後日談「好きにやる」
数日後。
朝だった。
窓の外で、鳥が鳴いていた。
山際の空気は静かで、乾いていて、少し冷たい。
ベッドの上で目を開けた瞬間、天井がいつもより近く見えた。
近いのに、遠い。
焦点を合わせる前に、木目だけが先に浮かび上がる。
「……まだ残ってるな」
独り言は、部屋の中ですぐ薄くなった。
以前の生活音はもっと重かった気がする。布団の擦れる音も、床に足を下ろす感触も、今はどこか一枚向こうにある。
それでも、慣れた。
慣れてしまった、の方が近いかもしれない。
キッチンへ行き、水を飲む。
冷たさは分かる。
喉を落ちる感じもある。
だが、うまいとかまずいとか、そういう手前の実感が少し遅い。
その遅れが気に障る日もある。
今日はまだマシだった。
足元をガルが通る。
尻尾が一度だけ脚に当たった。
そこだけ感覚が妙に濃い。
「……お前は普通だな」
低く鳴いて、ガルは先に玄関の方へ向かう。
在真は少し笑う。
散歩、ではない。
だが、外へ出る理由はそれで十分だった。
玄関を開ける。
朝の空気が入ってくる。
山の匂い。
湿った土。
遠くの草。
人工物の少ない匂いは、街よりずっと分かりやすかった。
楽、だった。
庭先を少し歩き、そのまま裏手の方へ向かう。
ダンジョンの入口は、もう以前と同じ顔をしていなかった。あるにはある。だが、最初に見た時のような異物感は薄い。自分の側がそっちに寄ったせいかもしれない。
立ち止まって見ても、胸は騒がない。
だからといって、飽きたわけでもない。
ただ、いつでも行けるものに変わっただけだ。
「……今じゃないな」
今日は入らない。
そう決めると、それだけで少し身体が軽くなった。
踵を返す。
その瞬間、ポケットのスマホが震えた。
画面には神崎の名前。
少しだけ迷ってから出る。
「……なんだ」
『朝から感じ悪ぃな』
「朝だからだろ」
『意味分かんねぇよ』
受話器の向こうで、神崎が笑う。
その笑い方だけで、今日は向こうも切羽詰まっていないと分かった。
『近くまで来てる』
「勝手だな」
『会わせたいのがいる。つっても会議とかじゃねぇぞ。そういうのは全部断っといた』
在真は眉をひそめる。
「……誰だ」
『来てから説明する』
「面倒だな」
『だろ。でも、お前が完全に無視するとあとがもっと面倒になる類いのやつ』
言い方で察する。
公的な誰かだ。
あるいは、そこに近い。
在真は少しだけ空を見る。
薄い青。
風は弱い。
今日はまだ静かだ。
「……三十分」
『助かる』
通話を切る。
ガルがこっちを見上げていた。
「……来るらしい」
耳だけが少し動く。
家へ戻り、適当に上着を引っかける。剣は持つ。もう隠す理由もなかった。
少しして、エンジン音が近づいてきた。
車が二台。
そのうち一台は見慣れた神崎のものだ。もう一台は黒くて、無駄に静かだった。
止まる。
先に神崎が降りる。続いて、黒い車の後部座席から女が出てきた。
四十前後。
スーツ姿。
だが、官僚や役人の固さとは少し違う。表情を崩さないまま相手を測る癖だけが見えた。
ボディガードらしい男が二人ついている。
その二人は在真を見た瞬間、無意識に呼吸を詰めた。
分かりやすい。
その女だけは、少し違った。
ただ、近づく速度を一瞬だけ誤った。
その一瞬で十分だった。
慣れていない。
こっちを、まだ人間の延長として測ろうとしている。
「初めまして」
女が言う。
「東條彩芽。内閣危機対応補佐官付、という肩書きです」
「長ぇな」
神崎が横で噴きかける。
東條は視線も動かさない。
「そうですね」
「……で」
在真は玄関先の柱にもたれたまま言う。
「何しに来た」
東條は少しだけ間を置く。
言葉を選んでいる。
たぶん、ここへ来るまでに何度もシミュレーションしたんだろう。
だが、目の前に実物がいると、その用意してきた言葉が少しずつずれていく。
在真にはそれがよく見えた。
「要請ではありません」
「なら?」
「確認です」
面倒な言い方だと思った。
その顔に出ていたらしく、神崎が横で肩をすくめる。
東條は続けた。
「あなたが、こちら側に残る意思があるかを」
在真は黙る。
こちら側。
その言葉だけ、少し引っかかった。
「……そっち側じゃなくてか」
「ええ」
東條は即答した。
「管理する側にも、従わせる側にも回らないと、すでに聞いています」
神崎が余計なことまで話している。
そう思ったが、外れてはいない。
「確認してどうする」
「安心する人間がいる」
「安心?」
「少なくとも、今すぐ世界を取り上げられるわけではないと」
そこで初めて、在真は少しだけ笑った。
「……取り上げる気なら、もう終わってるだろ」
東條は返さない。
返せないだけだ。
その代わり、ほんの少しだけ肩の力を落とした。
「そうですね」
後ろの男たちは、まったく安心していない顔だった。
神崎はそれを見て苦笑する。
「だから言ったろ。会っても安心はしねぇって」
「あなたは黙っていてください」
「辛ぇな」
レオンは今日は来ていなかった。
あいつがいたら、もう少し理屈の多い場になっていただろう。
それがないぶん、空気はまだマシだった。
東條が一枚の封筒を差し出す。
「観測拠点候補、接触済み勢力、現時点の国内主要覚醒者一覧。あなたにとって無意味ではないはずです」
在真は受け取らない。
封筒の角だけを見る。
紙の匂い。
インク。
人の手。
薄い。
「条件があるだろ」
「あります」
東條は頷く。
「定期的な連絡。ただし拘束はしない。強制招集もしない。こちらから接触する頻度も、必要最小限に絞る」
「多いな」
「これでも譲った方です」
少しだけ正直だった。
在真はそこで初めて封筒を受け取る。
軽い。
中身も大した重さじゃない。
でも、その軽さの裏に乗っている事情の方が鬱陶しい。
「……気が向いた時だけだ」
東條は数秒黙る。
たぶん、それでは報告書にならない。
だが、ここで条件を積む方が悪手だと分かってもいた。
「分かりました」
「分かってねぇ顔してるぞ」
神崎が笑う。
東條は初めて小さくため息を吐いた。
「分からせていただきます」
「……好きにしろ」
その答えしかない。
話は終わったらしい。
だが、東條はすぐには車へ戻らなかった。
視線が、家の裏手へ向く。
ダンジョンのある方だ。
「入らないんですね、今日は」
在真は少しだけ目を細める。
「見えるのか」
「見えるわけではありません」
東條は首を振った。
「ただ、あなたはずっと、そちらを見る人の顔をしていると聞いていました」
神崎だろうと思った。
余計なことをよく喋る。
だが、少し違う。
今日は見ていた。
でも、入らなかった。
それを自分で選んだのは、少しだけ新しい感じがした。
「……今日は薄いからやめた」
東條は意味が分からなかった顔をした。
神崎は分かった顔で苦笑する。
「だそうだ」
「通訳になってないですよ」
「俺も全部は分かんねぇよ」
在真は封筒を脇に挟み、空を見る。
雲がゆっくり流れている。
風はまだ弱い。
邪魔は少ない。
その程度で十分だった。
東條たちは結局、それ以上踏み込まずに帰っていった。
黒い車が見えなくなるまで、ガルは一度も鳴かなかった。
静かになってから、神崎が玄関先に座り込む。
「疲れるだろ、ああいうの」
「……お前が一番疲れてる顔してる」
「そりゃ板挟み役だからな」
笑っているのに、目の下が少し濃い。
在真はそれを見て、少しだけ申し訳ない気もした。
気もしただけで、言葉にはしない。
「……悪いな」
それでも口から出た。
神崎が一瞬止まる。
「お前、今ちゃんと謝ったか?」
「……うるせぇ」
「レアだな」
「取り消すぞ」
「もう遅ぇよ」
神崎は笑う。
その笑い方は、以前より少しだけ安心していた。
完全ではない。
でも、前ほど“人間じゃないもの”を見る顔ではなかった。
「なあ」
神崎が空を見上げたまま言う。
「たぶんこの先も、色んなやつが来るぞ」
「……だろうな」
「お前を使いたいやつも、抑えたいやつも、拝みたいやつも」
「最後のは気持ち悪いな」
「だろ?」
そこで少し間が空く。
鳥の声。
風。
草の擦れる音。
小さな日常の音が戻ってくる。
薄くはある。
でも、消えてはいない。
神崎がぽつりと言う。
「それでも、お前はお前のままなんだろ」
在真はすぐには答えなかった。
風の匂いを吸い込む。
土。
木。
少し遅れて、家の匂い。
前より遠い。
それでも、自分の場所だという感覚は残っていた。
「……たぶんな」
神崎が笑う。
「たぶんで言うなよ」
「断言する方が気持ち悪い」
「まあ、それはそうか」
足元でガルが伏せる。
その重さだけははっきりしていた。
封筒を見下ろす。
世界の側から差し出された紙切れ。
扱いようはいくらでもある。
無視してもいい。
使ってもいい。
従う必要だけが、最初からなかった。
在真はそれを片手で軽く振ってから、玄関の上がり框に放った。
「……あとで見る」
「見るんだな」
神崎が少し意外そうに言う。
「使えるなら使う」
「お前らしい」
「……そうか」
山の空気は静かだった。
静かすぎるわけでもない。
ただ、余計なものが少ない。
それが今は一番よかった。
在真は裏手の方を見る。
ダンジョンは、今日もそこで口を開けている。
世界の外へ繋がる穴。
もう前みたいな“異物”ではない。
だからといって、日常に戻ったわけでもない。
そのどちらでもない場所に、自分はまだいる。
「……ま、いいか」
神崎が横で笑う。
「出たよ」
在真も少しだけ笑った。
完全に元へ戻る気はない。
どこかに属する気もない。
それでも、止まる理由はなかった。
風が吹く。
薄い空気の中で、それだけは妙にはっきりしていた。




