戦場
吸い込めば喉を傷つけかねない砂埃が舞う中、バハールはスカーフで口をはじめに目以外の顔の部位を覆い、愛馬である黒馬に乗って砂漠を駆け巡る。その後ろには彼女の側臣たちが続き、彼らが見下ろす砂丘の下には、敵の軍勢が無数の砂粒のように広がっていた。
神子ラウーフが祈りを捧げる数日前、メラザイブの第二王女バハールは、王都から離れた砂漠で、王位継承権をめぐる最後の戦いの最中にあった。
バハールの軍勢に対峙するのは、異母兄の第四王子ナクシルが率いる軍勢である。
「これで最後ですね」
バハールの隣に控える、将軍ラスタクが緊張の籠った声で呟く。
彼女より二回り近く年長のこの将軍は、バハールの味方が今ほど居なかった時から、彼女を支えている。もっとも、将軍は盲目な忠誠心に溢れているわけではなく、勝ち馬をかぎ分ける能力に長けていたのである。
「感慨に浸るのは早い」
臣下にそう言いながら、バハール自身、怒涛に過ぎた勝利と敗北の日々を思い返していた。敬愛していた兄の死から5年。19歳の頃のバハールは、まさか自分が王座に登ろうとする日が来るとは思っていなかった。
✧ ✧ ✧
メラザイブ朝の歴史は、アスマーリや他国同様に血生臭い。国王が複数の妃や妾を持つので、王位をめぐる兄弟殺しや妃殺しが絶えず、数十人いたはずのバハールの兄弟や親戚は、この数年で数人までに減ってしまった。
バハールの母も兄も、既にこの世にはいない。
武芸と勉学の才、人望に恵まれ、次の王と目されていたバハールの兄、第1王子サトールが、妃ともども殺されたのは5年前、バハールが19歳の春だった。バハールの異母兄、第2王子タシールと第4王子ナクシルが謀った暗殺だった。
そして、第1王子の暗殺により、メラザイブは真っ二つに割れた。タシール・ナクシルを支持する人々と、彼らに対抗する、サトールを支持していた人々に。
サトール派だった臣下たちは、はじめバハールの叔父、現国王の年若い弟シャーブを次の国王として担ぎ上げたが、シャーブもタシールらとの戦闘に敗れ、戦死してしまった。担ぐ相手が居なくなった彼らは、王家の血が薄い縁戚よりも、サトールの面影が色濃く、文武の才と人格がある、女であることをのぞけば、誰よりサトールに近いと言われたバハールを担ぐことに決めたのだ。
果たしてバハールは彼らの期待に応え、あるいは初めからバハールが彼らを利用していたのか、数多の部族や軍人貴族、商人を味方につけ、第2王子タシールと第4王子ナクシルの勢力を縮小させていった。そんな時勢の中、タシールはその横暴により支持を失っていき、さらに元々身体が強くなかった彼は、遠征先で赤痢になり、死んでしまった。
残ったナクシルは自分が王だと喜んだのも束の間、兄同様の横暴さに加え、無謀な作戦や趣味により人望を失っていき、いつの間にかバハール派とナクシル派の勢力の人数は逆転していた。
✧ ✧ ✧
「これで終わるといいが」
バハール軍からも、丘の下のナクシルの軍からも少し離れた位置から、二つの軍勢を見ながら、ひとりの男がつぶやく。主に諜報活動、たまに軍事作戦への参加もする、バハールの腹心の部下、アスブだ。彼はナクシルの軍にもぐって彼らの状況を探り、その結果を主のバハールに報告した後、戦況を俯瞰できる位置についている。
「クビも処刑も嫌なんでね。頼みますよ、陛下」
アスブはスカーフを上げて口元を覆い、遠くの主の姿を見ながらつぶやいた。
ー
「行くぞ‥‥最後の戦いだ!!!」
バハールの力強い声に続いて、地響きのような雄叫びが響く。彼女が降り下げた腕の方向へ、矢が降り注ぎ、剣を抜いた万の兵士たちが駆けていく。総大将のバハールは、自軍の動きと敵の動きを冷静に注視する。
紫水晶の瞳は、前しか見ていない。