異ノ血の異ノ理⑯
禽と少女の旅は困難を極めた。
マントに身を包み人の似姿を装っても、彼らは所詮“異形者”だ。禽の腕は――羽根は殆ど毟り取ってはいるが――翼の形状をしているし、少女もまた背中に小さな翼を形成し瘤のような盛り上がりがある。
幸い、彼らの姿は傍目には旅装そのものだ。通りすがる者の目に疑いの色は無い。
しかし言葉を交わすとなると別だ――命には糧が必要だ。禽は狩りの覚えがあるが少女は違う。
少女は禽よりも長い間ずっと“商品”だった。野生に育った禽とは違い、糧を自身で用意することも出来なければ、生きるために何が必要なのかも解らない。それらは全て、見世物小屋にただいるだけで与えられ続けてきたのだ。
そして禽もまた、社会の中では生きたことが無い。
糧は奪うものであり、寝床はいつも自然の中にあった。見世物小屋での生活が無ければ、こうして町に立ち寄って物を買うことすら思いつかなかっただろう。
(――大丈夫だ、必要なのは観察だ)
少女と一緒に街路をゆっくりと練り歩く中で、視線を投じて耳を欹てる――禽はかつて緑狐から狩りを学んだように、買い物をする者たちを真似るためにそうしたのだ。
誰しもを安堵させる笑みなら、すでに獲得している。言葉だってそうだ。
ただ、店主に話しかけ、欲しいものを伝え、対価を払う――――そこまでの流れを組み立てて漸く、禽は気付き、舌打ちして顔を顰めた。
「……どうしたの?」
少女は不穏な表情を見せる禽の顔を覗き込んで小さく声をかける。
「――――大丈夫だ、気にするな」
禽も少女も。
“金”という対価を持ち合わせていなかった。
(こんなことなら、もっと厳選して小屋から調達しておけばよかった……)
路地の壁に凭れて頭を抱える禽の隣で、少女もまた苦い顔をして口を噤んでいた。
しかし過去を省みたところで仕方が無い。あの時は時間も無ければ、その時点で二人には“金”が必要になるという知識すら無かった。
だから禽は直ぐに思考のベクトルを変えた。生きるために金が必要なら、それをどうやって入手するか――しかし知識が無いのだから正攻法は選択肢に上がってこなかった。
(奪う――しか無いか)
生きるために、命を奪って生きてきた。それ自体に躊躇いは無い。
懸念があるとすれば、少女の存在だ。“狩り”の場に、その矮躯は邪魔以外の何物でもない。
しかし守らなければならないという強い義務感が、少女と二人で戦うことを強く想起させた。
「……お前は、戦わなければならない」
「……はい」
驚きに目を見開くでも無く、ただ淡々と少女は小さく頷いた。瞳に宿る光の色はしかし、少女が到底それを受け入れているとは言い難い。
「オレが、教えてやる」
「……はい。よろしく、お願いします」
その頷きはどれだけの不理解を孕んでいるのだろうか。
それでも禽は疑念と不安とを押し殺し、今一度少女を見据えた。
しかし結論から言うと、少女に戦いは無理だった。
勿論禽の教えが悪かった、というのもある。禽は緑狐が狩りを行う様子を見て、その全てを自ら会得した。しかしそれは禽が物心ついた頃から野生の中に生きてきたからこそ出来たことであり、何一つ決定権を持たないまま鳥籠の中で生まれ育った少女にはできる由もないだけのこと。
そもそも――少女は禽が、路銀を集めるために人間を襲う必要があるが故に教えた戦いの目的を、よく解ってはいなかった。金が無いから日々の食事を郊外の野獣や魔獣を屠って集めるのだと、そう考えていた。
嚙み合わない筈だ――禽はそう独り言ち、倒木に尻餅を衝くようにどすんと腰かけ、そして頭を抱えた。
抱える腕の肘から先には、戦闘訓練のために生やした剣のように鋭く硬化した羽根の残骸が抜け切れずにいた。
「……お前は、一体何が出来るんだ」
顔を覆う手の指の隙間からじろりと睨んだ禽の視線に、少女はバツが悪くなって顔を伏せる。
少女自身、自分には到底特別なことなど何一つ出来ないことを知っていた。それも当然だ、その存在自体が特別とされてきたのだ――だから誰も少女にはそれ以上の特別な何かを求めなかったし、少女も勿論選べなかった。
「……解った」
「え?」
訥々と自分がどうやって過ごしてきたかを、まるで懺悔するように言葉にした少女の物語を聞き収めた禽は、抱えていた頭を解く。
その表情は険しいものだったが、しかし状況を打開しようとする真摯な眼差しとも取れた。少なくとも少女は、その表情に恐怖や不安を感じなかった。
「狩りは俺がやる。お前には買い出しや情報収集を頼むことにする」
「……はい、解りましたっ」
◆
計画性の無い行動のその多くは頓挫するものだ――それは共同体での生活を余儀なくされた禽が新しく学んだ事実だった。
狩りを行う禽と、交流を担当する少女。役割を分担した二人は当初、自分たちはうまく人間社会に溶け込んだと錯覚していた。
しかし彼らは社会というものが孕む規律を知らない。知らないが故に、狩りで得た肉や獣皮などの素材を売り払って生計を立てようとしたした際にそれを侵してしまっていたことを思い知らされ、追われる羽目になる。
小さい共同体――街よりは町、さらに言えば村や集落――であればあるほど、狩人たちの狩場という半ば縄張りのような規律があり。
大きな共同体になると、今度は商売を行う際に商会に加入している必要性に迫られた。
幸いだったのは、彼ら二人が一箇所に定まらず共同体から共同体へと渡り移ろっていたことだ。もし留まっていれば、いずれ捕まり、よくて鳥籠戻り、悪くて死体となっていただろう。
やがて社会に溶け込むことを諦めた二人は、人里離れた山や森を強行するようになった。そしてそうなると途端に少女にガタが訪れ、旅速はがくんと落ちる羽目になる。
「ごめん、なさい……」
その日も、日照りに晒されながら荒野を進んだおかげで少女は脱水症状を起こし倒れた。か細く軽い肢体を背に負いながら天然の洞穴へと辿り着いた禽もまた、疲労を隠し切れない。
この辺りに出没するのは野獣と言うよりは魔獣だ。魔獣は霊銀を知覚し程度の差はあれどそれを操るだけの力を得た獣だ――禽にとってそれは狩る対象ではなく、逃げる若しくは遣り過ごす相手だ。
だから、その大型の魔獣が現れた夜は、炊いていた火を消して息を潜め、二人が身を寄せる洞穴に近寄らないようただ祈るだけだった。
その大型の魔獣は、錆色の強靭な鱗を纏い、鋭く太い鉤爪の生え揃った四対の剛肢、剣の切先・或いは槍の穂先のような牙が乱れ並ぶ強大な顎、上下左右に配置された妖しく光る眼球、背中から長い尾の先端までびっしりと並ぶ歪んだ円錐状の大小さまざまな棘。
それらの特徴を除けば、蜥蜴を単純に巨大にしたようなその大型の魔獣は“バジリスク”と称ばれていたが、そんなことを禽が知る由も無かった。
禽がその時知っていたことは――バジリスクは飢えており、そして洞穴に身を隠す禽と少女の存在に気付いている、ということだけだ。
(――――行くしか、無い)
緩慢な動きでしかし確かに洞穴に近付きつつあるその歩みに、禽は洞穴を飛び出して自らが囮となることを決めた。
このまま洞穴に身を隠したままでいれば、禽も少女もその巨躯の糧となり果ててしまう――禽は少女を庇ったまま洞穴という狭い空間であのような魔獣を相手取れる程卓越した戦闘能力を有しているわけではないことを知っている。
「……行かないで」
立ち上がった禽の背にか細い声がかかる。その声色には多分に心細さが宿っており、禽はほんの少しだけ逡巡してしまう。
そして、その逡巡の何故を、禽は脳裏に浮かべる。
何故、この少女を守りたいのだろうか――――頭を振って疑問を消し去る。
今はそんなことを考えている場合じゃないと。
今はただ、少女を守ることだけを考えるべきだと。
「すぐ、戻る」
禽は肩越しに少しだけ振り向いて、ぎこちないながらも笑みを向けた。
その笑みが寧ろ少女の不安を増幅させたことを禽は知らないし、次の瞬間には駆け出していたのだから少女が再度その背に「嫌だ、行かないで」と呟いた声も聞こえてはいなかった。
――その覚悟と慟哭を、エディはただただ眺め続けていた。




