神亡き世界の呱呱の聲④
「レヲンっ!」
冥が、起き上がった少女に寄り添う。白い灰と埃に塗れた蒼褪めた表情は、だがしかし奥歯を噛んで覚悟を決める戦士のそれだった。
「今、天ちゃんがアスタシャちゃん連れて来るから」
キッと冥が山犬を睨んだのは、そんなレヲンに対しても山犬がまるで朝食時のように軽々しく振る舞っているからだ。
ここに立ち上がったのは満身創痍瀕死の戦士であって、少しばかり遅れて起きて来た寝坊助でも何でも無いからだ。
「お姉ちゃん、……本気で怒るよ」
「……んー、難しいなぁ。神ってのが近くにいるからかな? 何だか個性付けがブレブレなんだよね」
調子が整わないことへの気持ち悪さを小首を傾げる素振りで見せた山犬は、つまらなさそうな、それでいて忌々しさを全面に押し出した表情で嘆息した。
「復讐心がめらめら燃え上がってさ、憤慨で頭がぼーっとする」
それは紛れも無くルピの遺志だった。山犬を成していた魔王の魂が半ば目醒めているのだ、もう半分を構成するルピの魂もーーだからそれは覚醒と言うよりは乖離だった。
「……ノヱルは?」
「死んだよ」
冥に支えられながら短く吐かれたレヲンの問いに、山犬もまた短くそう返した。
「正確に言えば、気配が無くなった。ノヱル君なら何か巧く逃げ果せてる気がしないでも無いけど」
「……そんな」
ぐらりと、支えられて立つ少女が揺れた。冥はそんな彼女を零さぬよう確りと抱き締め、そしてレヲンは親友の胸で小さく泣いた。
それを眺める山犬の表情が何処か詰まらなそうだったのは、やはり彼女の中の乖離が甚だしくなったためだろう。
「本当に、死んだのか?」
信じられないといった顔を見せるのは【禁書】達。だが彼らを一瞥した山犬は溜息を吐くだけで答えない。
もう一度言えば、その事実は変わるのだろうか。そんな馬鹿な話などあるはずが無い。
「戻りました」
「わ、わわっ!」
「おわっ!」
そして隔たりを切り裂いて現れた天の傍には、レヲンの傷を癒すためのアスタシャと、そして彼女とともに潜水艇に残っていたニスマの二人がいた。
早速天はアスタシャにレヲンの治療を行うよう指示し、アスタシャは天や山犬の変わり様や状況そのものに混乱しながらも、霊銀の共鳴によりレヲンの傷を急速に癒していく。
その中で、冥は重苦しく、しかしはっきりと告げた。
「神は代替わりした。新しい神には、……エディが成った」
「……エディが?」
こくりと首肯する冥。
「でも、それって、……え?」
「頭が変わってもやることは変わらないみたい。中身がどうなってるかは解らないけど、とにかく新しい神はやっぱり人間を滅ぼす気みたい」
だが情報は悪いものばかりでは無い。
あの神の聖誕は自らを「最後の天使」と称した。それが本当であれば神の軍勢は彼女と神の二柱を残すのみだ。
無論、敵の戯言を妄信するのは危険だ。だがあの女性型の天使が出現するその前には山犬が行使した範囲殲滅形態での【神殺す獣】が猛威を振るっていた。故に、その情報の信憑性は高いとも考えられる。
「最後の天使と……神……」
アスタシャの治療魔術を受けて生傷の塞がったレヲンはしかし蒼褪めた表情のままだ。魔術による治療の基本は身体能力の活性化によるものであり、急激に細胞分裂を繰り返すこととなる――つまりその分、体力を消耗してしまうのだ。
高位の魔術にはそのデメリットを省かれたものもあるし、また治療魔術ではなく時流魔術による損傷以前の時点へと逆行させて治癒を施す魔術もある。
だがアスタシャの魔術士としての腕はそこまで高みに届いていない。
それが水流を操る流水魔術ならば一流どころに比肩する魔術力を持つが、治療魔術の技術は中堅どころが精一杯だ。そもそも、【禁書】に名を連ねる上位の治療魔術士たちはパールスを経由する陽動隊に属していたのだ。エディたち本隊に比べ、そちらは魔獣や【闇の落胤】達との交戦が控えていたためだ。
「……やっぱりレヲンは戦えない」
冥は治療を終えても力無くただ立っているだけのレヲンを見てそう判断した。
討つべき敵はあと二柱――だがその片方は中身はどうあれエディだ。それを討てるにせよ、心に深い傷が抉られてしまうことは容易に予想できるし、そうなのであれば例え万全でも戦わせたくない、というのが冥の本心だった。
「冥……」
「それは困りますね」
どうしようかと逡巡する山犬に対し、間髪入れず口を挟んだのは天だった。
「賤方も残り僅かな身。その上で費やした“切断”を無為にして欲しくはありません」
冷徹にも程がある――だがレヲンの戦力は欲しいのは冥とて同じだった。
それをレヲンもまた十分に理解しており、だからこそ自らを支える冥からそっと離れて自らの両脚でしっかりと立つ。
「大丈夫……エディだって、きっと戦ってる――――なら、あたしも戦わなきゃ」
サリードたち【禁書】の面々は互いに顔を見合わせた。
彼女がそう告げるのならば、彼らとて消極的になってはならない。無論、彼らとてその手で神に止めを刺したい一人の集合だ。ガークスもミリアムも、バネットもサリードもそしてアスタシャも。誰もが何かを奪われた復讐者なのだ。
「……レヲン。あんたがそう言うなら、私も最後まで付き合うさ」
ニスマは。彼女だけはそんな復讐者では無い。ただ主の命に従って彼らに付き添っただけの戦士だ。
だが彼女は共に旅する中でエディ達を少なからず好きになっていった――それは有った嫌悪感が剥がれて消えた程度の些細な変化ではあったが――そして彼女もやはり戦士である。この状況で戦意を、覚悟を失わないレヲンの気質に心を震わされたのだ。
「神は、ここで討つ」
そしてそれを告げるのはガークスの役割だった。神殺しの三基はさて置き、【禁書】に名を連ねる面々は彼の指揮下にある。
「……そうだな。悲願の成就まであとほんの少しって所まで来たんだ」
「っすね! ここでやらなきゃいつやるんす、って感じっすよ!」
サリードとバネットもその声に従う。男達の闘志の声に衝き動かされ、アスタシャやミリアムもまた気合を内に漲らせた。
不安は確かにあった。エディが神になり、レヲンが弱ってしまっている今、更にはあの神殺しの筆頭すら消え失せた。
だが神の軍勢もまた消耗している。あと二柱、あと二柱を打ち崩せたならそれで終わるのだ。長い長い戦いが終結するのだ。今がその最たる好機だと断じれた。
しかし、湧き上がったその想いを打ち砕くかのように。若しくは嘲笑うかのように。
地下に広がる封印の間から立ち昇った光が空へと伸びる。大地と天空とを繋ぐその巨大な柱の中心を、新たに神となったエディが神の聖誕を侍らせて上昇していく姿を彼らの全員は仰ぎ見た。
「――エディ!」
レヲンが叫ぶ。だが神は振り向かない。
「良いのですか?」
慈愛の笑みを見せながら神の聖誕が神に問う。だが神は一瞥すらくれずに天空の向こう側に広がる彼らの“楽園”へと直進する。
「天使の補充と楽園の再建……それが最優先だと言ったのはお前だろう?」
「確かに、そうでしたね」
既に空を覆う極彩色の渦は消え失せ、夜の闇が広がっていた。
その中心を貫く巨大な光の柱を昇っていく神と熾天使。惨劇に見舞われた聖都、そしてそこに残された人々や大穴の淵で彼らを見上げる戦士たちに目もくれず。
だが、それを阻む者は眼前に現れる。
「どこに行こうと言うのですか」
斬撃一閃――――再三の“切断”で以て距離を切除し接近した天は続けざまに自らに及ぶ“落下”をも排して空中に立ちはだかった。
蒼い悪魔は自らに僅かに残された本懐だけでその特攻を選択した。だが現状それが許されるのは彼だけだ。
単身立ち向かう天の姿にしかし神は表情を崩さず、神の聖誕もまたただただ笑むだけだった。




