神子、または哀れな羊
それから、ラウーフは、メラザイブのとある地方の神殿で、奴隷として働くことになった。
ラウーフを買った神官は、「お前は神の僕だ」と異教徒の少年に説いた。しかしその男は、偉そうな説教を垂れておきながら、私利私欲の忠実な奴隷で、女子供、果ては青年にまで手を出し、自分の懐に布施を入れておきながら、貧民や病人を救うために神殿の金を出すことを嫌った。幸運にも、ラウーフはその外見から崇められたり気味悪がられたりしたために、奴隷の中でも優遇され、奴らの毒牙にはかからなかった。
そんな折、ある高位の神官が、神殿を訪れた。ざわめく神官たちを遠巻きに、大理石の床を拭いていたラウーフはどういうわけか、神殿の応接間に来るように呼び出された。背の高い金製の重い扉を開けると、主である神官が、のっぽな客人に頭を下げていた。
✧✧✧
自室でくつろぐラウーフは、盃に唇をつけた時、ふと思い出す。
(そういえば、ジャマルはあの時、私を見るなり跪いて、「神子様」と言っていたんだ。)
当時のラウーフは、「神子」という言葉を知らず、聞き落としてしまったのだ。
彼の運命を決めた、その言葉を。
✧✧✧
都の大神官だという、細身で背の高い男は、ジャマルと名乗った。駱駝のように長い睫毛と惚けた目をした、不気味な男だった。
ジャマルは、不気味な笑顔を浮かべたまま、「どうか、失礼をお許しください」と言って、ラウーフの腕を掴むと、有無を言わさず、部屋の外へと引っ張っていった。応接室を出るとき、主人はジャマルに頭を下げるばかりで、勝手に奴隷を連れていかれることに、なんの文句も言わなかった。
少年は男の後ろを歩いて、扉の先の長い柱廊を抜けて、入口へと向かった。途中、幾人かの神官が驚いた表情をしていたが、誰も、ジャマルを止めようとしなかった。
神殿の外には、高そうな生地の長衣を身に付けた数人の神官、着飾った駱駝、その駱駝が引く、屋根付きの荷台があった。ラウーフは、怪しい男に案内されるまま、荷台に乗った。神官はラウーフを隠すように、少年の頭の上に紫色の長衣を被せた。
ラウーフは何の抵抗もせず、自分が連れていかれる理由すら聞かなかった。奴隷にされ、母を亡くしたラウーフは無気力で、不快な主人から逃れられるなら、行き先はどこでもいいと思ったのだ。
行き先が分からない旅路は、思いのほか長く、夜になっても到着する気配がないので、ラウーフは眠ってしまった。月明かりの下、駱駝は、山も川もない、あたり一面に砂が広がる砂漠の中を進んでいった。
熱い昼と凍える夜が何回も繰り返した後、地平線の向こうに、ついに緑が見えた。
「あれが、メラザイブの王都…ジャーハ・ルークです。」
駱駝に似た男は、ラウーフにほほえみ、静かにそう言った。
そのオアシスには、ラウーフが見たこともない喧噪と、広大な迷路のような街があった。人の群れが狭い通りを埋め尽くし、市場には、香辛料や野菜、果物、薬を売る商売人の声が響き、職人が鍋を叩く金槌の音が聞こえる。
奴隷にされてから味わったこともない興奮も束の間、ラウーフは、巨大な白い壁の前に連れていかれた。壁は眼前を埋め尽くし、天までそびえ立つ。
そして、重厚な鉄の扉が開くと、白亜の宮殿が、眩しく光っていた。
白い大理石に囲まれた、天井の高い空間。外の暑さとは無縁の涼しさを、ラウーフは肌寒く感じた。何処までも敷かれた絨毯の上を、ラウーフはジャマルの背中を追って歩いた。周りには武装した兵士と神官が何列も成し、腰を折ってラウーフとジャマルに頭を下げている。
宮殿の中に足を踏み入れてから、ラウーフは冷や汗が止まらなかった。
彼の直感は、逃げろ、逃げろと警鐘を鳴らしていた。
エメラルドが煌めく、立派な椅子の前で、ジャマルは足を止めた。そして、椅子の上に座る、よぼよぼの老人の方に手のひらを向けて言った。
「国王陛下です」
少年の心臓は、大きく跳ねた。
ラウーフの脳裏を、あの惨状の記憶が駆け巡り、心臓はどくどくと脈打ち、血が煮えたぎる。ジャマルは、そんな少年を冷たい駱駝色の瞳で見下ろしながら、淡々と続けた。
「本日からあなたには、神子として、メラザイブに仕えていただきます。数年後には、神官長として、我々の頂に立ち、神殿を統べていただくことになります。」
ジャマルが口を閉じると、国王と呼ばれた老人が玉座から立ち上がり、ラウーフの前に来て跪くと、皺だらけの紫色の唇を開いた。
「ああ…、み、神子様…、」
《神子》という言葉、聞いたことのない言葉を使って、老人はラウーフを呼ぶ。国王が跪くとは、どうやら《神子》とは、よほどの地位のようだと、ラウーフは思った。
(メラザイブに仕える?神官の長?神殿を統べる?)
ラウーフの頭の中には、無数の疑問が浮かび上がった。目の前で頭を垂れるメラザイブ国王、周囲を囲む兵士と神官たち、頭上で輝きを放つ、壁に埋め込まれた数千数万のモザイクと宝石。どれもが直ぐ側にあるのに、とても遠い世界に思えた。
「あなたのご家族とご友人方には、我が命では償えない、申し訳のつかない、過ちを犯しました…」
国王はべらべらと、ラウーフの村を侵略したことについて言い訳を話した。痩せた頬を、次々と雫が伝う。砂漠と草原を支配するメラザイブの国王は、8歳の少年の前で膝をつき、必死に赦しを乞い、涙を流していた。
当のラウーフの耳には、国王の話など、何も入ってこないというのに。




