うと決めたならばそれに寄り添うだけだ。
例えその果てに自らを殺すことになったとしても――――
「レヲン、行けるか?」
上空の戦いを見詰めながら掛けられたガークスの問いに、レヲンは一つ頷いた。
「お待たせしました。もう大丈夫です」
何も変わってはいない。青褪めた表情はそのままであり、だがその立ち姿は先程までに比べ非常に力強い。
最年少のこの少女がここまでの意思を見せているのだ。ならばバネットもサリードも、ミリアムもアスタシャもニスマも――誰もが、気を引き締めなおして空を見据える。
その、空の上では。
未だ渦巻く極彩色の真下で、鋭い剣閃が幾度も交差しては、その度に炎が噴き上がり。
また、赤黒い影が赤白い影へと跳躍を繰り返し、激しい衝突が何度も衝撃波を生んでいた。
「“神薙”!」
ぎゃらりと照り返す一陣の風のような一閃が迸り、奔る一秒毎に軌道を変える末恐ろしい歪曲の一撃はしかし神により放たれる紅蓮の剣閃に弾かれた。
「この程度か、神殺し!」
その剣は振るわれる度に周囲の大気を白く焦がし、天は落下を廃した身で再三の跳躍を見せて見事に躱す。
入れ違うように、虚を衝いて飛び出した山犬の鉤爪はしかし神の身に届く前に彼が纏う太陽すら凌駕する程の熱に溶け、しかし全く異なる方角から自らを複製・復元した山犬は再三の突撃を見せる。
「もう少し、お淑やかに出来ないものですかねぇ?」
「何それ美味しいのぉ?」
にこりと微笑む神の聖誕に対し、にやりと破顔する山犬。
大気中に散布した自身を蹴って肉薄しては、両手の五指と共に棘の生えた七つの尾をぶわりと振り回す。
二柱と二基の戦いはまるで互角だ。だが明らかに天の動きは精細を欠き続けている。
だが神の聖誕もまたその底を見せてはいない。神とてそうだ。
彼らは知っている。追い詰められた時こそ人間はその本性を剥き出しにして襲い掛かって来るのだと。だからこそそれごと叩き潰すことで“粛聖”は“最後の審判”になり得る。
「それで終わりか?」
高く掲げた剣は炎を纏い、エディを見下ろす神は柄を握る五指に力を込めた。
紅蓮も蒼炎も白い輝きも黒き闇も、その全てをぐわりと渦巻かせ、天を目がけて神はその熱き刃を振り下ろす。
「“転輪する剣の焔”!!」
業火が、まるで雪崩のように押し寄せる。
「天ちゃんっ!!」
山犬が、その愛らしく丸い目をさらに見開いて叫んだ。その一撃は、あのノヱルをも葬り去った一撃だったからだ。
あの夥しく狂い果てた霊銀の物量は、対象一体どころかその周囲の地形を変えてしまえる程に無慈悲なものだ。
山犬はその攻撃の起こりを見た瞬間に、自らの咽頭に位置する人造霊脊に指令を下した。
内から外へと反転し、周囲のありとあらゆる攻撃を自らに吸い寄せ喰らい尽くす【饕餮】を行使したのだ。
途端に黒く染まり上がる山犬の外皮――天へと向かい波濤する熱の全てが、実に鋭利な方向転換を見せて山犬へと降り注ぐ。
「ぐ、――ぅっ!!」
無限を誇る暴食も、無尽を見せる邪淫も――限りなく酷似する膨大な熱量に、一瞬でそれを飲み込むことが出来ないでいる。
「ぅ~~~~――――っっっ!!!」
だが山犬はそれを成した。神の放つ無惨の焔を喰い尽くし、飲み干して見せた。
しかし同時に、黒く染まり上がったその矮躯は内側から爆ぜる熱に黒く焦げ付いてしまった。
「……山犬」
小さくその名を呼ぶ天。だがそのか細い声は届いていない。
その再生能力は、その復元性は無限に等しい筈だった。何故ならその源となる動力の貯蔵庫たる彼女の固有座標域こそが、魔王の持つ力によって無限に等しいほどに拡張されていたのだから。
しかしいくら容れ物が無限であってもその中身もまたそうであるという等式は成り立たない。
無限の容れ物に入れられた有限の動力は、大した供給も得られないままに再三度外視の使われ方をした。
空間を埋め尽くすほどの増殖と散布、度重なる復元。
山犬の【饕餮】は、本来咽頭に円環上に配置された人造霊脊を外皮に展開してあらゆる攻撃を吸収するものだが、神の放った【転輪する剣の焔】はその吸収率・変換率を上回る攻撃だった。
当然、一度に吸収しきれなかったものは山犬を燃やし、また一度に動力に変換し損ねたものもまた山犬を焦がした。
「あらあら……日焼け止めは塗っていなかったのでしょうか?」
黒く焦げ付いた少女型の塊が空から地へと落ちて逝く様を、最後の天使はやはり微笑んだまま見詰めていた。




