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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない  作者: HATENA 
第7章「終域」

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後日談「好きにやる」

 数日後。

 朝だった。

 窓の外で、鳥が鳴いていた。

 山際の空気は静かで、乾いていて、少し冷たい。


 ベッドの上で目を開けた瞬間、天井がいつもより近く見えた。

 近いのに、遠い。

 焦点を合わせる前に、木目だけが先に浮かび上がる。


 「……まだ残ってるな」


 独り言は、部屋の中ですぐ薄くなった。


 以前の生活音はもっと重かった気がする。布団の擦れる音も、床に足を下ろす感触も、今はどこか一枚向こうにある。


 それでも、慣れた。

 慣れてしまった、の方が近いかもしれない。


 キッチンへ行き、水を飲む。

 冷たさは分かる。

 喉を落ちる感じもある。

 だが、うまいとかまずいとか、そういう手前の実感が少し遅い。

 その遅れが気に障る日もある。

 今日はまだマシだった。


 足元をガルが通る。

 尻尾が一度だけ脚に当たった。

 そこだけ感覚が妙に濃い。


 「……お前は普通だな」


 低く鳴いて、ガルは先に玄関の方へ向かう。


 在真は少し笑う。


 散歩、ではない。


 だが、外へ出る理由はそれで十分だった。


 玄関を開ける。

 朝の空気が入ってくる。

 山の匂い。

 湿った土。

 遠くの草。

 人工物の少ない匂いは、街よりずっと分かりやすかった。

 楽、だった。


 庭先を少し歩き、そのまま裏手の方へ向かう。


 ダンジョンの入口は、もう以前と同じ顔をしていなかった。あるにはある。だが、最初に見た時のような異物感は薄い。自分の側がそっちに寄ったせいかもしれない。


 立ち止まって見ても、胸は騒がない。

 だからといって、飽きたわけでもない。

 ただ、いつでも行けるものに変わっただけだ。


 「……今じゃないな」


 今日は入らない。

 そう決めると、それだけで少し身体が軽くなった。


 踵を返す。


 その瞬間、ポケットのスマホが震えた。


 画面には神崎の名前。


 少しだけ迷ってから出る。


 「……なんだ」


 『朝から感じ悪ぃな』


 「朝だからだろ」


 『意味分かんねぇよ』


 受話器の向こうで、神崎が笑う。


 その笑い方だけで、今日は向こうも切羽詰まっていないと分かった。


 『近くまで来てる』


 「勝手だな」


 『会わせたいのがいる。つっても会議とかじゃねぇぞ。そういうのは全部断っといた』


 在真は眉をひそめる。


 「……誰だ」


 『来てから説明する』


 「面倒だな」


 『だろ。でも、お前が完全に無視するとあとがもっと面倒になる類いのやつ』


 言い方で察する。

 公的な誰かだ。

 あるいは、そこに近い。


 在真は少しだけ空を見る。


 薄い青。

 風は弱い。

 今日はまだ静かだ。


 「……三十分」


 『助かる』


 通話を切る。


 ガルがこっちを見上げていた。


 「……来るらしい」


 耳だけが少し動く。


 家へ戻り、適当に上着を引っかける。剣は持つ。もう隠す理由もなかった。


 少しして、エンジン音が近づいてきた。


 車が二台。

 そのうち一台は見慣れた神崎のものだ。もう一台は黒くて、無駄に静かだった。


 止まる。


 先に神崎が降りる。続いて、黒い車の後部座席から女が出てきた。


 四十前後。

 スーツ姿。

 だが、官僚や役人の固さとは少し違う。表情を崩さないまま相手を測る癖だけが見えた。


 ボディガードらしい男が二人ついている。


 その二人は在真を見た瞬間、無意識に呼吸を詰めた。


 分かりやすい。

 その女だけは、少し違った。


 ただ、近づく速度を一瞬だけ誤った。

 その一瞬で十分だった。

 慣れていない。

 こっちを、まだ人間の延長として測ろうとしている。


 「初めまして」


 女が言う。


 「東條彩芽。内閣危機対応補佐官付、という肩書きです」


 「長ぇな」


 神崎が横で噴きかける。


 東條は視線も動かさない。


 「そうですね」


 「……で」


 在真は玄関先の柱にもたれたまま言う。


 「何しに来た」


 東條は少しだけ間を置く。

 言葉を選んでいる。

 たぶん、ここへ来るまでに何度もシミュレーションしたんだろう。

 だが、目の前に実物がいると、その用意してきた言葉が少しずつずれていく。

 在真にはそれがよく見えた。


 「要請ではありません」


 「なら?」


 「確認です」


 面倒な言い方だと思った。


 その顔に出ていたらしく、神崎が横で肩をすくめる。


 東條は続けた。


 「あなたが、こちら側に残る意思があるかを」


 在真は黙る。

 こちら側。

 その言葉だけ、少し引っかかった。


 「……そっち側じゃなくてか」


 「ええ」


 東條は即答した。


 「管理する側にも、従わせる側にも回らないと、すでに聞いています」


 神崎が余計なことまで話している。


 そう思ったが、外れてはいない。


 「確認してどうする」


 「安心する人間がいる」


 「安心?」


 「少なくとも、今すぐ世界を取り上げられるわけではないと」


 そこで初めて、在真は少しだけ笑った。


 「……取り上げる気なら、もう終わってるだろ」


 東條は返さない。

 返せないだけだ。

 その代わり、ほんの少しだけ肩の力を落とした。


 「そうですね」


 後ろの男たちは、まったく安心していない顔だった。


 神崎はそれを見て苦笑する。


 「だから言ったろ。会っても安心はしねぇって」


 「あなたは黙っていてください」


 「辛ぇな」


 レオンは今日は来ていなかった。

 あいつがいたら、もう少し理屈の多い場になっていただろう。

 それがないぶん、空気はまだマシだった。


 東條が一枚の封筒を差し出す。


 「観測拠点候補、接触済み勢力、現時点の国内主要覚醒者一覧。あなたにとって無意味ではないはずです」


 在真は受け取らない。


 封筒の角だけを見る。

 紙の匂い。

 インク。

 人の手。

 薄い。


 「条件があるだろ」


 「あります」


 東條は頷く。


 「定期的な連絡。ただし拘束はしない。強制招集もしない。こちらから接触する頻度も、必要最小限に絞る」


 「多いな」


 「これでも譲った方です」


 少しだけ正直だった。


 在真はそこで初めて封筒を受け取る。


 軽い。

 中身も大した重さじゃない。

 でも、その軽さの裏に乗っている事情の方が鬱陶しい。


 「……気が向いた時だけだ」


 東條は数秒黙る。


 たぶん、それでは報告書にならない。


 だが、ここで条件を積む方が悪手だと分かってもいた。


 「分かりました」


 「分かってねぇ顔してるぞ」


 神崎が笑う。


 東條は初めて小さくため息を吐いた。


 「分からせていただきます」


 「……好きにしろ」


 その答えしかない。


 話は終わったらしい。


 だが、東條はすぐには車へ戻らなかった。


 視線が、家の裏手へ向く。

 ダンジョンのある方だ。


 「入らないんですね、今日は」


 在真は少しだけ目を細める。


 「見えるのか」


 「見えるわけではありません」


 東條は首を振った。


 「ただ、あなたはずっと、そちらを見る人の顔をしていると聞いていました」


 神崎だろうと思った。

 余計なことをよく喋る。

 だが、少し違う。

 今日は見ていた。

 でも、入らなかった。

 それを自分で選んだのは、少しだけ新しい感じがした。


 「……今日は薄いからやめた」


 東條は意味が分からなかった顔をした。


 神崎は分かった顔で苦笑する。


 「だそうだ」


 「通訳になってないですよ」


 「俺も全部は分かんねぇよ」


 在真は封筒を脇に挟み、空を見る。

 雲がゆっくり流れている。

 風はまだ弱い。

 邪魔は少ない。

 その程度で十分だった。


 東條たちは結局、それ以上踏み込まずに帰っていった。


 黒い車が見えなくなるまで、ガルは一度も鳴かなかった。


 静かになってから、神崎が玄関先に座り込む。


 「疲れるだろ、ああいうの」


 「……お前が一番疲れてる顔してる」


 「そりゃ板挟み役だからな」


 笑っているのに、目の下が少し濃い。

 在真はそれを見て、少しだけ申し訳ない気もした。

 気もしただけで、言葉にはしない。


 「……悪いな」


 それでも口から出た。


 神崎が一瞬止まる。


 「お前、今ちゃんと謝ったか?」


 「……うるせぇ」


 「レアだな」


 「取り消すぞ」


 「もう遅ぇよ」


 神崎は笑う。


 その笑い方は、以前より少しだけ安心していた。

 完全ではない。

 でも、前ほど“人間じゃないもの”を見る顔ではなかった。


 「なあ」


 神崎が空を見上げたまま言う。


 「たぶんこの先も、色んなやつが来るぞ」


 「……だろうな」


 「お前を使いたいやつも、抑えたいやつも、拝みたいやつも」


 「最後のは気持ち悪いな」


 「だろ?」


 そこで少し間が空く。


 鳥の声。

 風。

 草の擦れる音。

 小さな日常の音が戻ってくる。

 薄くはある。

 でも、消えてはいない。


 神崎がぽつりと言う。


 「それでも、お前はお前のままなんだろ」


 在真はすぐには答えなかった。


 風の匂いを吸い込む。

 土。

 木。

 少し遅れて、家の匂い。

 前より遠い。

 それでも、自分の場所だという感覚は残っていた。


 「……たぶんな」


 神崎が笑う。


 「たぶんで言うなよ」


 「断言する方が気持ち悪い」


 「まあ、それはそうか」


 足元でガルが伏せる。

 その重さだけははっきりしていた。


 封筒を見下ろす。

 世界の側から差し出された紙切れ。

 扱いようはいくらでもある。

 無視してもいい。

 使ってもいい。

 従う必要だけが、最初からなかった。


 在真はそれを片手で軽く振ってから、玄関の上がり框に放った。


 「……あとで見る」


 「見るんだな」


 神崎が少し意外そうに言う。


 「使えるなら使う」


 「お前らしい」


 「……そうか」


 山の空気は静かだった。

 静かすぎるわけでもない。

 ただ、余計なものが少ない。

 それが今は一番よかった。


 在真は裏手の方を見る。


 ダンジョンは、今日もそこで口を開けている。

 世界の外へ繋がる穴。

 もう前みたいな“異物”ではない。

 だからといって、日常に戻ったわけでもない。

 そのどちらでもない場所に、自分はまだいる。


 「……ま、いいか」


 神崎が横で笑う。


 「出たよ」


 在真も少しだけ笑った。

 完全に元へ戻る気はない。

 どこかに属する気もない。

 それでも、止まる理由はなかった。

 風が吹く。

 薄い空気の中で、それだけは妙にはっきりしていた。

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