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アメジストに囚われて

「はぁっ、はぁ…はぁ…」


バクバクと脈打つ心臓を押さえ、ラウーフは浅く息をする。眠れないどころか、更なる悪夢を見てしまった。深酒は逆効果だったらしい。


「起きるか…」


こういう日はもう、潔く眠るのをあきらめてしまった方がマシだ。最悪の場合、一睡も出来ずに朝を迎えることになるが、運が良ければどこかで意識が途切れて、数時間は寝られる。


そう考えたラウーフは、酒を飲むのはやめ、夜風に当たりに、自室のバルコニーへと出た。絨毯が何枚敷けるだろうか、というほど無駄に広い、柱が並ぶバルコニーで、欄干に寄りかかり、遠くの景色を眺める。王宮の壁を越えた遠く向こうには、真夜中だというのに、市場の明かりが点々と灯っていた。


ラウーフは欄干に肘をついたまま、顔を上に向ける。今日の空は雲がないようで、無数の星々が輝いていた。


「あれは英雄ルスタムの星だよ」


昔、妹と一緒に、祖母が語る星の物語を聞いたことを思い出す。


(二人もどこかで、星を見ているだろうか)


ラウーフは久方ぶりに、いつもは心の隅にしまっている、妹と祖母のことを考えた。二人の無事を確かめたことも、故郷に使いの手を送ったこともない。悪い知らせを聞いてしまうことへの恐れもあるが、神子である自分が何かすれば、今も生きているかもしれない二人や、故郷の生き残った人々に何が起きるか分からないからだ。


神子のラウーフには、家族も、友人もいないのだ。







「ラウーフ」


「バハール様!?」


感傷に浸っていたときに、思いもしない人が現れ、ラウーフは思わず間抜けな声をあげてしまった。次期メラザイブ国王たるその人が、どうやって来たのか、欄干に跨っているではないか。煌めく星々と、街の明かりを背景に、バハールはラウーフの視界を塞いで言った。


「酒臭いな。飲みすぎるなと言ったろ、まだ16なんだから」


バハールは欄干から降りてラウーフの隣に立つと、何を思ったのか、ラウーフの肩に腕を回して抱き寄せた。


「バハール様!」


近いです、と言おうとしたはずが、ラウーフの言葉はそこで止まってしまった。


(今は誰も周囲に居ない。バハール様から抱き寄せてくださったのだから、いいんじゃないか?)


寝不足の少年は、神官長でも神子でもない、自分の本心に従うことにした。


「聞いてくれ。さっき、アスブがな。」


(あの男の話か…)


しかし、続くバハールの言葉に、調子に乗っていたラウーフは冷や水を浴びせられた。バハールと常日頃距離が近く、一番信頼されているように見えるあの男の話を、その口から聞くのは心が焦る。


「なあ、笑えるだろ。」

「…くっ」


そんなことを思っていたのに、バハールが話す、あの器用な男の失態に、ラウーフは思わず吹き出してしまった。


(胸の苦しさが薄れていく)


ラウーフは笑いをこらえながら、胸の奥が暖かくなるのを感じた。そして、顔をあげた時、吸い込まれそうなバハールの紫の瞳と目があった。


(そうだ、このアメジストに私は…)


故郷も家族も失い、神子に祀り上げられ、ただ息をする以外の気力などとうに失っていたラウーフが、今日まで曲がりなりにも神官長をしているのは、このアメジストの瞳のためだ。

メラザイブでただ一人、神子でも、奴隷でも、異教徒でもないラウーフを見てくれるバハールのために、彼女のしもべになろうと思ったのだ。



「バハール様…」


恋しさと愛おしさをこらえきれなくなったラウーフは、バハールの褐色の手に、薄白い手を重ねる。熱の籠もったまなざしでバハールを見つめながら、真剣な声色で彼女の名を呼んでみた。


「どうした。」


対するバハールは、真っすぐラウーフの虹色の瞳を見返し、表情を崩すことも、声色を変えることもなく、少し案ずるように尋ねて来た。


酔いと寝不足で頭がまったく回っていないラウーフは、金粉がのった艷やかな唇を眺め、分不相応な欲を抱く。かといって、最低限の自制心、そしてバハールの信頼を失うことへの恐れが残っていた神子は、何も出来るわけもなく、ただ黙って、紫水晶の瞳を見つめ続けた。そしてほんのわずかに、バハールの手に重ねた手に、握るように力を入れてみた。


だが当然、朴念仁のバハールに、いじらしいラウーフの想いなど伝わるわけがなかった。バハールは、ラウーフが家族を恋しがっているとでも思ったのか、ラウーフの肩に回した腕の力を籠めて、空いた手で彼の頭を撫でながら言った。


「安心しろ。今は私が居る。」


ラウーフは、筋肉質な腕と柔らかい感触に身体が反応しないように集中しながら、少し落胆した。


(この浅ましい欲でも、分不相応な愛情でも、この人に伝えたら…)

(バハール様はもう、私を構ってはくれまい。)

(それも自意識過剰だな。この方は、そんなことで揺るがない。私の気持ちなんて、風みたいなものだ。)


急に曖昧になってきた意識の中で、ラウーフは紫水晶の瞳を見ながら、ぼんやりと考えていた。


(なんて身の程知らずなんだ。傍に居られたら、もう…)


やがてラウーフは、眠ってしまった。




(…騒ぎすぎたか。駱駝が来たみたいだな)


バハールは、ラウーフを寝台に寝せてやった後、気配を感じて立ち上がる。


「今度は良い夢を見ろ。」


すやすやと眠る少年の寝顔を見た後、バハールは静かに呟いて去った。


✧ ✧ ✧

翌朝ラウーフは、胸にのしかかる重みと温かさで目を覚ました。


「っ…。なんだ、君か…。」


期待した紫水晶ではなく、翠色の大きな目玉と、白い毛玉が目に入る。神殿の飼い猫、バヤジトだ。ラウーフが市井を視察していた時、偶然拾った猫である。


本当はラウーフの部屋で飼いたかったのだが、神子付きの猫とあってはバヤジトも窮屈だし、猫のために死人を出したくないので、神殿で飼っている数匹の一頭になった。結果、バヤジトは贅沢に神殿中を闊歩し、気まぐれにラウーフの部屋に立ち寄る、実に自由で高慢な猫に育った。


ラウーフはバヤジトの頭を撫でながら、一応、自室を見回す。当然、バハールはもう居なかった。酒に酔って都合のいい夢でも見たかと思ったが、ラウーフの夜着からは、微かにバハールの香水の匂いがした。




盤で顔を洗った後、バヤジトを外に放すため扉を開けると、愛しい人の代わりに、駱駝のような男が佇んでいた。


「次期国王陛下が夜這いとは。困ったものですね。」


冗談めかしていうジャマルを、バヤジトを右手に抱えたまま、ラウーフは睨みつける。ジャマルは茶色の目を細めたまま言った。


「王は王です。あの方もいずれ、陛下のように、貴方を利用するでしょう。」


ラウーフは、ジャマルに軽蔑するような視線を向けたまま、答える。


「…構いません。我々はメラザイブのしもべなのだから、当然ではありませんか。」


ジャマルはあいまいな笑顔を浮かべ、ラウーフの言葉を否定することも肯定することもなく、言葉をつづけた。


「……しかし、王というのは、誰よりも安全なようで、誰より危うい立場だ。ほんとうに、愛しい方を守りたいなら、我々の「助言」のとおりに」


長い睫毛から覗く瞳は、不気味に笑っていた。


「あなた達が…!」


ラウーフが思わずジャマルに掴みかかりそうになった時、緊張感のない声が響いた。


「おや、ごめんなさい、取り込み中ですか」


ジャマルの背後から、気配なく現れたその男は、バハールの異母兄ハジールだった。バハールと同じ髪と肌の色をしているが、柔和で穏やかな表情も、線の細い身体も、印象の薄い顔つきも、あまりバハールには似ていない。眼鏡の奥の瞳の色も、茶色である。

強いて言えば、その長身は、バハールと共通していた。


「ハジール様。おはようございます。どうされたのですか?」


ラウーフは表情を和らげ、努めて丁寧な調子で尋ねた。国王にならなくとも、ハジールは王族だ。


「いえ、ちょうど、ラウーフ様に見ていただきたい事があったもので。」


ハジールは、人の良さそうな笑顔を浮かべ、落ち着いた声で答えた。手元には、資料らしき紙束が見える。


「でしたら、これから私の部屋で話しましょう。今朝の礼拝まで、少し時間もありますから。問題ありませんね、ジャマル?」


ラウーフはジャマルに慇懃な笑顔を浮かべていった。ジャマルによく似た笑顔だった。


「ええ。」


ジャマルはそう返すと、ラウーフの前から退いた。しかし去り際、ジャマルは神子の耳元で、小声でつぶやいた。


「そう遠くないうちに、ラウーフ様にはご決心いただく時が来るでしょう。」


「…」


ラウーフは黙って、部下を見送る。先ほど手を離した際に床に降りたバヤジトは、今度はジャマルに飛びかかり、抱きかかえられていった。


(気まぐれなやつ)


「ラウーフ様」


バヤジトの自由さに呆れながら、愛猫とジャマルの背中を見つめていたラウーフは、穏やかな声で名前を呼ばれて我に返る。


「すみません。ああ、椅子にお座りください。」


ラウーフはハジールを、自分の執務室に案内した。


「大神殿の書庫の整理で…」


ハジールは椅子に座ると、要件を話し始めた。政治に関わる話かと思いきや、事務の話だったので、ラウーフは力が抜けた。ハジールは、丁寧に記載した書類をラウーフに見せながら、書庫の分類について、真剣に話をしている。


第三王子ハジールは、争いを嫌って王位を蹴り、神殿に身を寄せる変わり者である。学者肌で武器の扱いも乗馬も得意ではない彼には、確かに王座に就く可能性はなかったと思われる。


(それにしても…。バハール様にも、他のごきょうだいの誰にも似ず。)

(印象の薄い、目立たない方だ)


ハジールの説明を聞きながら、まだ少し眠いラウーフは、そんな失礼なことを考えていた。


✧ ✧ ✧

その日の正午を回った頃、昼の礼拝を終えたラウーフの元に、焦った様子の神官が飛び込んできた。


「ラウーフ様、至急王宮へ…国王陛下が、ご危篤です」

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