神子の不毛な片想い
ラウーフを初めて目にしてから、そう時間が立たない頃。バハールとアスブが、王宮の訓練場で立ち話をしていた時のことだ。
「バハール様!」
背後から、元気な子供の声が聞こえた。
振り返ったアスブは、目を疑った。人ならざる見た目の少年が、あどけない笑顔を浮かべ、バハールの方へ走って来る。
「ラウーフ」
対するバハールは敬称もつけず神子の名前を呼び、笑顔で抱擁した。
「バハール様、…」
アスブは周りを気にする素振りを見せ、小声でバハールに注意する。しかしバハールは、片方の口角を少し上げただけだった。
「球蹴をするか!」
「はい!」
バハールはそう言うと、ラウーフの腕を掴んで走り出してしまう。二人はまるで、少し歳の離れた姉弟のようだった。
(もっと冷静な人だと思ってたが…)
(サトール様もバハール様も、危ない橋を渡る)
向こう見ずな行為に少し失望を覚えながらも、アスブはバハールの背中を追いかける。神子を恐れず、子供扱いする胆力は、やはり主君の器に違いないと思ったから。
その頃のラウーフとバハールは、本当に仲の良い姉弟、いや兄弟のようだった。
✧ ✧ ✧
(今や…ねぇ)
アスブは双眼鏡をずらし、ベンチに座るラウーフを見る。バハールに肩を組まれたラウーフは、挙動不審な様子で、視線を彷徨わせていた。時折バハールを盗み見る瞳は、こころなしかいっそう煌めいている。
いつの頃からか、神子の王女への想いは、姉弟愛から恋慕の情に変わっていたらしい。あるいは、初めからそうだったのかもしれない。
(神殿の内情も分かって、こっちとしちゃ助かる話だが。)
神子ラウーフが、どうやらバハールに懸想をしていると勘付いた時、率直に言ってアスブはバハールの身を案じた。
ラウーフは空恐ろしいガキである。噂に聞く人智を超えた力だけでなく、名前ほど絶対的な力はなくとも、神官長という権力を持つのだ。バハールの前では人間らしいが、神殿に居るときは、まるで天上の神々のように、生気のない目で、冷徹に振る舞う。神殿の網を頼りにバハールの敵を引っ掛け、バハールに害をなしそうな貴族は、破門され、財産を取られ、没落した。
(そんなガキの隣に居られる時点で、バハール様はやっぱ肝が据わってるぜ)
平然とした様子で、ラウーフのぎこちなさには気がつくこともなく談笑している主を、アスブは半ば呆れながら眺める。
(まあホントに、バハール様の前じゃただの…)
双眼鏡のレンズの向こうでは、ラウーフが平静を取り繕いながら、バハールに紫水晶の髪飾りを渡していた。
「あの、…バハール様に、お似合いかと思ったので」
(神子様にはバハール様がどう見えてんだ?)
アスブは思わず、疑問を口に出しそうになった。蝶や花が象られた繊細な意匠の髪飾りは、力強いイメージのバハールには、率直に言って似合わない。
しかし、当のバハールはといえば、口元を微笑ませて、髪飾りを受け取っている。
「綺麗な髪飾りだな。ありがとう、ラウーフ」
バハールの返答を聞いて、ラウーフは安心したように微笑む。しかしその後に、バハールの口から、絶望的に頓珍漢な言葉が出てきた。
「だが、いつ襲撃や戦いが起こるか分からないから、壊れそうで髪にはつけられない。部屋に飾るのも勿体ないし、…かといって私に似合うと言ってくれたものをヤーヌルに贈るのも……そうだ」
「お前の髪につけておかないか?私よりお前の方が似合うぞ」
バハールは、決して他人の感情に鈍感な方ではなく、部下への気遣いも評判である。しかし、意図的なのか、そうでないのか、ラウーフの恋心への対応だけは、どうも朴念仁すぎる。
(バハール様、それは流石にNGですよ)
アスブは樹上から首を振り、主に間違いを伝えようとしたが、バハールはラウーフの方を見ている。
「いえ…、…部屋に置いてください」
ラウーフは、神子として振る舞っている時のような張り付いた笑顔で、バハールに答えた。
(…脈はない、と)
健気な少年の様子を見ながら、アスブは心中で同情した。




