異ノ血の異ノ理⑰
淡く月の光で白む宵闇の下に身を投じた禽は、洞穴を飛び出すや否や身を翻すように大きく捻り、岩肌を蹴って跳び上がった。
両腕にはすでに剣のように鋭く硬化した羽根が生え揃い、獲物を斬り付ける最も強靭な武器であるそれらの剣翼は、そして禽の身体を空へと舞い上がらせる飛行能力すら有している。
その動きは大きく目立ち、当たり前にバジリスクの巨大な四つの瞳が禽を捉える。
「しぃっ!」
腕を大きく振り払うようにして剣翼を射出する禽は、肉薄せんとするバジリスクを牽制しながら洞穴から遠ざかる――当然、少女の身を守るためだ。
「――――ッ!!」
「っ!?」
しかし四つのうち、業火のように緋く輝く眼から熱線を照射し、バジリスクは剣翼の投擲を意に介さず進撃する。
乱立する大小様々な岩から岩へと飛び交う禽の移動は実に立体的であり、しかし十字に並ぶバジリスクの四つの視線が結ぶ視界はその縦横無尽の動きを確実に捉えている。
もしも禽が羽搏くことで空中であっても姿勢や座標を制御する術を得ていなかったとしたら、少なくとも両下肢は焼き切れ、胴には三つの焦げた風穴が開いていただろう。
(剣翼の投擲は通用しない――――しかし、直接斬り付けようにもあの厄介な視線が邪魔だ……)
“邪視”或いは“邪眼”と称ばれる特殊能力を備えた魔獣がいることは、緑狐から聞いていたため知っていた。しかし実際にその能力を持ちうる個体と遭遇したのは初めてである禽は、その対処法までは心得ていない。
四度、熱線が照射され宵闇の空に緋い輝きが瞬間迸る。
「おおおおおっっ!!」
跳躍から一転、地を転がるように接近した禽は、バジリスクの巨体故の死角へと身体を捻じ込み、空へと駆け上がるような剣翼の斬撃を見舞った。
絶叫とともに、脇腹から紫がかった血飛沫が上がる――――同時に、禽は弛緩し、地に膝をついてしまう。
知らない、ということは、戦場ではよく死に至る。
バジリスクの血は外気に触れることである成分が揮発する。その成分は毒性を持っており、人体がそれを吸い込むと途端に全身の筋肉が弛緩してしまう――一種の麻痺毒だ。
「――ぁ、――っ」
力の入りきらない身体を引き摺るようにしてどうにか岩場の陰に隠れた禽――先程までとは打って変わった緩慢な動作でその行方を探るバジリスク。
息を潜める間にも、筋繊維がどんどんと意識とは乖離していく感覚に禽は歯嚙みする。しかしそうしようにも、噛み合わせは弱く、存分に力を入れることは出来ない。
どうする――――もしも、自分がこのままこの岩陰で遣り過ごせたとして。
あの魔獣はきっと、また洞穴へと向かうかもしれない。
それだけは、絶対に看過してはならない。
奥歯ががちりと噛み合う。
ぎぎり、と擦り合う音が鳴り、神経を伝って禽の身体を荒ぶる霊銀が蹂躙する。
その奔流は、筋繊維に絡む毒素のひとつひとつを包み込むと瞬きの間に引き剝がし、呼吸とともに身体の外側へと排出した。
劇毒に匹敵しうる感情の昂ぶりがほんの些細なきっかけを得ることで思いもよらない成長や成果を見せることがある――それを“奇蹟”だと初めに語ったのは一体誰だろうか。
(何だ、これは――――力が、漲る)
バジリスクの血煙毒がすっかり抜け切った身体には、未だ荒ぶる霊銀の奔流がまるで大河のように循環している。
立ち上がった禽の視線が、バジリスクの四眸が放つそれと交差する。
「ギシャ――アッ!」
ひどく冷静になった頭が、ひどく熱を帯びる身体を操作する。
岩を蹴って再三跳び上がった禽。しかしその速度はこれまでのものとは雲泥だ。
「ギィッ!?」
十字に並んだ四つの目、その右の瞳に吸い込まれるように、射出された剣翼の一枚が突き刺さる。
「ギシィイャアァァァァアアアアアア!!」
元より一面が赤黒く染まっていた眼球に突き立った剣翼の一枚は薄紫に濁った水晶体の飛沫を上げ。
邪眼の魔獣はのたうち回るように長い頭部を振り回して絶叫する。
その間隙を縫って駆けた禽は地を這うような低い姿勢で魔獣の左肢のひとつに狙いを定め、黒く鋭い鉤爪の生える太い指を切り刻む。
斬撃のいくつかは分厚く硬い鱗を貫けて密な筋繊維を断ち骨へと到達した。しかしそれまでだ――切り落とすにはやはり重量が足りない。
紫色の血飛沫とともに血煙が上がる――しかし吸い込んだそれの対処法ならすでに身体が覚えている。
一度は死さえも意識した禽だったが、けれどバジリスクに対しては寧ろ感謝の念さえ抱いていた。
確かに——禽が散らし切らすこと・生え揃えることを自在にしていた剣翼は、体内の霊銀の操作により羽根の治癒力を活性化させたり、羽毛の硬度・密度を操って行われるものだった。
魔術の基礎――霊銀の体内の循環については緑狐から聞き覚えはあったものの、ひどく感覚的で身に馴染み難く、それ故その行為を禽は半ば無意識のうちに果たしていたのだが。
しかしバジリスクの血煙毒の影響下に置かれたことで霊銀が緊急回避的に活性化し、自らの肉に満ちて流動するそれを意識して感じ取ることが出来たのだ。
その流れを速めることで、また霊銀の奔流を全身の筋肉に絡ませて溶け込む夢想で以て――禽の身体能力は見違えるほどに向上した。
躰術――全身を巡る霊銀に意義を宿らせ各種の能力上昇を施す“奇蹟”を、禽はこの窮地に得たのだ。
(重みが足らないのなら代わりに速度を)
よりはっきりと醒めた思考を練り上げながら、のたうつ魔獣の岩壁のような鱗に、弾性に富んだ皮下組織に、剛健な筋繊維に、そして堅固な骨に己が剣翼を振り下ろし・薙ぎ払い・突き刺し・射出して手傷を加えていく禽の動きはもはや蛇行し円転する流星だ。
目まぐるしく旋回反転する視界の中心に確りと魔獣の姿を捉え、地を蹴り風を切り天に舞い上がり――――十字に四つの目が配置され立体的な動きに敏感なバジリスクも、その縦横無尽の動きを捉えることは出来ても体躯の大きさゆえに動作は全て後手に回る。
痺れを切らし無事な左目から絶対零度の冷気を帯びる視線を放とうとも、それを狙っていた禽は剣翼の羽搏きにより中空で急旋回すると錐揉み回転を見せながら皮膚の比較的柔らかい喉笛に一太刀を見舞う。
「グギャアアアアアアァァァァ――――――――――」
(それでも足りないのなら、更なる傷を)
もうその耳に魔獣の叫びなど聞こえていない。
ただただ禽は、自身に流れる霊銀の小さな脈動を細かく制御しながら自らの動きを更新していく。
より速い走破を。
より高い跳躍を。
より鋭い飛翔を。
より強い斬裂を。
より多い投擲を。
ただただそのためだけの――まるでそのためだけに創られた用途を持つ道具かのように自らと自らの動きを作り変えていく。
ただの殺戮器へと、自らを変異させていく。
抗う魔獣は、しかし徐々に命を削られ、この状態と状況がともに続くのなら確実に散り果てただろう。
しかし誤算は二つ。
まず一つは――――荒ぶる霊銀の活性が段々と、本当に禽の身体を変容させ、その身に急性霊銀中毒による汚染、つまり“異形化”の兆候が現れ始めたこと。
もともと禽は生まれつき霊銀汚染による異形化を享受して生まれた身だ。これは天使と称された少女も同じことだが、凡夫に比ぶれば幾ばくか霊銀汚染に対する抵抗力・順応力に秀でている。
しかしそれを上回る速度と濃度で荒れ狂う霊銀は禽の肉体を内側から組み替えていく。
少女を守るという当初の目的すらも忘れ、憑りつかれたかのように只管に魔獣を冷徹なまま斬り刻み続ける禽の姿は、その片鱗が見えていると言える。
そしてもう一つは――――。
「こっちだ、急げ!」
「魔獣同士の交戦!?縄張り争いか!?」
「何だっていい、アレが聖都郊外まで南下すると交易路が使えなくなる。ここで食い止めるぞ!」
「おう!」
目の前のことに集中するあまり、視界の遠くから松明を掲げ進軍するその小隊の接近に気付かなかったのだ。
だから突如として耳に入ってきたその声の群れに「しまった」と身体を硬直させ――そしてその隙をバジリスクは見逃さない。
「グルルルォォォォオオオオオオオオッッッ!!!」
強靭と言う言葉でさえ修辞しえない太い尻尾の横薙ぎが胸腹部を捉え、無造作に禽の身体を弾き飛ばす。
幸いだったのは、硬直と一撃とのその最中、咄嗟に霊銀の奔流を鳩尾を中心に同心円状に張り巡らせ即席の盾を練り上げたおかげで、命も意識も断たれることは無かったが、しかしそれでも肋の数本は違った。
「ぐ、――――ぅ、――――っ」
禽は悶絶し、先程までの中てられていた高揚も剥がれ落ちた。そうなると、どばどばと分泌されていた脳内麻薬でさえも急速に途絶え、逆転してそれまで消え失せていた疲れや痛みが身体中に蔓延する。
そこで漸く自身の身体の蝕みにも気付いた禽は――しかし当初の目的も思い出したことでさらに冷静を己の芯材とした。
(この流れを、もっとうまく操れば――――まだ戦える)
筋張った胸と腹の奥の折れた骨を感じ取りながら、痛みに悶えるせいで動かしづらくなった霊銀の奔流で以て断たれたそれらを接いでいく。
張り詰めた冷静を焦燥が取り囲む中、しかし眼前遠くの戦場は異様な景色に塗れていた。
――その変容と奮戦を、エディはただただ眺め続けていた。




