夢・デマ・他愛・魔性⑳
『きみは特別じゃない。そもそも、特別な誰かなんていやしないでしょ』
「……そう、なのかも知れません」
ああ、これは決別だ――――天は確信した。
そうさせる程に、マリアベルの言葉は強く、鋭く、しかしその微笑みは美しかった。
『――だから特別になりたいんであって』
「え?」
だと言うのに。
やはり彼女が伝える言葉は急所を撃ち抜くかの如く鮮烈だと言うのに。
その響きは甘く、目を逸らせない程に粘着質で、そして気が付けば目鼻の先にいる程に近しいものだった。
ああ、悪魔めいている。
その輪郭も色彩も何もかも――――悪魔めいている。
それだからこそ。
そうなのだからこそ。
この邂逅は、きっと決別以外の何物では無いのだろうという予感が確信めいてこの心に降り注ぐのだ。土砂降りのように、避けさせてはくれないのだ。
『見つからないからこそ見つけたい。理解できないからこそ理解したい。わたしたちが感じるこの想いも、そんな風なものと多分一緒でしょ?』
成程、理解できる――目を逸らせないままに天は思議する。
出来ると判っているものならば出来るのだからやろうとしない。
出来ないもの、出来るとは限らないものだからこそ、それを試す価値があり、心躍るのだと――恐らくマリアベルの言っていることはそういうことだと合点する。
届かないからこそ魅せられるのだ。
彼女が、どの色にも染まらないからこそ染め上げたい、この欲動のように。
『ねえ――――ずっと、わたしを特別にしていてくれる?』
機械で飾られた両腕が伸ばされる。受け入れたならば彼女の美でしか無い肢体は己の躯体をいとも容易く抱き締めただろう。
だが、どうしてだか天はそれを受け入れることが出来なかった。
『……どうして? どうして受け入れてくれないの?』
ああ。
これまでに何度も見てきた貌だ。
誰かが壊れてしまった時に限って見せる――――魔女めいて聖母のような破顔。
何よりも大切だった。
何よりも好きだった。
彼女といる時間は、自分を特別だと思えた。
彼女がいなくなった後の旅は、彼女を特別だと再認識する道程だった。
ただ、そこに愛などは無かったのだともう知ってしまっている。
だから。
「――御免です」
ぴたり、と四肢が止まる。
表情が、冷たく研ぎ澄まされていく。
「貴女の言う通りです。賤方は何も特別じゃない――――死の淵で賤方に死を望む貴女の願いを跳ね除けて助け出す程の強さも無ければ、自らの半身にさえ太刀打ちできずに一人の少女を守ることも出来そうに無い、ただの凡夫のようです」
張り巡らされた甘く粘着質な熱が解けて行く。
「本当は――――貴女を救いたかった。貴女を覚え続けていたかった。貴女を抱えたままの賤方のまま、強く在りたかった」
ああ――やっぱりこれは決別だ。
どうしようもなく、紛うこと無き決別だ。
「いえ、強く、なりたかった」
特別な存在の傍にいる、自分もまた特別な存在だと誤認したまま――それは何と退廃的で、甘美なのだろう。
「でも、もう終わりです」
傲り。
天の霊座に居座る罪科。
だがそれは、カエリを天へと昇華させるために召喚された牛という悪魔が齎したものなどでは無い。
天は天になる前、カエリであった時からそれを持ち続けていた。
自分は特別なのだと言う傲りが、いつだって彼の胸を張らせていた。彼の背筋をしゃんと伸ばしていた。
「賤方は強くなかった」
抱き締めようと伸ばした手を下ろし、しかしマリアベルは満面の笑みを湛えていた。
「御免なさい」
湛えたままで、ふるふると首を横に振る。
真っ白な闇が晴れて行く気配の中、一度伏せた目を持ち上げて天は泣きそうな笑みを見せた。
「御免なさい――――賤方は、」
ああ。
その先は――――興味が失せたように消えた彼女に、果たして届いたのだろうか。
だけれども。
届かなかったとしても、それならもうそれでいいと――そう天は独り言ち、顔を上げた。
対峙する牛の双眸に映ったのは、あまりにも歪な存在だった。
紅潮した肌は褪せた珊瑚色に熱されている――だが、それは自らが混じり合い躯体の性能を極める【神斬武士】とは違う。その証左に今の彼には角が無い。
そもそも、本来は断ち切ったあの白刃の内に潜む自らがどういうわけか具象化して外にいるのだ。天はその躯体の性能上、単体で【神斬武士】へとは変じられない。あの憑依魔術は寧ろ、牛に与えられた領分だ。
だから牛は困惑した。しかしその困惑も直ぐに意識の外へと消えて行く。
ここに来てまさか天が自分の与り知らない力を発揮しようとしているのだ。闘技者として、これほど嬉しいことは無かった。
ああ、まだ斬り結べるのだ。ああ、まだ斬り合っていいのだ――――湧き立つ思いに破顔する牛は、三度殺戮鬼の様相を手に入れる。
「はは、ははははは! 嬉しい、嬉しいです天! あのような幕切れで終わらせてくれないその心意気、まるで夢のようです!」
「……そうですか。残念ながら、賤方は夢など見ませんから、その気持ちは解ってあげられそうにありません」
肌が変色するほどの熱が外気を乱し、そこに漲る気力とは対照的に天はひどく静かで、そしてひどく穏やかだった。
斬られた傷は山犬の微分子機械が既に修復を始めており、だが牛の軍刀同様に断ち折られた白刃が戻ることは無い。
歪だった。
目の前にいるのに、どこか遠くにいるような。
そこにいないのでは無いか、幻を相手にしているのでは無いかという錯覚めいた揺らぎが、事実牛の視界に映る天の輪郭を揺らめかせている。
纏う色彩ですら、透明度が増して向こう側が透けるようだ――――だが目を凝らして見てみればやはりそれは錯覚だったと気付く。
「……あと、それほど愉しめないとも思います」
「随分と余裕な口を叩くじゃないですか」
「いえ――――賤方はどうやら、貴方が想像しているような無双者では無いのですから」
「――――は?」
疑を発しながらもしかし牛は確信した。
眼前にて覚醒した天は、自分が知る天では無い、と。牛が知る天は、自らのことをそう安く・弱く見積もるような武士では無い。
傲りを有する故の強さを根幹に宿す闘技者だ。弱さを自らに宿すことを忌避し、そしてそれを絶対に許さない筈の男だ。少なくとも、刀の内側で見てきた天のこれまではそうだった。
こんな風に、覚醒しておきながらいつでも斬り殺せるような脆弱さを纏う者では無かった。
だと言うのに。
だと言うのにだ――――どうしてだか牛は、これまでの天よりも遥かに強大な力を夢想した。
自信と共に自身を見失って項垂れるような佇まいの天は、しかしどうしてだかそれなのにも関わらず、どう打ち込もうとも仕留められる未来が浮かばないのだ。
「……そうか」
「……何が、でしょう?」
「貴方は、……いえ、貴方も、貴方自身を斬り捨てるのですね」
「さぁ……どうなのでしょう」
合点が行くと、牛は表情を切り替える。
殺戮鬼の牛では、もう太刀打ちできる相手では無いと確信したからだ。
あの電脳遊戯の世界で、その世界そのもの諸共斬り伏せ終焉を齎した、あの時の自分で無ければ太刀打ちできないのだと――――
「そうだとしても……斬るのは僕だ」
「そうですか」
断たれた白刃を鞘に納めた天は、両脚を前後に大きく開きそして右手をだらりと垂らすいつものあの構えを取らなかった。
ただ得物を鞘に納めたままの棒立ち――だからこそ牛は後方へと跳躍して距離を置くと、自らもまた最も自然な形に構える。
片や全身を弛緩させだらりと立つ天と。
片や構えた軍刀の切っ先を真っ直ぐ敵へと向ける牛。
「――――天」
ごくりと喉を鳴らしながら、殊理はただただその名前を呟いた。
殊理にすら、そこにいて自分を守っているのが本当に天なのかどうなのか、もう判らないのだ。姿形は全く同じで何一つ変わっていないと言うのに、まるで全くの別人がそこに立っているようなのだ――だが、何かしらの魔術の作用でそうなっているのでは無い。だからこそそれが天で無い筈が無いという思考と、それが天である筈が無いという思考が狭い脳内でぶつかり合っている。
だがそこにいるのだ。あの黒い殺人鬼に殺されようとしている自分を守るように立ちはだかってくれている存在は、変わらずに立ちはだかってくれているのだ。
ならばそれが天で無くても、その身の無事を祈るしか無い。
「――――天、……」
恐らく、この先はきっとそう長くは無いだろう――――決着は直ぐに訪れるだろうと牛は分かっていた。それは殊理も、そして天もそうだった。
互いに全身全霊を超えた力同士をぶつけ合い、どちらがより強く相手の力を弾くか――――だがそれが果たしてどちらなのかまでは、三人ともが知り及びはしない。
「行きます――――っ!」
告げ、牛は《《号》》を発す――――世界をすらも、ありとあらゆる神羅万象を断つことだけにすべてを捧げ、それ故に真理の一端へと到達した《《その力》》を解き放つ。
「“断ち切れずには、生きられない”――――っ!!」




