スタンディングオベーション
34作目です。雨降りが多くなってきましたね。
夕景。
街に落ちる陽を眺めて今日の夕食を考える。
手には鞄。中身はスカスカで誰かに似ている。そんな鞄をなだらかな肩に掛けて、規則正しく並んだタイルの道を不規則に歩いている。
空は拷問の最中のように赤く、明日の晴れを予想させる。予想は不確かで、急に空が機嫌を変えるかもしれない。それは拷問が終わるまでわからないことなのである。
馴染みの書店に入り、馴染みの通路にむかう。そこで馴染みの文庫本たちを眺め、持ち帰る子を選別する。
今日は何にしようか。
あ、ヘミングウェイがあるじゃないか。
そのノーベル賞作家の厚めの文庫本を手に取り、観察して、スカスカの鞄に落とす。これまた馴染みの動作だ。
馴染みの通路を抜けて入り口の方へ。この書店は設備が古いうえに、夕方に訪れると店主は九割五分の確率で眠っている。そして、無駄に静かな自動ドアも荷担して、この書店では盗みが絶えない。けれど、誰も罪悪感など抱いてはいない。そう、こんなザルのような守備をしている方がいけないからだ。
今日の夕方もまた、書店から悲鳴もないまま本がひとつ消えた。
小学生くらいの少年と擦れ違った。彼は書店に入り、真っ先に少年向け雑誌の置き場に向かう。迷いのない動作だった。彼もまた随分と手慣れているに違いない。
ここで悪戯な心が湧き上がった。
もう一度、店に入って、店主の前を態と愉快げな足音で通過した。宛らタップダンスで、流石の居眠りも眼を覚ました。眼に浮かぶのは、少年の顰めっ面。ひとつ、罪を未然に防いで、少年を地獄から遠ざけようという気紛れな優しさが身体を動かした。
奥の通路で白々しく料理の雑誌を開いていたら、少年がすごすごと店を出て行くのが見えて、また、少年が去ったと同時に再び眼を閉じてカウンターに突っ伏す店主が見えた。
料理の雑誌をスカスカだった鞄に落として、今度は馬鹿みたいに静かに、まるで猛獣の横を抜ける愚者のように通り過ぎた。
例によって無駄に静かな自動ドアが罪を見過ごす。或いは見逃してくれているのかもしれない。どちらにせよ、役立たずに変わりはない。
書店から出て、ショーウインドーが可憐なブティックの前を通る。ガラス張りの牢に安置されている、適当に思い付いた花を貼り付けただけのようなワンピースには興味が湧かなかった。まず、自分にはスカートやワンピースのような不確かな格好が不得手なのだ。足があると実感できるジーンズを、漠然とした花柄ワンピースに見せつけながら通り過ぎる。大柄なマダムが反対側のガラス張りの牢内で囚人の着せ替えをしていた。
そいつもそいつで季節外れの青をふんだんに配った需要層に霧が掛かったようなワンピースだった。マダムは肥えた指で必死に着せ替えを続けているが、何度も失敗した。
ここは食肉売り場か?
つまらない文句が鼻から二酸化炭素と一緒に吹き出た。何かを察したマダムが振り返り、それでも、あくまで客に対する作りたての笑顔を見せてくれた。はっきり言わずとも、何の得もないのは明白なことだ。
マダムの視線はガラスで遮断され流れ落ちた。それを見ながら足を進める。右のスニーカーの靴紐が解けかけているのが気になったが、もし、ここで蹲って結んでいる時に刺客が現れたら、と思うと気が気ではなく、仕方なしに、或いは新鮮な怠惰を蔓延らせながら、例の嘗てはスカスカだった鞄を掛けながら歩くのだった。
ブティックから数十歩、街は広場を現し、そこでは微弱な噴水が赤く噴き上がっていた。近くで幼児がシャボン玉を飛ばしている。あの童謡を外れた調子で歌いながら、次々と無計画に飛ばしている。残酷なことに、シャボン玉は童謡のように屋根まで飛ぶことはなく、大抵がすぐに破裂してしまう。きっと、生産過程に何らかの問題があるのだろうが、幼児らが気にすることはない。翻車魚が何億もの卵を産むのと同じような理由なのだと推測できる。
幼児がシャボン玉を使役している風景の一コマにハーモニカを奏でる小汚ない男が映った。男は身なりとはかけ離れた美しい音色を周囲に溢れさせている。既に取り込まれた女がひとり、噴水の縁に座って恍惚とした面持ちで男を眺めていた。男はファンの存在を知ってか知らずか、少し複雑なリズムの曲を奏で始めた。それは知らない曲だったし、お世辞ならば巧いと言えるものだった。
ファンの眼は既に光を捨て、視線は夕景の遥か遠くに向いていた。
人気は人生の一部であり、当然ながら残酷なほどに短い。
今度はセーラー服のショートヘアの女子高生がやって来て、さっきと同じような恍惚とした面持ちで眺め始めた。きっと、男の持てるファンのキャパシティはひとりだけなのだろう。
それは選ばれし者とも取れるが、視点を変えればスケープゴートと何ら変わらないのだ。
さて、夕景も終わりの兆しを見せ始めたので、さっさと夕食の予定を立てなければならない。まず、一番近いところに店を構えていた陳腐な肉屋に立ち寄った。
食肉をひとつ下さい。
さて、これを聞いた店主は苦笑い。
何の肉か指定してくれ、と宣うのだ。
別に希望などなく、ランダムで、と返答すると、苦笑いではなく、困り顔に変化した。次は達磨のように赤くなる可能性が否めない。この手の三度殴ったら激怒するタイプは質が悪い。正直、どんな肉でも構わなかったので、無難に最も安価なものを買った。肉の種類はわからない。生きてない以上、それの特定をすることは意味を為さないように感じられた。
ブティックのマダムに似た大柄な客が現れて、こちらの身体を強く押した。それに対して憤ることなどはしないが、最低限の報復として、マダムその2のハイヒールの踵をへし折ってやった。
あららら、と典型的なようで非日常的な戸惑いの声を上げながらマダムその2は背中から倒れた。こうなると水風船か蛙であり、少なくとも起き上がれていなかった点を考慮すると、やはり水風船なのだろう。
マダムその2は踵の飛んでいった原因を突き止めようと眼を右に左に高速で動かしている。彼女がこちらを疑心の眼で睨んでいたので、寿命でしょう、と返した。マダムその2はスペインの闘牛のように荒い鼻息のパフォーマンスを見せた後、中くらいの値段の肉を買って、アンバランスな足元を引き連れながら去って行った。
少しは痩せなきゃ靴も不憫だ、と肉屋の店主が言った。彼はこちらのスニーカーを見ながら、あんたは心配ないね、と付け加えた。
肉屋の隣の理髪店から髭の特徴的な老人が出て来て、如何にも常連といった感じで肉を買っていった。老人も最も安価な肉を買っていた。
そこで訊ねた。
それは何の肉ですか、と。
老人は言う。
知らぬ、と。
もしも、有毒な生き物のものだったらどうしましょう、と訊ねる。
老人は微笑んで、もう後悔などないさ、と言って理髪店に消えた。
ここで気付いた。左の紐も解けてしまっているではないか。仕方がない。だが、知っている。人為的な道に自然の障害物は存在しないことを。つまりは、躓いたりはしないだろうということを。
だが、道に接しては存在しないが、空中にはある。いつ空が落ちてきてもいいように、街も人も祈りを捧げ、適度に諦めなければならない。
薄暗くなり始めた道は、閑散とした様子を見せ始めたが、灯りが灯り出すと、また賑わいを見せ始めた。
夜に適合できない人間が作り出した人工幻想装置が灯りである。それを忌み嫌いながらも必要としなければならない欠陥を愛せないまま今に至る。解けた靴で灯りが騒ぐ街へ飛び込む。思わず、息を止めたが、そんなものは無意味で完全に意味を為さないのだ。
派手な服を着た若い女が派手な光の狭苦しい店へ入っていくのが見えた。その残り香に釣られた男が数人、店に吸い込まれていく。きっと、あの女もすぐにブティックのマダムのようになるのだろう。
膨張した自尊心と欲は身を滅ぼすのには充分過ぎる。
蛾が外灯の光に集っているのが見えた。さっきの派手な女や男と何が違うのかわからなかった。
相変わらずの規則正しい並びのタイルを不規則に歩いている。そこに意味はなく、両者に因果もない。
前を行く男子大学生のヘッドホンから音が漏れ出ている。ここからだと、メロディーの付いたお経にしか聞こえない。男子大学生の鞄には少年向け雑誌が入っていた。それが正規の手段で手に入れたものなのか、例の書店で手に入れたものなのか判別はできなかった。
音、漏れてますよ。
そう指摘した。
けれど、ヘッドホンをしている彼には届かない。
こんな風では、急なことに対応できないのではないのだろうか。例えば、通り道が現れたり、或いは空が落ちてきたり。周りが平和だと思い込んで、それに甘えていると悲惨な結果を招くことだろう。世界というものは個々人に優しく接してはくれないのだ。
今、ここで、彼を突き飛ばしたとしよう。確率論で話すなら、九割の確率で転倒し、さらに五割の確率で頭を強打して死ぬだろう。彼がポケットから手を出していれば生存確率は上がるだろうが、彼にそんなことを知る由はない。
男子大学生は道を左に曲がった。左へ行くと何があるのか知らない。いつも右に進むからだ。彼を尾けて、彼の悲劇の顛末を見たかったけれど、夕食の適正時刻が近付いて来ている以上は右に曲がらざるを得ないのだ。とても、残念なことだ。
右に曲がると賑やかなのか寂れているのか、将又、そんなことはどうでもいいかのような中庸の様子を呈していた。この雰囲気が好きで右を利用しているというのもある。
見慣れたバーの店員が店前を掃除している。そのきっちりと決めた格好で、古びた柄の短い箒を揺らしているのは、なかなかに滑稽だ。
こんばんは、と店員が言った。なかなかに整った顔の店員で、今日は前髪を掻き上げている。
こんばんは、と返す。
バー、寄っていきませんか、と店員が言う。それ相応の微笑みを、相手が不審に思わない絶妙なレベルの微笑みを彼は携えていた。
いや、と返す。今日は家で夕食の気分なんだ、と付け加える。
店員は、そうですか、と言って、会釈をした後、また箒を揺らし始めた。さっぱりしていて好印象な店員だ。
ところで、あの店を利用した記憶を探るが、そんなものは何処にもなかった。もしかしたら、自分は夢遊病の囚われ人で、いつの間にか、あの店を利用しているのかもしれない。それとも、人格がふたつあって、互いに関知できないシステムになっていたりするのかもしれない。
しかし、そんな可能性はどうでもよく、頭の何処にも来訪の記憶がない以上は訪れていないということに違いないのだ。
足を進める。膝が少し痛む。年齢や怪我による肉体的なものではなく、精神的なものだと推定される。
こうして人の眼がある街中を歩くこと自体が過度な負荷になっている。その負荷を無理矢理に打ち消して生きているので、何処かに代償としての痛みが派遣される。
それが今日は膝だった。
昨日は頭だった。
一昨日は忘れた。
右の商店街からは終わり掛けの夕景が、下手なパノラマ写真のように広がっている。混沌として、仄かに生臭い景観である。生臭いのは近くの魚屋からかもしれないが。
その魚屋の方に顔を向ける。辮髪に近いような髪型の店主が招き猫のような顔で客を待っている。ああいった顔ほど、近付いたものを問答無用で食らうのだ。その証拠に眼も口も開かない。開くと邪悪な眼光と悍ましい牙が露になるからだ。
店主はのそのそと胡獱のように歩いて、こちらへ近付き、買わないなら退いてくれ、と言った。
そんなことを言われて退くやつなんていない。
どうせ客もいないし同じだろう、と返した。
そんなことはない、と胡獱は言う。
ここで思い出したのは、胡獱は猫と近い動物であるということだ。
それを思い浮かべて微笑むと、胡獱の店主は、気持ち悪いやつだ、と言って店の中に戻り、また招き猫のような顔で客を待ち始めた。そうだ、そうやって招いていればいいのだ。
魚屋の横には書店がある。ここの店番の青年は起きていた。
きっと、盗まれたりはしないだろう。
書店には寄らずに、家に帰る道をひたすらに進む。膝が痛むが、それは精神的なものであるが故に帰れば退くだろう。
溜め息が出た。
駅が見えた。そこから電車に乗れば家に帰れる。
また、息を吐いた。
しかし、物事は上手くは進まない。
あなた、神様って信じてますか?
そんな声が聞こえて、誰かが肩を叩いた。振り返ると、胡乱な男が立っていた。
神様を信じてますか、と彼は再度言った。
信じていない、答えた。
何故、と男は言う。
何故? 何故、そんな無意味なことを訊くんだ、と訊ね返す。
男は何も言わない。
こちらも何も言わない。
そして、互いに動かない。こちらが一方的に牽制されているようだ。それは不快なことだ。
埒が明かないので、神は主観のみの存在であって、万人に共通の神がいるわけではない、と答えた。
それで、と男。
あなたの主観には神がいて、こちらの主観には神がいない、それだけのことだ、と男に言った。
男は腕を軽快に揺らし、再度、肩を叩いた。慣れ慣れしい動きで不審と不快が募りに募る。思わず鞄を持つ手に力が入る。
神様を信じましょう、と男は言った。
神は各々の主観と言った筈、と返した。
いえ、万人のものです、と男。
下らないと思い、男から距離を取った。
神の押し売りなら結構だ、と言って歩き出した。実際、思考の押し売りほど悪辣なものは存在しない。個々人が個々人なりの思考を持つからこそ、人間は他の生物よりも優れていると主張できるのだ。
男が何かを言っている。
神様を信じれば救われる、と。痛みも苦しみもない、と。
だが、その神は課金制であり、何も犠牲にしないものは救われないという寸法だろう。神だって慈善事業ではないし、世界と同じように個々人に手を差し伸べるわけでもない。そもそも、そんなものはプラシーボのひとつで、単純で稚拙な安寧を提供するだけだ。つまり、自分には必要がないことだ。
男の声を遮断して駅に向かう。
夕焼けが綺麗だ。
そうだ、今日の夕飯はエビチリにしよう。
鞄の中の雑誌にレシピが記載されていたならラッキーだろう。
夕景。
今日は少し煤けている。それでも赤は眩しく、無秩序に街を染めている。この赤の前では他の色は淘汰される。ただ、あらゆるものが赤く、ノスタルジックに叫ぶのだ。
書店ではまた店主が寝ている。若いOLが静かに入って、静かに出てきた。彼女の鞄からはファッション誌が飛び出していた。相変わらず、サイレントモードに徹する自動ドアは無能なままだ。
今日は昨日に比べて空が暗いが、気温は高い。道行く人も上着を脱いで脇に抱えている。
肥えた男がバスを待っているのが見えた。上着を脇に抱え、それでも汗だくなようだ。何かがお経のように聞こえてくるが、それはバスが来ないことに対しての愚痴だろう。
バスが来ないのは当然で、彼が待つバス停は先月に路線から除外されたからだ。待っても待ってもバスは顔を見せたりしない。
男はこちらの存在に気付いて睨んできた。
そして、バスはいつ来るんだ、と苛立たしげに言った。
わかりません、と返す。事実、いつ来るかなどわかりはしない。可能性の観点から言えばゼロではないのだ。
男はまた愚痴を、咀嚼して細々になった言葉を吐き出す。
待つより歩いた方が早いのでは、と男に言った。
それはバスがいつ来るのか、わかっていての発言かね、と男が威圧的に言った。彼のテトラポッドのような足が可愛らしくも憎らしげに、緩慢な動きでこちらへ向いた。
わかりません、と再度言う。
わかることはあるか、と男。
もうじき夜だってことなら、と返す。
そんなことは馬鹿でもわかる、知りたいのはバスが来るか否かだ、と男が顔を震わせながら言った。
わかりません、と返す。わからないからこそ、歩いた方が良いのではと提案しているのです、と加える。
男は歯軋りをした後、鼻息を強めに噴出し、胸元から矮小な扇子を取り出して歩いて行った。
男が全く見えなくなってから、噴水の方へ向かった。
噴水の近くでは、昨日と同じようにハーモニカの男が知らない曲を奏でていた。その周りにファンはおらず、客観的に見ると、こうして観察している自分がファンとして扱われているに違いない。そんなことは心外で、どうにもむず痒いことなので、足早に音楽を後ろにして歩き出した。
今日も鞄はスカスカだ。思えば、いつもスカスカだ。何かが入ってもスカスカのままなのだ。だからかもしれないが、その鞄は緩やかな放物線状の肩から滑り、ハーモニカ男の前に落ちてしまった。
そこの人、と言われるまで気付かなかった。
振り返るとハーモニカ男が口を介して話しているのが見えた。なかなかに低くてダンディな声の持ち主であるようだ。
何でしょう、と訊ねる。
これ、あんたのだろ、とハーモニカ男がスカスカの鞄を突き出した。
そうです、と言って、それを受け取った。
随分と軽いじゃないか、何処から来たんだい、と男が嫌な慣れ慣れしさで言った。昨日の胡乱な押し売りと同じ香りがする。
何処からでしょう、何処からでもいいですよね、と言って、さっきよりも足早に、今度は音楽ではなく、あのダンディだと思えた声を後ろにして噴水のある広場を抜けた。
男は付いては来なかった。それだけが救いで評価できる点だ。
ふと、空を見上げると赤い中に黒い点がひとつ浮かんでいた。それは黶のようであり、また、ブラックホールのようでもあった。
あれが空を落とすファクターなのかもしれない、と思いながら歩き出した。歩いても茜空と黒点の位置は絶対的であるようで動かなかった。
もしかしたら、と不吉な思考が過る。
だが、空が落ちてくる以上に酷い仕打ちは思い付かない。
蕎麦屋の店員が岡持ちを右手にやって来る。
彼はこちらに同調して空を見上げた。
黒い点が見えませんか、と訊ねた。
見えないなぁ、と店員。見えても何てことはないですよ、まぁ、ちょっと不吉ではありますけどね、と彼は付け加えた。
不吉ってどんなこと、と訊ねる。
そりゃあ、死ぬことじゃないですか、と店員。
死ぬこと、と繰り返す。
そう、死んだら誰も幸せになりませんよ、と言う。僕だってあなたが死んだら悲しいでしょうし、と彼は二枚目俳優を水に浸けたような物寂しさを携えて言った。
それに対しては何も言わなかった。返す意義を感じなかった。恐らく、彼の価値観とは平行線であることがわかった以上、ここからの駁議は不毛にしか成り得ないのだ。あの胡乱な男が妥当な例ではないだろうか。
蕎麦屋は不自然に会釈をして立ち去った。
こちらは依然として空を見上げている。
視界がゆっくりと回り出す程度には眺めている。
暗色の雲だけが流れ、下地の赤は変化しない空。
言葉は異化し、やがては収束する。
そして、綺麗だ、という普遍的で万能な感想へと変わっていく。この普遍的で万能な感想が瞬時に頭に浮かんだのは言うまでもない。案外、この巫山戯た脳味噌も一定の性能を保ってくれているらしい。尚、大概の脳味噌の性能は後天的な作用で決定される。
足は知らず知らず前に進んでいく。
膝ではなく、心臓が痛い。
不思議なことに身体が軽いように思えた。
昨日、ヘッドフォンの大学生が歩いていた道をトレースするように歩く。規則正しいタイルを不規則に歩く。
そして、分かれ道に差し掛かった。
いつもは右に行く。それは右が帰路だからだ。でも、今日は心臓が鈍痛を訴えて、身体は不自然に軽い。
そうだ、左に行こう。
知らない道に踏み込む無謀な勇気が心臓の鈍痛を消すかのように高鳴っている。足は巨人の一歩のように、それでいて雄弁に動き出す。幾万もの大気の層を破りながら左足が新天地の征服の姿勢で大地を鳴らした。
これは興奮だろうか。
心臓は痛くない。鼓動で息苦しいけれど、それは大した苦ではない。身体は鼓動に同調し、歪んでいた血と肉と骨とを浄化する。
未知を踏破しようという稀有な意思が湧出して、浄化された身体を更に洗練していく。
夕陽が背中を照らしている。
その偉大な熱が伝わってくる。
息を吐けば血が滾り、息を吸えば肉が騒いだ。
熱を帯びた水晶体は夕暮れの街の暗くなる様を鮮明に、それはまるで、値が張るあまりに嫌厭される高画質ビデオカメラのような解像度で、隅から隅まで映し出していた。
その高画質の視界に影がひとつ映った。
頭にはヘッドホンが装着されていて、手には何かを持っている。幽かに音が聞こえてくる。
影はこちらへ近付いて来る。
何故か、何故か動けなかった。
そして、影は静かに、それでいて革命的に抱き締めてきた。
熱が一点に集中し、心臓の鈍痛は完全に蚊帳の外となった。
今は漏れ出している音がわかる。知らない曲であることだけがわかった。とても無意味なことだ。
恐らく、退くことはできた。けれど、退いたところで何も変わらなかったのだろう。そう思いながら熱源に触れた。
ヘッドホンの彼が身体を剥がす。残ったのは苛烈な熱、心臓の鈍痛と置き換わった喜劇的な灼けつく痛み。
息を吐けば血は溢れ、息を吸えば肉が唸る。
案外、血はさらりとしているようだ。
そして、案の定、赤い。
彼がまた近付いてくる。もう退くことすら叶わないし、それをしようとも思わない。この現実が全ての帰着点であることは明白だったからだ。
冷たい金属、今は多少の熱を持つそれが、ゆっくりと肉体に挿入される。そして、奥深くへと進み、誰も触れたことがない深淵を穿つ。
そして、金属は出て行った。
今、この忌まわしき身体にはふたつの細長い穴が開いている。そして、両方の穴から真っ赤な血がとろとろと流れ出ている。
ふと、人を呪わば穴ふたつ、なんて言葉が脳裏を掠めた。
視界の質が低下し、スローモーションのように落下していく。
身体は自力で支えることを完全に諦め、規則正しいタイルを赤に染めながら横になった。止めどない血の所為で身体が熱い。或いは夕陽の所為である可能性も否めない。
彼は再び近付き、寝ている背中に、カトラリーで食材を抉るように金属を突き立てた。
痛い、けれど、さっきよりマシだ。マシと言っても、動けるわけじゃないし、生き延びることができる見込みがあるわけでもない。
彼は金属を抜き、違うところに突き立てる。そして、抜き、突き立てる。また抜いて、突き立てる。そして、突き立てて、突き立てて、突き立てる。このリズムに心地好さを見出だすことができる程度の余裕がある。
十四回目の抜いて突いてが終わり、彼は腰を屈めて言った。
神様を信じましょう、と。
それを聞いて、思わず鼻で笑ってしまった。
そして、言った。
神がいたとして、それを信じたとして、ここから何ができるのだろう、きっと、ホスピスのように穏やかな終わりへ導くだけだろう、と。
彼は、信じる者は如何なる状況であれ救われるのです、と言い、実証しましょうと付け加えた。そして、彼は自らの喉元で真っ赤に染まった銀色の刃をスライドさせた。
低画質の視界に赤い雨。
彼は倒れていき、幽かに漏れ出ている音が聞こえてきた。彼が何も言わなかった代わりに、その音が気狂いの様相で最期を看取ったのだ。
さて、こうして左の道にはふたつの粗大ゴミが置かれている。ひとつは既に飛び立ち、もうひとつは離陸の準備をしている。
ふたつの物質的損失は世界から見ればどうでもいいことで、例えば、夕陽はお構いなしに沈んでいく。
苦しい。でも、痛くはない。
夕陽はもういない。
穴だらけの醜い身体で、その穴のひとつひとつが呼吸をして、さらに宿主を追い詰めていく。身体から重みが消え、スカスカの鞄のように、もしかしたらそれよりも軽くなっている。
苦しみすら消えていく。
心臓の鼓動は最高に鈍々と怠惰に鳴って、それが就寝の挨拶であったようで、名残を残してゆっくりと消えていく。恒久的なバカンスに出掛けたのだろう。
さよなら。
不思議と顔が微笑みを見せる。
想像していたよりも早く、佻しく、死はやって来た。
そして、想像していたよりもメルヘンチックであるようだ。
だって、そうだろう。
こんな最期、まるでお伽話だ。
悲劇なのか喜劇なのか、きっと、喜劇的な死のワンシーン。
後悔なんかないからいいけれど。
いや、ひとつあった。
昨日の夕飯にエビチリを作って食べれば良かったと思うことだ。