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蟻と有栖

作者: コロコロ

 


「起きて」


 暗い意識の中、そんな声がエコーがかって反響して聞こえてくる。それだけで私の睡魔に侵された頭は、至近距離でシンバルが鳴らされたかのように揺れ、痛む。


「起きて」


 再び声が聞こえてくる。うるさい。やめて欲しい。私は眠いんだ。


「起きて」


 そう念じた私の願い空しく、声は三度聞こえてきた。どうやら声の主は意地が悪いらしい。


「起きて」


 そもそもあなたは誰なんだ。私に何の用なんだ。放っておいて欲しい。このまま寝かせて欲しい。


「起きて」


 ……そろそろ私の堪忍袋の緒も限界だった。うるさい、静かにしろ、黙れ。


「起きてってば」


 黙れ、黙れ、黙れ。


「起きてよ」


 黙れ黙れ黙れ黙れダマレダマレダマレダマレダマレ……!


「ねぇ」


「うるさぁぁぁぁぁい!!」


 起きて起きてうるさいから、怒鳴りながら起き上がってやった。耳元で何度も何度も起きるよう急かすのは誰なのか。母さんか、それとも“あいつ”か。私は寝起きで霞む目を擦り、その相手を睨みつけようとした。


「おはよう」


 睨んだ先には誰もいなかった。


「……?」


 あれ、おかしいな。さっきまで確かに声がしたはずなのに。


「ここだよ、ここ」


「……へ?」


 また声がした。気のせいじゃなかった。


 声がした方……下? の方へ、私は目を向けた。


「やぁ」


 声の主がいたのは、私のお腹の上。黒い点かと思ったら、よく見たら蟻だった。


 …………。


 蟻? Ant?


「……? どうしたの?」


 …………。


「……そっか、夢か」


 まだ夢の中にいると確信した私は、もう一度横になって瞼を閉じた。夢の中ならば、夢の中で眠ればきっと次には現実の私の部屋の中にいるはずだと思った。


 そんな訳で、私は先ほどまで私を支配していた睡魔を召喚すべく、気怠さに身を任せて


「夢じゃないよ。起きて」


 …………オーケー。落ち着こう私。これは夢。夢なんだ。何で夢の中で蟻が出てきてるのかわからないし、そもそも蟻が喋るわけない。これは夢なんだ。夢以外何者でもない。


「起きてって、ば」


 蟻がそういうと、手の甲に何か違和感が走っ


「――――――っ!!??」


 ったあああああああああああああああ!?


「あ、起きた」


「起きた、じゃない! 何すんのよ!!」


 違和感は一瞬で激痛に変わった。飛び起きると同時に手を振ったら、蟻が宙を舞ってそのままポトリと地面に着地。何事もなかったかのように「起きた」って言われて私の頭は怒りでMAX。怒鳴った。


「だって起きないんだもの。だから、悪いとは思っていたけど、強硬手段を取らせてもらったんだよ」


「強硬手段って、アンタねぇ……」


 私は苦言を申そうと思って、言いかけてはたと気付いた。


 私は、誰と話しているの?


 目の前の、蟻? に話しかけている?


 さっき、手の甲に走った激痛……あの痛みは、紛れもなく本物だった。


 夢の中なら、その痛みで目覚めるはず……なのに私は、こうしてあり得ない事に、蟻と会話をしている。会話が成立してしまっている。


 じゃあ、これって。


「……現実?」


「どしたの?」


 私が呆然と呟くと、蟻がきょとんと聞いてきた……蟻だから表情なんてわからないけど。


 非現実な状況を前にして、私は周りを見回して見た。


「……え、ここ、どこ?」


 私が目覚めたのは、ベッドの上なのは確実だった。ベッドそのものは、私の部屋にあるいつもと変わらない、ピンク色の無地の布団と白い枕。寝心地とかは、いつもと変わらない馴染みのある感触。私のベッドで間違いはない。


 ただ、本来なら私の部屋に置いてあるはずのベッドなのに、周りの景色がおかしかった。


 私の部屋の調度品、家具、机……が、歪んでいる。比喩表現なしに、まるで綿棒で伸ばしたクッキー生地のように面積が広がっていたり、こねくり回されたように歪な形になっている。それだけじゃなくて、本来なら、自分で言うのもあれだけど、女の子らしくない地味な色合いの部屋だったのに、色そのものが無くなって白黒の世界になっていた。黒一色の景色の中に、物がまるで白い線で描かれているかのよう。


 そもそも、家具だけじゃなくて、部屋そのものが歪んでいる。天井が変な形に吊り上がっていたり、その向きに合わせて机がぐにゃりとねじ曲がっている。唯一歪んでなくて色が付いているのは、私が眠っていたベッドと、私自身。そして側にいる蟻。


 私の部屋のはずなのに、私の部屋じゃない。頭がおかしくなりそうな光景だった。いや、もうすでにこんな光景を見ている時点でおかしくなっているのかもしれない。


「ここ、どこだか知りたい?」


「……え?」


 混乱している私に声をかけてきたのは、私の足元にいる蟻。感情の読み取れない、無機質にも聞こえる声。その口ぶりから、ここがどこなのかを知っている風に聞こえた。


「僕はここ、どこだか知ってるよ」


「本当!?」


 藁にもすがる思いで、私は蟻に詰め寄った。傍から見れば、小さい蟻に向かって顔を近づけている危ない人間だった。けど今はそんなこと気にしてはいられない。


「うん。けど、その前に確認した方がいいよ」


「……確認?」


 私は蟻の言っている意味がわからず、疑問符を浮かべた。


「そ、確認。わかりやすいように僕がいろいろ聞いていくから、答えて言ってよ」


 何でそんなことを……と言いかけたけれど、こんなよくわからない事態に巻き込まれている時点で、私にはどうすることもできない。この状況を知っているであろう存在に、今は全てを委ねるしか私にはできなかった。


「じゃあ最初の質問。君は誰?」


 誰……と来たか。つまりは自己紹介をしろということだよね。


「……園村有栖そのむらありす


「年齢は?」


「17歳」


「今は何をしているの?」


「何って……まだ女子高生だよ」


 17歳なんだから当たり前……って、蟻に聞くだけ無駄か。


「学校の名前は?」


「……〇〇高等学校」


「家族構成は?」


「お母さんとお父さん……それと私」


「親しい友人は?」


「……いるよ」


 次々聞かれるのは、ありきたりな質問。街頭アンケートで聞かれるような、そんな中身のない質問ばかりだった。


 何が知りたくて、こんな質問ばっかりするんだろう……私は、少しイラついてきている自分がいることに気付いた。


「それじゃあ、趣味は?」


「……何でそんなことまで」


「趣味は?」


 苦言を言うも、蟻は上から被せていくかのように質問を繰り返した。異論は認めないってことか。感情が無いような喋り方してる癖して、中々強気な性格をしているのかもしれない。


 まぁ、正直答えたくないけど、別にいいか。どうせ相手は蟻だし。そんな軽い気持ちで、私は自身の趣味を口に出した。


「……――――」


 …………あれ?


「――――……え?」


 口を開いて、言葉にした……はずなのに、出ない。私の声が掠れたせいというわけじゃない。その言葉だけ、まるで存在しないと言わんばかりに出てこない。


「――――……――――!!」


 何回か声に出してみようとする……けど、ダメだった。喉を抑えたり、一字ずつ区切って出そうとした。それでも出なかった。心の内で文字にしてみようとしても、何故かそれが出てこない。何とも言えないもどかしさ、不気味さ……私は、何だか気分が悪くなりそうだった。


「どうしたの?」


 そんな私の心情を知ってか知らずか、蟻が抑揚のない声で聞いてくる。それが無性にイラっときた。


「ど、どうなってるの!? 私が言おうとしてる言葉が、出てこないんだけど!」


 蟻にイライラをぶつけるように、語気を強めて問い詰める。なのに蟻は、飄々と答えた。


「後でわかるよ」


 ……後でわかるって……何よ、それ。


 そんな私の疑問を後回しにするような回答に憤りを感じていると、蟻は私の肩までよじ登って来た。


「大丈夫だよ。今は僕を信じて」


 怒りのままに払いのけようと思った……けど、頼りになるおはこの蟻だけ。仕方なく、本当に仕方なく、蟻を肩に乗せることを許した。


「ここは、君にとっても重要な場所。そして、ここから出るには、君はあることを知って、答えを見つけないといけない」


 蟻が語る内容は、私がこの異常な空間から脱出するための方法だった。確かに、こんば場所は一刻も早く抜け出したいけれど。


「……で、結局ここはどこなの? 私にとって重要な場所って何?」


「そのうちわかるよ」


 あくまでも答えないつもりかこの虫め……。


「じゃあ、ここでボーっとするのもあれだし、あそこの扉から外に出てよ」


 あそこの扉……指を指せない蟻が言う扉というのは、恐らくこの部屋唯一の出入り口。見慣れたはずの扉も大きく歪んでいて、開くかどうかも怪しい。それ以上に、あそこから向こうに行っても大丈夫なのかと不安になった。けど、あそこ以外ここから出るための扉はない。


「……」


「どうしたの?」


 私が行くのを躊躇っていると、蟻が耳元で聞いてくる。何だか知らないけれど、癪に障る話し方だ。


「……行くよ」


 この蟻の指示に従うのは癪だ。けれど、いつまでもこんな頭がイカれそうな場所に長居なんてしたくない。その一心で、私はベッドから立ち上がった。


 今更だけど、私の服装はどうやらいつも通っている学校指定のブレザーと膝丈まであるスカートと黒いローファーという制服姿だった。今になって思えば、私はここに来るまでの記憶がない。


 思い出せるのは、学校が終わって友達と一緒に下校して……そこからの記憶が抜け落ちたようになっていて、何も思い出せそうになかった。


 それも、この先へ進めば思い出せるのかな……そんな一株の不安を胸に抱いて、私は扉のノブに手をかけた。


 感触は、何ら変わりない、単なるドアノブ。いつも部屋へ出入りする際にかならず手に持つドアノブ。ただ、大きくひん曲がったドアが、いつもの動作で本当に開くのか……そんなことを考えながら、ドアノブを捻った。


 結果は……開いた。


 私の不安を嘲笑うように、何の抵抗もなく、スゥっと開いた。変形したドアの形そのままの出口。ただし、その先はいつもの景色と違っていた。


 部屋から出れば、リビングへ続く廊下があるはず……なのに、その先は真っ暗。一寸先は闇という言葉をそのままにしたような、そんな光景だった。


 一歩、足を踏み出すと、その闇の中に落ちてしまうのではないかと思った。けど、この先に進まなければ、ここから出ることはできない。私はなけなしの勇気を振り絞って、足を部屋の外へと踏み出した。


 私の体は宙に投げ出された。


「わああああああああああっ!」


 思わず口から絶叫が飛び出す。重力に従って体が落ちる体が、くるくるくるくる、回って回って落ちていく。その時一瞬視界に映った部屋の出口が小さくなっていくのがわかった。


「あああああああああああっ!」


 どこまでも落ちていく、落ちていく。暗闇の底、奥深く。どれだけ手を振っても、翼がなければ飛べやしない。無力な私は、前後左右、闇に囲まれた空間を落ち続けていって、


「ふぎゃっ!」


 お尻から地面に激突した。


 随分長い間落ち続けていたはずなのに、まるでベッドから転がり落ちたくらいの衝撃でしかなかった。それが不思議でならなかったけど、何より命が助かったことと、何より今はお尻の痛みに身悶えするしかなかった。


「大丈夫?」


「大丈夫な訳ないじゃん!」


 そんな私に、落ちもしないでずっと私の肩にしがみついていた蟻は、心配しているのかしていないのかわからない声で私を気遣う。無論、私はそれにつっけんどんに返した。


 ようやくお尻の痛みが引いてきた。私は悪態をつきつつも立ち上がって、周りを見回した。


「……ここどこ?」


 ……さっきも言ったような気がする。っていうより、それ以外口にできないような展開ばっかりだ。


 さっきまで暗闇の中を落ちていたはず……なのに、今私の周りの景色は暗闇から一変、何とも奇妙な場所に立っていた。


 と言っても、さっきの歪みに歪みまくった私の部屋よりかはインパクトは薄かった。まず、部屋は円形の形をしていた。私はその部屋の中心に立っている。広さは、そんなに広くない、と言っても狭くも無い。少なくとも私の部屋よりかは広いと思う。そして360°見回して見ると、白い壁と白い天井、白い床。天井を見ても、私が落ちてきた痕跡は跡形もなく消えている。それより気になるのは、壁に掛けられている金色の額縁に収められた、4種類の絵。


 遠目から見る限り、描かれている絵は、立派な額縁に似合わず、全部漫画チックな絵だった。こういうのって、大抵油絵とかそういうのが飾られるんじゃなかったっけ?


「ここは、心の紙」


「心の紙?」


 蟻が説明をする。心の紙……どういう意味なんだろう? 何で紙?


「どれか一つ、選んでみて。そしてその絵の前に立ってみて」


「……一つだけ?」


「後で他の絵を選ぶことになるから、深く考えなくていいよ。君が思う絵を選べばいい」


「…………」


 あまり気は進まないけど、どれか選ばないといけないのなら、選ぶしかない。私は適当に、正面にある絵の前までローファーの硬い音を響かせながら歩いていく。そして、私は絵の前に立った。


 目の前の絵は、色鮮やかな花畑の中で、私の制服と似たような服を纏った少女が、踊っているかのような絵だった。黒くて長い髪を靡かせながら両手を広げて空を仰いでいるかのようなその姿と、顔は髪でよく見えないけれど、口元が笑っているのを見て、かなり喜んでいるのがわかる。


 絵の前に立ったけど……どうすればいいの? 私は蟻に聞こうとした。


 瞬間、漏れ出て来るかのように絵から光が溢れだし、私の視界を白く塗りつぶしていった。


「わっ!?」


 思わず顔を手で覆って、光を遮る。しばらくすると眩んでいた目が光に慣れていって、私は腕を下ろした。


 景色は、またも一変していた。白一色の絵の部屋から、赤、青、黄色と、カラフルな色合いが目に焼き付くような葉っぱが生い茂る森の中。すぐそばにはこれまたカラフルな、それでいて人二人が余裕で座れるようなキノコが生えている。地面は緑一色の草。けれど中には途中でとぐろを巻いているような草があったりと、これまた普通じゃない。そして、そんな草の中には、木々の葉っぱに負けないくらいの色とりどりの花が咲き誇っていた。


「こ、今度は何?」


 まるで不思議の国に迷い込んだような、奇妙な光景を前にして私は狼狽える。肩の蟻は何も言わない。代わりに、別の声が聞こえてきた。


『あぁ、あなたが――――さんですね!?』


「……はい?」


 声からして、女性。どこから聞こえたのかわからず、見回した。姿はない。けど、前例として喋る蟻がいる。ここでは常識は通用しない。


 だから、声がした方向を見てみた。そこには、幾つも咲き誇るうちの一輪の赤い花。


『やっぱりそうだ、――――さんだ!』


 やっぱり、声の主は花だった。けど、私の名前を呼んだようだけど、何て呼んだのかわからない。私はただ、「えーっと」と言うしかなかった。


『あなたが――た――――、とても綺麗で……私、大ファンなんです!!』


 やはり、途中の言葉が抜け落ちているかのように聞こえない。けれど、花が興奮しているのだけは伝わって来た。


『僕も――――さんの――――、大好きです!!』


 赤い花以外からも声がした。今度は逆方向の青い花だった。


『私も! あなたのおかげで勇気が持てるようになったんです!』


『ホントに素敵な――――で、心が洗われるようで……――――さん、大好きです!』


『俺も!!』


『自分も!!』


『……綺麗じゃん』


 それから先は、花々が口々に……口はないか……まぁ、そんな感じで、多分内容からして私を称賛してくれる声が聞こえ続けてきた。よくわからないけれど、何だか照れ臭い……そう思っていた私に、一つの声が聞こえた。


『――――さん、私のために――――を――てくれて、ありがとう』


 その声は、幼い女の子の声だった。たどたどしくも、お礼の言葉を伝えようという気持ちがはっきりと伝わってくる。


 それだけで、何故か私は心の中が暖かくなるのを感じた……同時に、何か引っかかる物があった。


(……今の言葉、どこかで聞いたような……)


 初めて聞いた言葉じゃない。多分、今回合わせて二回目……何だったっけ? 全然思い出せなかった。それ以外の言葉も、ありきたりな内容ではあったけど、何だか聞いたことのあるような物ばかり。


 それからも続く、称賛の嵐。けど、私はその大部分を聞いていなかった。胸の内に引っかかる何かが、もどかしくて、気持ち悪くて……称賛の中に度々入る、抜け落ちたかのような言葉も気になって。


「……そろそろ、次に行く?」


 今まで黙っていた蟻が、声をかけてきた。


「……うん」


 気になるけど、ここにいたって多分わからない。私は、蟻の言葉に頷いた。


 それからは、一瞬だった。足元がふわりと浮くような浮遊感を感じたかと思うと、また地面に降り立っていた。そして視界は変わって、またさっきの白い絵の部屋。絵の前に立っていたのに、部屋の中央に私は立っていた。


「……何だったの、今の」


 私は、さっきまで立っていた絵に目を移した。


「……あれ?」


 絵が、無くなっている。額縁だけになっていた。


 何で? ……そう思った時だった。


「……え」


 さっきまで靄がかかっていたかのような頭の中が、少しずつ晴れていく……そんな錯覚を覚えた。そして、私は思い出した。


 私は、何かをしていた……そして、それを称賛してくれて、喜んでくれる人たちがいた。それを見て、私も嬉しかったし、何より“楽しかった”……そんな記憶だった。


 どうしていきなり、こんなことを思い出したのか。もう奇妙な現象には驚かないと決めていたのに、私はただただ戸惑っていた。


 けど、一つはっきりわかったことがある。この絵の一つずつを見て回れば、私は記憶を取り戻していける……それがわかっただけでも、ここから脱出できる大きな一歩になったと思う。


「……進まなきゃ」


 すっぽり抜け落ちたような記憶を探しに、私は再び前へ進んだ。さっきは適当に絵を選んだし、今度も適当に……そう思っていた。けど、多分、違う。


 これは、私が本能的に選んでる。そんな気がしてならなかった。


 次の絵の前に、私は立った。さっきの絵が“楽しそう”な絵だったとしたら、今度の絵は……。


「……何だろう、この絵」


 次の絵は、さっきまで花畑で楽しそうに踊っていた女子高生が、降りしきる雨の中、折れた傘を手にして、その傘を差さずにただ俯いて立っている絵だった。風景は、ただ暗い色合いの藍色が塗られているだけ。それがまた、この絵に対して感じる物を強くさせた。


 これは、そう……何だか……。


「……“哀しい”、な」


 そう呟いた瞬間、また光が私を襲う。今度は手で覆わず、瞳を閉じるだけにした。


 そうして光が消えた時、私は目を開こうとした……その前に、耳に届く音がする。


「……雨?」


 雨が地面に降り注ぎ、地面に当たって奏でる水の音。鼻につくのは、アスファルトが湿ったことで漂う独特な臭い。そんな雨の中に突っ立っている私の体は、徐々に水分を含んで重くなっていく。


 一歩、足を踏み出す。ぱしゃりと水が跳ねる音がした。


 一歩、一歩、水音を響かせて歩く。周りの景色は雨の水しぶきで白く染まり、視界を遮る。人の気配はなくて、ただただ水が地面に跳ねる音がするだけ。


 その中を、私はただただ歩き続ける。制服が、すっかりずぶ濡れになってしまった。寒さは感じない。ただただ、服が肌に張り付いて気持ち悪い。


 そうして歩き続けて、何分かして……景色に変化が出た。


 まず、光が現れた。それも二つ。その光は真っ直ぐこちらを照らして、その光の中を通過する雨粒がくっきりと映し出された。


 私は、光の下へと歩いていく。雨の中、少しずつ光が強くなっていくのがわかる。


(……何だろう)


 けど、私は感じた。


(これを知っちゃ、いけない気がする)


 これは、私が知りたくない事だという事を。


 けど、意志と裏腹に足は進む。そして、その足は止まった。


 光の下。その光に照らされたのは、私の姿。


 そして、幼い女の子の姿。


 その子は、雨で濡れている地面の上に横たわっていた。顔はこっちに向いていないから見えない。けれど、ピクリとも動かない。


 私は、そっと女の子の肩に手を伸ばした。そして、肩を掴んで、体を仰向けにした。


 女の子は、血の気が無い顔色をしていた。瞳を閉じて、そのあどけない顔は眠っているようにも見えた。


 けど、それ以上に。私は、この少女の顔を見て、思った。


(この子……私、知ってる……)


 この子は……私の……。


「……戻ろう」


 耳元で、蟻の声がした。そうして私は、またも浮遊感に身を任せ……白い部屋に、戻って来た。


 私は、呆然と立ち尽くした。私の頭は、また靄が晴れていくかのようだった。


「ダメ……ダメ……!」


 その記憶は、見たくなかった。晴れたらダメだった。だから必死に叫んだ。


 けど、私の頭は……私自身なのに、残酷にも、その記憶を蘇らせた。


 私は趣味で何かをしていて、その繋がりである女の子と知り合った。


 まだ11才だった女の子だった。その子とはネットで知り合い、ネット通話で対面した。そして、同じ趣味を持つ者同士で、いろんな話で盛り上がった。趣味の話から、他愛のない話、お互いの学校の話……年の離れた友達なような、妹のような、そんな存在だった。


 その子との会話は楽しくて、毎日が満ち足りていて……ずっとこの関係が続けばいいと、そう思っていた。


 ある日、その子が提案した。一度、実際に会ってお話したい。そう言い出して、私は一瞬だけど迷った。


 けど、住んでる場所はそう遠く離れていないこともこれまでの会話の中で知っていたし、私もその子と実際に会ってみたいという気持ちが少なからずあった。


 だから、了承した。深く考えず、ただ会ってお話したい、そう言って、二人でその日を決めて「楽しみだね」って、笑い合った。


 その約束の日は、雨だった。土砂降りという感じじゃなかったけど、それでも視界が悪くなりそうな雨だった。


 私は、行くのを迷った。けど、あの子と約束したし、反故にするなんてできない。そう思って、私は家を出た。


 待ち合わせは、私行きつけの喫茶店。そこで落ち合おうと、女の子と約束した。


 約束、した。


 ……女の子は、来なかった。


 喫茶店で待ちぼうけを食らった私は、女の子が来るのを今か今かと待っていたのに、時間が過ぎても来なかった。30分、一時間……刻一刻と過ぎていく。


 怒りは、なかった。ただ、女の子に何かあったんじゃないかと、そう思っていた。


 結果は……的中していた。


 後から知った。女の子は、私と待ち合わせの喫茶店に行く途中で、雨でスリップした車に……そのまま……そのまま……。


「あ、あぁぁぁ……!」


 あの日、私が約束しなかったら。あの日、私がまた別の機会にしようと言っていたら。私が待ち合わせ場所を行きつけの喫茶店に決めたから。


 こんなことには、ならなかった。


 ならなかったんだ。


 ならなかったはずなんだ!


「ああああああああああああああああああああ!!」


 私のせいだ! 私のせいだ! 私のせいだ! 私のせいだ!


 私が!! 私が!! 私が!! 私が!! 私が!! 私があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!」


 気付けば、私は頭を抱えて蹲っていた。涙が止まらない。動悸も激しい。心臓の音がうるさい。うるさい。うるさい。


「……落ち着いた?」


 私の慟哭を気にしていない素振りで、蟻が聞いてくる。床に降りて、私を覗き込むように。


「……っさい」


 それが、私をたまらなくイラつかせた。私の絶望を嘲笑っているようで、私の哀しみをくだらないと思っているようで……たまらなく、憎たらしかった。


 わかっている。これは私の八つ当たり。心の中でわかっていても、感情がそれを許してくれない。


「うっさいのよアンタ!!」


 激情が、口に出る。氾濫した川のように溢れ出した私の感情は、もう止まらない。


「何、何なのアンタ!! ここに来るまで私の肩の上に乗って、案内してると見せかけて、何にも答えを出してくれない!! アンタは一体何!? 私の何なの!? 何でこんな物を私に見せつけてくるわけ!? 鬱陶しいのよアンタ!! ずっとずっとずっとずっと!! 笑ってるんでしょう!? 全然感情ないように見せかけて、私のこと笑ってるんでしょう!! あの子が死ぬ切っ掛けを作った私を!! 後悔してる私の姿を!! 何よ、何よアンタ!! 蟻のくせして、生意気なのよ!! 消えてよ、消えてよ、消えてよ!! 私のことはもう放っておいてよおおおおおお!!!」


 我ながら、ここまでの長い言葉を一息でよく吐き出せたと思う。息が切れて、荒い呼吸を繰り返す私。蟻はただ、黙ってそんな私を見つめ続ける。顔すら見えない、小さな体。なのに、はっきりと視線を感じる。


「……消えることは、できない」


 やがて蟻が口を開く。私の要求を無視して、蟻はただそこに佇んでいた。


「けど、君が僕を消したいのならば……まずは、絵を全部見てからだ」


 言って、再び私の肩までよじ登って来た。それを私は、払いのけようとした……けど、できなかった。


 心が、それを拒否した。この蟻と一緒に、私は行かなければいけない。そう、心が言う。


「……わかった」


 ただ、素直にそれを認めるのが嫌で。蟻に対する怒りと、八つ当たりした私自身の情けなさが一緒になって、拗ねたようなぶっきらぼうな口調でそう言った。


 次の絵……早くここから出るために、次の絵の前まで歩いて行った。


 絵は、誰が見ても奇天烈な絵かもしれない。前の二枚と同じ女子高生が、背景に真っ赤に燃え盛るような鬼を背負って仁王立ちしているような絵だ。黒くて長い髪とスカートを靡かせ、握り拳を作っている。顔は影になっていてわからないけど、口は真一文字に結んでいて、背景も合わせて雰囲気からしてものすごく“怒っている”のが伝わってくる。


 誰から見ても、恐ろしい絵……けれど、不思議とこの絵に対して、私は恐怖を感じない。寧ろ、さっき口から吐き出したばかりの絶望が、また胸を圧し潰そうとしている。


 どういう絵なのか、それを知る前に、再び光が私を襲う。三度目ともなると、もう慣れた物だった。


「……これは」


 第一印象としては、そこはゴミの山。雑多な物が辺りに散らばり、足の踏み場が見えない程。空は赤く、遠くでは鴉のような黒い鳥がギャーギャーやかましく鳴いている。


 ゴミのうちの一つを、私は拾い上げる。それは、ペンか何かでグチャグチャに書きなぐったような絵。紙は、丸められたせいか皺だらけ。この絵以外のも同じように滅茶苦茶な絵で、半分に破られた物、丸めて投げ捨てられた物、或いは幾つも細かい紙片に分けられるくらいに破り捨てられた物……さらには、折れたボールペン、えんぴつ、小さくなって使い物にならなくなった消しゴム。それらがうず高く積み上げられて、幾つもの山を形成していた。


 これらを見て、私は感じた。絶望、哀しみ、そして大きな……怒り。


 制服の胸の辺りを掴む。服が皺になるけど、そんなの気にならない。こうでもしないと、いろんな負の感情に押し負けて気が狂ってしまいそうだったから。


「…………」


 無言。私も蟻も、一言も話すことなく、歩き始める。紙を踏む音を鳴らしながら、山と山の合間を縫うかのように、歩みを進めて行く。


 どこまで行っても、ゴミの山。似たような絵が、何度も視界に入ってきては、私の心をかき乱す。ここから出たい。こんなところ一秒だっていたくない……私はただ、そう思い続けていた。


 やがて、ようやく景色に変化が出てきた。周りは紙や使い物にならなくなった文房具の山。それらが見下ろす先に、ゴミが散乱していない、地面が円形に広がっている広場のような場所に私たちは出た。


 その中央を、私は見た。


「……私?」


 私と同じ制服を纏った、姿かたち、全てが同じ人間が、地面に膝を着いて紙に何かを描いている。我武者羅に、無茶苦茶に、ペンを走らせている。顔は下に置いてある紙に向いていて見えない。


 しばらくして、動きが止まった……かと思ったら、


「……ぅぁぁああああああああああああああああああああ!!!!!!」


 ビリ! そんな音を響かせながら、目の前の私は何かを書きなぐっていた紙を掲げて破り始めた。何度も、何度も。何度も。絶叫しながら、紙を破る。


 やがて紙は、掌サイズの紙片になって周りに散らばった。そして、目の前の私は両手を地面に叩きつけた。


「違う、違う、違う違う違う!! こんなのじゃない、こんなの私が表現したかった物じゃない!!!」


 それは、心の叫び。喉が潰れようとも、胸の内に渦巻いている嘆きが、声となって周りに響く。


 目の前にいるのは、私。そしてそれを見ているのも、私。彼女の叫びが、私の叫びのようにして思えてならなかった。


 いや……本当に叫んでいるんだ。だからこれは、実質私の叫び。私そのものの心の悲鳴だ。


 ヒラリ。紙が宙を舞う。その紙は、目の前で叫ぶ私の前に落ちてきた。


『――――さん、何だか最近絵の雰囲気変わりましたね』


 紙にはそう、綴られていた。蹲っていた私は、その紙を横へ払いのける。


 けど、紙がまた再び落ちて来る。


『―――リさんの絵、優しさが無くなってきてる気がするなぁ』


 それもまた払いのける。また落ちて来る。


『ソ――リさん、もしかして調子悪い?』


 払いのける。落ちて来る。


『ソノ―リさん、大丈夫ですか?』


 払う。落ちる。


『ソノアリさんが心配です』


『前のソノアリさんの絵が好きなんです。今の絵は何だか怒りに任せてって感じで』


『ソノアリさん、無理なさらないでください』


『ソノアリさん、休んだ方がいいんじゃない?』


『ソノアリさん』


『ソノアリさん』


『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』『ソノアリさん』


「うあああああああああああああああああああああああ!!!」


 払っても、払っても、払っても払っても払いのけても、紙が落ちて来る。私は絶叫する。何も知らないくせに。何も知らないくせに。何も知らないくせに!! そんな心の内が聞こえてくる。


 降り積もっていく紙。その全てが、私の最近の様子を気遣う物だったり、心配する物だったり。私はただ、呆然と落ちて来る紙を、空を仰ぎ見るかのように眺めているしかなかった。


 ちっぽけな私。ただただ同じ物を描き続ける私。そこに意思もなく、信念もなく、想いもない。同じことの繰り返し。繰り返し。繰り返し。


 ちっぽけな自分なんてわからない。誰も知ろうとしない。見向きもしない。


 何故なら自分は……自分は、ただの……。


『なぁ』


 目の前に落ちてきた紙。また同じような内容が書かれているのかと、そう思っていた。


 けど、その紙は、今まで違った。


『あんまり無茶はしないでくれよ、有栖』


 瞬間、私はまた浮遊感に襲われて……また白い部屋へ戻ってきていた。


「……ハハッ」


 乾いた笑いが、出た。そして、記憶がまた蘇っていく。


 私の趣味……それは……。


「……イラスト」


 二次元の絵を描き、それをネットに公開していくのを趣味として、私は絵を、イラストを描いていた。二次創作の絵はもちろん、オリジナルキャラの絵も描いたりして、それをサイトに掲載したり。さらにはネット上のやりとりから派生して、知り合いの人から依頼を受けたり、評価し合ったり。


 PNは、『ソノアリ』。私の本名を略したような名前で、活動していた。


 私の絵は、自分で言うのもなんだけど、評判がよかった。柔らかいタッチに、繊細な筆遣い。表情豊かなキャラクターたちに、色鮮やかな背景。


 私がイラストを描く時のモットーは、『見る人が何かを感じてくれるような、生き生きとした絵を描く』だった。ありきたりと言えばありきたりかもしれない。けど、私はそれだけを思って、描き続けてきた。


 その努力が実って、私の絵が好きだと言ってくれる人がたくさん集まった。私は、幸せだった。私の絵を見て、皆喜んでくれたり、泣いてくれたり、楽しんでくれたり……毎日が、充実していた。


 あの日……女の子が、交通事故で亡くなるまでは。


 それから、私の絵は変わった。荒々しく、繊細の欠片もない絵になった。何度も、何度も描き直しても、そうなった。優しさなんてなくなった。柔らかさなんて感じなくなった。


 何人もの人が、私の絵がいつもと違うと言ってくれた。けど私は、その人たちを遠ざけた。『何も知らないくせに』と、いつも毒づいていた。


 ただただ、煩わしかった。うるさかった。思い通りにいかなかった。


 悲しかった。苦しかった。つらかった。


 絵が、イラストが、全てが苦痛だった。


 全部……全部、投げ出したかった。


「……けど、あいつは違ったっけ」


 “あいつ”……私の、幼馴染。家族以外、私がイラストを描いていることを知っていた唯一の人。幼稚園の頃からの仲で、お互い異性とは思わず接してきた仲。そんな私を、あいつは影ながらずっと支えてきてくれた。


 イラストを掲載した時も、感想コメントの中にこっそりと混じって褒めてくれたりした。中には指摘もしてくれて、その後電話でお礼を言って、照れさせてやった。


 私が荒れて、イラストの内容が変わって、日常生活も変わっていったのに、あいつは現実でも、ネットでも、私に変わらず接してくれて、気遣ってくれて……なのに、私はいつも拒絶して……。


「……バカみたい」


 あいつに向けてか、それとも私に向けてか……私はそう呟いていた。


 悪いのは私で、吐き出す先が無くて、あいつに、親に当たり散らして。私のことなんて誰も見向きもしないって、そう思って……。


「……最後の絵だよ」


 蟻が、私に声をかけてきた。私は、すぐには動かなかった。ただ、のろのろと立ち上がって、最後の絵まで歩いていく。


 足取りは、おぼつかない。目がチカチカする。頭も痛む。一歩進むごとに、体が痛くなっていくような気がした。


 どうにか、最後の絵の前に立つ。最後の絵は、これまでの絵と比べると、大きく違っていた。


 まず、前二つの絵がマイナスだとするならば、この絵は最初の絵と同様、プラスの印象だった。


 ただ、この絵はそれ以上に大きく変わっている物があった。それは、


「……絵の人物が、違う?」


 絵の中では、一人の女の子が真正面を向いていて、こっちに向けて微笑んでいる。彼女の周りには、淡い色合いのピンクや水色、黄色といった爽やかな色が踊るように混ざり合い、鮮やかなコントラストを作っていた。


 その少女の笑顔は、嬉しそうで、何かに“喜んでいる”ようで。


「……あ」


 また光が、私を覆う……けど、この光もまた、今まで違う。優しい朝日のようで、暖かかった。体の痛みが和らいでいくのがわかる。


 景色が、変わった。目の前に広がっていたのは……、


「……ここは、喫茶店?」


 私の、行きつけの喫茶店。オープンカフェで、モダンな雰囲気が落ち着く、カフェラテがおいしいお店。あの日以降、私は一度も訪れていない、あのカフェだった。空は晴れ渡っていて、気持ちのいい風が時々吹く、爽やかな午後を体現したかのような気候だった。


 何でここが……そう思っていた時だった。


「……また、私だ」


 目の前のテラスに置かれたテーブルに、私はいた。一生懸命、何かを描いている。その真剣な目は、誰も寄せ付けたくないと、無言で周りに宣言しているようなものだった。


 さっきまで、紙をめちゃくちゃにして暴れていた私とは印象が全く違う。何だかそれが、妙におかしい。


『……フゥ』


 一息ついて体を起こした私は、ため息を一つ。そして手元にあるカフェオレの入ったマグカップを手に取った。


『あっ!』


 その時、風の悪戯で、私がさっきまで一心不乱にペンを走らせていた紙が宙を舞った。カフェオレを飲むのも忘れ、私は立ちあがった。


 紙を拾おうと、私は駆けだそうとした……けど、その必要はなかった。


 紙は、止まった。風が止んだとか、そういうんじゃなくて、ある人の足に引っかかったせいだった。


 その人は、女の子だった。年は私よりも下で、小学生低学年に見えた。


 女の子は、紙を拾い上げた。そして描かれた物を見た。


『ごめんなさーい、それ私のなんですー!』


 相手が年下なのに、敬語で呼びかける私。女の子は、絵をじっと凝視していたけど、私が声をかけると顔を上げた。


『これ、お姉ちゃんの?』


 駆け寄ってきた私に、女の子が紙を手渡しながら聞いた。私はそれに最初、ちょっと驚いていたけど、ニッコリ笑った。


『うん、そう。ごめんね、下手な絵を見せちゃって』


 紙を受け取りながら言うと、女の子は首を振った。


『ううん、全然そんなことなかった! それに』


 女の子は、私の目を見た。嬉しそうに、楽しそうに……憧れを含んだ眼差しで。そして、


『すっごく綺麗な絵だった!』


 はっきりと、そう言った。


 …………四度目の浮遊感。私は、部屋の中央に戻されても、目を閉じていた。


 ゆっくりと、頭の霧が晴れていく。そして、霧は完全に消えてなくなった。


「……あぁ、そっか」


 あの子は……あの子が、そうだったんだ。


「絵を描く切っ掛けは、あの子だったんだ」


 私は初めての文化祭で、自分の教室で喫茶店をやることになっていた。そこで、店の看板係を、くじ引きで決めた。白羽の矢が立ったのは、私だった。


 最初は、嫌々やっていた。そりゃそうだよ、面倒以外の何者でもなかったんだから。そもそも、その時は絵なんて模写しかしたことなかったっていうのに、突然オリジナルキャラを描いてきて欲しいだなんて、無茶を言われていた。


 けど、私は妥協は許さない主義だったから、私は文化祭に備えて、必死に絵を描きまくった。何度も、何度も。模写で活かした技術を活かして、私は絵を描き続けた。


 あの日、私は天気もいい日だったってこともあって、外で絵を描いてみたら気分転換にもなるんじゃないかなって思って、喫茶店で絵を描いていた。そして、風が吹いて、たまたま拾ってくれたあの女の子が、私の頑張って描いた絵を見て、嬉しそうに笑って……。


「……もう、会ってたんだね」


 何で忘れてたんだろう。何であの笑顔を思い出せなかったんだろう。最初、ネットで通話をした時に、ピンと来なかった。


 今になって思い出して、私は……。


「……全部、思い出したね」


 蟻が、床に降りる。そして、いつもと変わらない、抑揚のない声で話す。


「君は、自分を責め続けた。自分が悪いって、自分のせいだって。あれは、不幸な事故。そう諭す君の家族や、幼馴染を振り払って。君はただただ、自分を小さくして、自分の世界に閉じこもった」


「…………」


 全てを知っているかのように話す蟻に、私はただじっと耳を傾ける。


 疑問には、感じない。前までは、感じていたかもしれない。


 けど今は違う。だって、この蟻は……。


「君はわかっていたはずだ。君が描いたイラストは、多くの人を救ってきたことに。君が描いたイラストは、多くの人を笑わせ、泣かせ、喜ばせてきた。みんなみんな、君の描いたイラストが。何より、君のことが大好きだった」


「……うん」


「……けど、一番救われなきゃいけない人が、救われていなかった。それに君は、気付かなかった」


「……うん」


 蟻が語る言葉一つ一つに、私は頷いていく。


 私は、理解した。そして、その救われなきゃいけない人が誰なのか……私は、わかっていた。


「……最初に言ったよね? 君はあることを知って、答えを見つけないといけないって」


「…………」


「だから、今こそ聞くよ?」


 蟻が、言う。私が答えなければいけない、その問いを。





「君は……“私”自身は、救われているの?」





「…………」


 答えは、出なかった。


 私の描く絵は、皆を喜ばせるためだけにあるんだって、そう思い込んでいた。


 けど、私は、絵を描く楽しさを、いつの間にか忘れてしまっていた……多分、あの事故が起きる前から、ずっと。


 事故を言い訳にして、私は逃げた。ちっぽけな私を作って、逃げて、逃げて、逃げたんだ。


 そんな私が……女の子のことを忘れていた私なんかが、救われていいわけがなかった。


「……そうやって、いつも“私”を責め続けるんだね」


 蟻は……“私”は、呆れたように言った。感情のないような声が、初めて感情を垣間見た瞬間でもあった。


「……“私”は、絵を描くことが嫌い?」


「…………」


 一瞬、答えを言うか迷った。けど、“私”を前にして、嘘はつけないと悟った。


「……嫌いじゃないよ。でも、これからこんな感情のまま描いていくんじゃないかと思うと、怖いんだ」


 絵を描く楽しさを教えてくれたのは、あの女の子。それを支えてくれたのは、家族と、幼馴染。


 絵は、描きたい。けれど、綺麗だって言ってくれたあの子の気持ちを踏みにじってしまうんじゃないかって、恐怖を感じているのも事実だった。


「……これ」


 “私”が言うと、スゥと、何かが私の目の前に落ちて来る。私は、それを受け取った。


 一枚の、紙。その紙に描かれてある物を、私は見た。


「……これは」


「君の原点だよ」


 文化祭の看板の下書きのイラスト。メイドがコーヒーカップとポットを乗せたトレイを持って微笑んでいる絵。粗削りで、バランスも滅茶苦茶。素人が描いた絵だと、誰もがわかる絵だった。


 そのメイドの横。小さく、デフォルメされた猫の顔が描かれてある。


「……あの子の、絵だ」


 一緒に絵を描こうと。あの時、喫茶店のテーブルで、一緒になって絵を描いた。その時、私は確かに女の子と笑い合っていた。


 心の底から楽しくて。喜んで。ずっとこの時が続けばいいと、そう願って。


「……その気持ちが、“私”をここまで引っ張ってきた」


 “私”が、静かに言った。


「その気持ちを……君は、全部捨ててしまうの?」


「…………」


 紙を持つ手に、力が入った。


 あの子の笑顔も。私のことを励ましてくれた人たちも。全部、無かったことにする……それは、私自身の救いになるの?


 答えは……もちろん、決まっていた。


「……それが答えなんだね」


 “私”が言う。私は、頷いた。


「それじゃあ、君はここにいちゃいけない。答えが見つかったのなら、君は戻るべきなんだ」


 “私”が言うと、フワリと、私の体が浮き上がった。見上げれば、天井に白い光が渦を巻いているのが見える。


 不安はない。寧ろ、心が穏やかになっていくのを感じた。


「ねぇ」


 “私”が、私に向けて言う。ちっぽけな黒い点は、私の体が床から離れていくにつれて、ますます小さくなっていく。


「忘れないで。君の周りにいる人たちのことを。自分を責める前に、その人たちのことを、思い出して」


 “私”の、実感の籠った声に、私は頷きを返した。


「うん。忘れない……絶対に。あなたのことも」


 ちっぽけな蟻でしかなかった“私”。それもまた、私を引っ張ってきてくれた一つ。色んな人や、色んな事があって、今の私があることを……私は、忘れない。


 その想いを胸に……私は、光の渦に呑まれていった。








 目が覚めたら、私は白い天井を見上げていた。視界には、私の腕に繋がっている点滴の袋。そして、お父さんとお母さんの泣きそうな顔。幼馴染の顔。


 口元には、酸素マスク。こもった息遣いが、鼓膜に触れる。


 私が目を開けると、家族も幼馴染も、諸手を挙げて喜んだ。


 それから、私は皆の話を聞いた。私は、どうも学校の帰り道に車に跳ねられて、意識不明だったらしい。頭を強く打って、なかなか目覚めなくて……結局、一週間も意識がなかったらしい。


 その後は、特に特筆すべきことはなかった。大きな体をした刑事さんが事情聴取をしに来て、体の検査をして、どこも異常がないのを確認して、しばらく入院してから、私は退院して家に帰った。


 自宅に帰って、自分の部屋に入る。あの時の歪んだ白黒の部屋はない、いつもの部屋。けど、何だか今までよりも、色が鮮明に見えた。


 心のつっかえが、取れたからかもしれない……そう思っていると、机の上に無造作に置かれた、私が今まで愛用してきたタブレットとタッチペンが目に入った。


 私は、おもむろにそれらを手に取った。使い込んで年季の入ったタブレットに、手に馴染むタッチペン。ネットに上げ始めた当初から使って来ている、私の相棒。


「……よし」


 私は、PCの電源を入れて、タブレットを起動させる。そして、タッチペンを走らせた。


 最近まで、荒んだ心のままに描いてきたイラスト。けれど、今の私は描きたいように……楽しんで描くことができるようになった。


 描いて、描いて、描いて……一時間かけて、イラストを完成させた。


「……もう、大丈夫だよね。“私”」


 私は、いつも使っているサイトに、描き上げたイラストを掲載した。





 タイトルは、『今も昔も、これからも』


 私の家族と、幼馴染、あの子。そして中心には私。


 私の肩には、小さな蟻が一匹、ちょこんと乗っていた。


後半、書き上げた時に結構しっちゃかめっちゃかになりましたが、何とか書き上げれました。


っていうかその日に参加表明して、構想練って、書き初めて、そして書き上げて。深夜テンションって怖いですね。


企画主のそのありさんことそのへんにいるありさんをモチーフに書いた主人公。とりあえずこれでいいのか迷いましたが、もう覚悟決めました。やったろうじゃん! な勢いで掲載。私ったら命知らず。


読んでいただいた方々、ありがとうございました。そして企画主であり参加させていただいたそのありさんにも感謝を。それでは。

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