夢・デマ・他愛・魔性⑮
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「えっと、……その、天は、マリアベルさんの何処が好きになったの?」
問われるのも不思議では無い、と天は苦笑した。
だがその答えは解り切っている――それでも彼が思案の素振りを見せたのは、それを最もそのままの形で伝えられる言葉を持ってはいなかったからだ。
いや、その感情の名前を知らなかった、と言っても過言では無い。そして、名前を付けてしまえば、言葉にしてしまえば、その感情が何だか陳腐なものに成り果ててしまう気がして――だから天は、目を細めながら「何処ですかねえ」等と茶を濁す暴挙に出た。
「え、好き、なんだよね?」
「好き、なんでしょうか? ……賤方にはよく分かりませんよ、だって賤方は天。彼女、マリアベルと交流があったのはカエリの方でしたから」
「あ、そっか……」
偽言だ。現在の天はかつてのカエリであると言ってもいいほど、レヲンとノヱル若しくはルピと山犬との関係とは異なる。
好き、好んでいる、という端的な表現に纏めてしまうのなら、確実に天はマリアベルを好いており、そしてそれは現在も何一つ変わらない。
天自身、自分の人生の中であの女性よりも強烈に心の琴線を振るわせる美しい女性は現れないだろうと確信している。だが彼は、そうだからこそ新たな女性との出逢い・巡り合いを求めていた。
「ただ」
「ただ?」
ただ一つだけ、たった一つだけ。
そんな天にも誇らしく言い放てる想いならばある。
「かつての賤方は、元々は男娼型のヒトガタとしてその役割、存在意義を遺憾なく発揮する予定でした。夜の色に纏わる様々な知識と技術とはこの躯体の内に予め設定されており、この輪郭や色彩もそのため……自慢ではありませんが、賤方は数ある男娼型のヒトガタとしては最高傑作とも言われていたのです。殊に、造形の美は。そんな賤方ですが……結局一度たりとも、彼女を満足させることは出来ませんでした」
「満足って……え? ヤってなかったんじゃ」
「賤方も彼女も、結局は夜の光に揺蕩う虫――思い上がっていた賤方は、出逢った当初はそれこそ競い合うように彼女と肌を重ね、息を散らしたものです」
「いや、ものですって言われても……」
「でも勝負はいつも賤方の負けでした。それが続いたものですから、いつからかこれはどういうことだと、何が理由なんだと困り果て……最終的に、彼女に訊いてみることにしたんです」
「訊いてみるって……自分が勝てない理由?」
「いえ、嬌声は演技か、と」
「ぶ――っ!」
思わず吹き出してしまった殊理に気恥ずかしく微笑んだ天は、だが更に一層昔話を続ける。
「今の貴女と同じように吹き出して笑っていました。いやそんなことは無い、なかなかの技巧者だよ、とは言っていたものの……どう頑張っても、彼女を満足させることは出来ませんでした」
そもそも、ヒトガタは疲れない。一晩中まぐわっていたとしても、大気中の霊銀が涸れない限りは終わりなく動き続けることが出来る。
特に娼婦型・男娼型というのは性の営みに特化した躯体だ。それこそ、その行為によって受ける損傷や負担にはめっぽう強い。
だがそんな果てしない責めを全て飲み込んだ挙句、おかわりすら要求したのがマリアベルだ。
ヒトガタに疲れが無いように、彼女という存在には果てや底が無いようにすら思えた。
「最初は、単純に最高傑作である自分が満足させられない女性などいる筈が無い、という傲りでした」
しかしそれは、いつしか純粋な興味へと移ろった。
どのような生き方をすれば、このような終わりの無い存在へと昇華されるのか。
どのような人生を送れば、こんな風に美しくも物悲しい・儚い存在へと至れるのか。
その興味もまた、尽きることは無かった。
ヒトガタにとっての疲れが無いように、マリアベルにとっての奥底が無かったように。
もともとは、その秘奥を覗くことで自らもまたその高みへと上り詰めたいというヒトガタに由来する向上心だった。或いは、傲りから来る野心、自らをそのままにするには赦せないという誇りだった。
しかしまるで年月が金属を錆び付かせ、吹き抜ける風がその内側を露出させていくように――彼女との触れ合いはカエリの一番奥に潜んでいた“恋心”を顕わにさせた。紛うことなく、それは彼女に対する恋心だった。
一つを知る度に、もう三つを知りたいと思うようになった。
一つを知る度に、自分の何かも知って欲しいと願うようになった。
一つを知るために、どうにかして彼女といられる口実や時間を探すようになった。
一つを終える度に、――――薄れて行く多幸感の後で襲い来る虚無感に苛まれた。
空虚だった。
自分にはこんなにも何も無いものなのかと、彼女に気付かれないようにカエリはいつだって愕然としていた。
それでも、彼女といる時間は、彼女と交わす言葉はいつだって、カエリにこれ以上の無いほどの幸せを齎していたのは事実だ。
重ねなくとも、触れる程度で無用となった躯体の役割が報われるようだった。
触れなくとも、見つめ合うだけで歯車が大きく軋み、ヒトガタという機械の何かがいつだって変わって行った。
きっと、心は貴女がくれたんだろう――陳腐かもしれないけれど、と前置きして告げた台詞に、マリアベルはやはり吹き出して大笑いした。
気恥ずかしくてしょうがなかったが、でもカエリは後悔していない。
彼女が、マリアベルが誰かを壊そうとする以外であの笑みを見ることが出来たのだ――それは今でも、彼の最大の誇りとして霊座の中心に居座っている。
「一度、どうしてそんなに人を壊そうとするのか、と訊いたことがあります」
「うん……」
「壊そうとはしていない、勝手に壊れて行くだけ、という答えが帰って来たのですが」
「……うん」
辟易とした表情だった。殊理の中ではマリアベルはもうそういう人物に描かれているのだろうと、天は自らの表現力の足らなさに彼もまた辟易としていた。
だがきっとそれでもいいと、同時に天はそう考えていた。
自分程度の存在が語れるような存在では無いのだと――マリアベルに対するそんな自負は、やはり彼を高揚させるのだから。
「それでも壊れてくれるほど愛してくれて嬉しいと言った彼女の表情は美しかった。――きっと彼女は、世界の誰よりも誰かに愛されたくて、それでいて世界の誰よりも愛の移ろいやすさ、壊れやすさを理解していたのでしょう」
「……うん? う、うん」
「解らなくて結構です。賤方も彼女の全てを理解しているわけではありませんし、それに――そうしたくとも、もうそうすることは永遠に出来ません。彼女は、もういないのですから」
「え――っ?」
「今から約六十年前でしょうか――――世界で最初の“粛清”が起きたその日、彼女は死んでしまったのです」
きっとそれは“恋”だった。
でも他方から見ればそれはやはり、“呪い”なのだろう。




