神亡き世界の呱呱の聲⑤
「どこに行こうと言うのですか」
「お前には関わりの無い場所だ」
律儀に返す神を静かに見詰める、逆三角形に切り取られた歪な瞳孔。
「阻むな、ヒト擬き」
空間をまるで鞘かのように、何も無いそこから神はすらりと剣を抜いた。
雄大美麗荘厳を絵に描いたような片手剣。
中空で大きく歩幅を取る天もまた、その鞘からしゃらりと蒼刃を抜いて構える。
「ちょっとちょっとー、勝手に始めようとしてんなよ」
そこに現れたのは山犬だった。地面から跳び上がって来たのかふわりと現れたその姿は十の棘の生えた七つの尾を持つ魔王の姿だった。
そして跳躍が頂点へとその矮躯を押し上げたと同時に、落下を切り捨てた天のようにその場にぴたりと静止する。
中空でそれを見下ろした神の聖誕はやはり慈愛に満ちた笑みを浮かべるだけ。そしてそのまま空中に立つ山犬の姿に、ほんの少しだけ瞼を持ち上げうっとりと感嘆した。
「これはこれは……生前は手品師だったと後世に伝えましょう」
“切断”を操る天とは違った空中静止。だが神の聖誕は当然その種を見抜いている。
夥しく空中に散布した微細な自己を固めて乗っているのだ。視えるような大きさでは無いとは言え、そこら中に山犬の匂いが立ち込めている。
「ちゃんと“可愛い”ってつけてよねー!」
両手の人差し指でびしりと指した山犬はばちんとウィンクをする。
そして下唇をべろりと舐めた破顔を見せながら大きく跳躍した。その鋭い軌道は神の聖誕を真っ直線に捉える死線。
だが身を翻した神が右手に握る剣を振り抜――こうとして、目の前に突如として現れた空間の断絶に虚を衝かれる。
「――“神緯”」
既に剣閃は放たれていた。蒼い【神薙】が見せる不可律の軌道で放たれた【神緯】は振り抜こうとしたした神の剣を受け止め、しかし神はびきりと蟀谷に力を込めては、振り抜けない筈の剣を無理矢理に振り抜いた。
びゃぎゃん――途轍もなく硬く堅いものが割れ爆ぜた衝撃が周囲に波濤する。
その障壁の名は断絶、空間が無いのだ。そこに空間が無いのならば何をも伝えはしないし、何もそこに存在できない筈である。
だが神は剣を振り抜いた。両刃の剣身は青白く煌めくとその内より白く清廉な炎を迸らせ、虚無の空間に零れては溢れた。
障壁は裂けたのでは無い、満たされたのだ。
だが既に山犬はそこにはいなかった。彼女の躯体は神の聖誕の目鼻の先に到達しており――振り被った拳ががぱりと開くと、五指の先端は赤黒く尖った鋭利を携えていた。
「山犬ちゃん、くろぉぉぉぉぉおおおおおっっっ!!」
その五指で以て引き裂く一撃は、最後の天使の身体を六つに裁断した。その鉤爪と同じ赤黒い軌跡がそうしたのだ。
だがそれでも尚、神の聖誕の微笑は消えていなかった。
それどころか六つに分かたれた身体の全てが赤く燃え上がると、その熱は一つに纏まって再び熾天使の姿形へと復元される。
「――わお」
しかしそれならば既に視ている。神の終焉との交戦の時にはもう、熾天使というのは自身に匹敵する程の再生能力を有していることなど山犬は織り込み済みだ。
だから山犬の破顔もまた深まった。対峙する魔王と天使は互いに笑み合い、抗う一手を共に互いへと向けて繰り出す。
だが山犬の放とうとした次なる五指は、背から伸び追ってくる焔の一閃に阻まれる。
神の放った剣戟は山犬の影を燃やし、しかしその本体をこそ燃べようと跋扈するのだ。
ならばそれを阻むのはやはり蒼き刃だろう――天が墜落を廃した空を蹴って駆けながら突き出した【神螫】は鋭く突き進み、煌々と燃える軌跡を火の粉へと散らす。
「私を見ずとは随分と――やはり無礼極まりないっ!」
天が神の放った焔閃を散らしたと同時に、神は再び焔撃で以て横撃を図る。
咄嗟にその瞬間に生まれた“肉薄”を切除した天は、10メートルほど離れた場所から蒼く伸びぐぢゃぐぢゃと捻じ曲がる【神薙】を見舞った。しかしその無軌道な百閃も、神の生む業火が溶かし尽くしていく。
「何とも元気な子でしょうかっ!」
山犬の鉤爪が紅蓮の炎に堰き止められた瞬間、同時に飛び出していた神の聖誕が投げ放った剣の切っ先はまるでそこに最初から生えていたかのように山犬の胸を貫き、その刹那白熱する衝撃が爆ぜっては山犬の紅い身体が白く焦げ付かされた。
だが既に天使の背後に自身を復元していた山犬は、次こそその身体を両手の鉤爪で以て三十六の破片に分断する――が、やはり瞬きの間にその身体は赤白い炎の噴出とともに完全に復元されてしまう。
片や、攻撃と同等の反撃、猛攻と同等の回避で損傷を与え合えない神と天の戦い。
片や、あらゆる攻撃を上回る再生能力で以て復元し損傷を無効化する山犬と神の聖誕の戦い。
世界の様相といい、そこで繰り広げられる数多の攻防といい。そこにはまさに規格外の戦場が広がっていた。
このまま時が進むならば形勢は一向に水平線。どちらに傾くことも無い――だから、山犬の創り変えた世界に潜む彼らこそ、それを傾け得る伏兵と言えただろう。
「……あの中に入っていくって言うのかよ」
「やるしか無いって分かってはいても……」
「正直荷が重すぎて担げないっすよね……」
三人の零した愚痴に、アスタシャも首肯した。
だが彼らは意気消沈しているわけでは無い――そこに突っ込んで叛逆の一撃をぶち込むための機をただじっと待っているのだ。
最も瞳術に優れるガークスは霊銀をふんだんに流し込んだ視覚で以て神と神の聖誕の動きをただただ観察していた。
常人の目では追い切れない動きであっても、極限を超えた集中を費やして数分も見続けていればやがて慣れもする――それを、弦状に伸ばした霊銀で接続した面々に並行して伝達する。そうすることで【禁書】の戦士たちはガークスと同じ視覚的経験を得られた。
ならばその動きの癖や隙も段々と気付き始める。僅かで仄かな光かもしれないが、暗闇でしかない未来にそれを見出すことが出来るのだ。
「未だ……未だだ」
時間が無いことは何となく解っている。
天の動きは徐々に精細さを欠いていき、そうした目に見える変化は無いものの山犬の動力も補給のしようのないこの戦場でいつまで保つか判らないのだ。
それでも【禁書】の戦士達は機を待つ。そして、その場に秘匿された海からざぱりと顔を出したニスマが、その機の一つが満ちたことを報告する。
「山犬が創った海は全部支配下に置いた」
「ありがとうございます、ニスマさん」
山犬は周囲に散らばった自身に偏光性を宿し、上空からでは視認できない海を聖都に創り上げていた。
波波と揺蕩う水面は銀色に照り返り、ニスマが【侵食】したことで彼女の魔術の影響を色濃く受ける状態にある。
「しっかし、お前も沈む人族の端くれならこの程度の流術は出来ないと」
「ごめんなさい……でも私の本分は氷術ですから」
神の軍勢が操るのは“熱”だ。熱は常に高い方から低い方へと移ろう。
火に対抗できるのは水であり、そして氷である。魔術も長い時代を経て研鑽されてきたが、その“属性”という考え方は始まりの頃から大きく変わってはいない。
「私だって負けてないよ?」
そう返すのはミリアムだ。彼女は氷術が得意だというわけではない。寧ろ彼女はどちらかと言えば器用貧乏に属す。
しかし魔術の本質が“手段”である以上、物事の解決の手段を多く有することは重要だ。
一つの魔術を極めても、性質上その魔術ではどう足掻いても解決させることが出来ない事象というのは大いに在り得る。
ミリアムは氷術士としてはアスタシャには劣るし、水流を操る流術士としてもニスマには及ばない。
だが彼女は気流を操る流術をも修めているし、また天使のように火と熱とを操る炎術士でもある。




