夢・デマ・他愛・魔性⑨
(時速6キロメートル――走ってさえいませんが、着実にこちらを追い詰める歩調……)
瓦礫だらけの街を駆け抜けながら、天は自らの躯体の内で牛の動きを報せる霊銀探査機能を確認しながら薄く目を細める。
ヒトガタは休むことを知らない。躯体の性能に問題が無ければ一昼夜を通して、いやそれ以上の時間を際限なく走破することも可能だ。
しかし今の天は先刻穿たれた傷により機能低下の問題を抱えている。追加機能の殆どは機能不全を起こし、予め備わっている特殊機能さえ一部に異常が見られている。
辛うじて、躯体性能の出力には影響が無いのが救い――だが牛を相手に刃を交えるのは避けたかった。
牛はおそらく生身なのだろう――どうしてそうなったのか解らない具象体とは言え、その身が牛の生前を復元しているのだとすれば、それは即ち人間を相手にするようなものだ。
だがそれでも天は、交戦すれば分が悪いのは自分だろうと感じていた。
その理由のひとつは、牛という存在はもともと天の用いていた刀の内側にあり、天が鞘から白刃を抜き放つ際にその刃に載る強大な力そのものだったのだ。
それは天の意思に応じて【神薙】や【神緯】と言った斬術で現れる――先程牛に穿たれた際に彼の突き出した軍刀を断ち折ったということは、牛無しでもそれらの斬術は行使可能ではあるものの、やはり牛が中にいるのといないのとでは威力と発動までの時差に大きな隔たりがあると天は認識している――もしもあの一撃が牛を加味した最大出力だったのならば、穿たれるよりも速く空間の断絶が軍刀を鍔元から消し去っていただろう。
そしてもうひとつは、牛そのものの存在が持つ言い得もしない禍々しさだ。
軍刀を構えて刃を向けた辺りから豹変した彼の肉体が放つ存在感を、とてもでは無いが天には言葉で表現することが出来ない。いや、そうなった彼に抱いたあの感情がどのような名前であるのかすら判らないのだ。
天たちヒトガタは人間社会に適応できるように人間が抱く感情を予め知識としてインプットされている――しかしそれはあくまで知識であり、彼らが抱くべき感情ではない。
彼らには知る由も無いことだが――全く別の時空座標においてクルードと対峙したノヱルがそうであったように、天もまた自らの内側に無い感情を初めて創出し、体験した。
きっと彼が人間であったならば、その感情の名は“死に対する恐怖”だと直ぐに理解できただろう。
「……一度、この辺りで休憩としましょう」
「えっ? あ、……はい」
ヒトガタは疲れないが人間は疲れる。天の両腕に抱かれていても、剰え振動や衝撃が最小限になるように気を遣われていたとしても、小一時間の走破は確実に殊理の体力を奪っていた。殊理は殊理で天の両腕から自らが零れ落ちないように彼の躯体にしがみ付いていたのだから――それも、動かなく重い両脚をぶら下げて。
崩れ落ちた集合住宅の無機質になってしまった瓦礫ばかりの風景の中で立ち止まった天は、なるべく地面と平行で広く滑らかな瓦礫を選定すると、その上に殊理の身体を優しく下ろした。
そして自らの着衣の乱れを正し――そうしたところで、きゅううと鳴る生理現象に耳を欹てる。
音に眉をぴくりと蠢かせ正面を見遣れば、瓦礫の上でお腹を抑えた少女はほんのりと顔を赤らめている――その様子に、安堵したような笑みを天は零した。
「――やはり、賤方には貴女が死を望んでいるとは思いません。いえ、少なくとも貴女の肉体は、そんな風に生きたがっている」
バツが悪そうな、それでいて恥ずかしそうな雲った顔がぐわりと険しくなる。
殊理は空いた腹を抑えたままで顔を上げると、微笑む天をきっと睨み付けた。
「二元論なんて流行んないよ」
「そうですか? 賤方は割と好きな考え方なのですが」
もしも彼女の両脚が動いたのなら、今にも噛み付きそうな表情だった。だがきっと、彼女の両脚が動いたならば彼女は生きたいと思うだろうと天は認識している。
「それに、漫画や演劇などの創作表現ではよく、“精神が肉体を凌駕した”だなんて言うじゃ無いですか――あ、賤方たちの世界ではそういう表現があってですね」
「……知ってるよ」
殊理のように、自らが知っている“人間”と全く変わらない姿形をしているのを見ていると、ついうっかり彼女がまるで自分たちと同じ世界に住まう人間であると錯覚してしまう――それを慌てて修正しようとした天だったが、しかし彼の言葉に彼女はすんなりと頷いた。
「でもさ、あれって変な表現だと思いませんか?」
「そうですか?」
「だって、“精神が肉体を凌駕する”だなんて、ごくごく当たり前のことだと思うんですけど」
「当たり前の?」
殊理は更に頷く。そして冷めたから涼やかなくらいには温まった表情で饒舌に語り出す。それを、天はやはり微笑みながら聴いている。
「だって面白かったり楽しかったりすれば自然と笑うし、哀しかったら涙が出るし、怒ったり恨みがましい時には目尻が釣り上がる――それって、精神の状態が肉体を動かしているってことになりませんか?」
耳を欹てながら、天の佇まいの形は自然と変わって行った。
成程、面白い――そんな感想を知能的演算核が打ち出しながら、彼の右手は自らの細い顎先を撫で、反対の左手は腰に落ち着いている。正しく思案の様相だ。
「確かに――考えてみればそうかも知れませんね。精神と肉体を分けるのであれば、言わば精神は司令塔。実際に“身体表現”という形でそれを実行に移すのは肉体の仕事であると言えます」
「ですよね!?」
「ですが娯楽で描かれているのは、肉体の限界を超越している場面です――本来ならば倒れて動けない筈の身体を、気迫だけで支えていたり立ち上がったり……」
「逆に考えてみればそっちの方が凄いことだって気付くと思いますけど」
「逆、と言うと?」
尖らせた口から重い息を吐き、殊理はさらに舌を口腔内で躍らせる。
「だから、“肉体が精神を凌駕した”ってパターンです」
「肉体が精神を――――」
「例えばそれって、全然楽しく無い筈なのに、笑顔でいると気持ちがウキウキしたり、全然そんなつもり無いのに急いで行動してると何だか焦っちゃう、ってことになりませんか? そういう状況って無くないですか?」
問われ、天は思案した。
人間は自らの尺度をしか持たない。それは人間では無くともヒトガタもそうだ。自らの経験や過去の記憶と照らし合わせ、それが本当にそうなのかを確かめるという術しか無い。
そして天は、よく判らなかった。
だからその解を、努めて丁寧に吐き出した。
「――――すみません……考えてみたのですが、賤方には難しいようです」
「ええっ?」




