10 とりあえず、一つの決着
眠れないシャーナが、礼拝堂で見たものは・・・
「はぅッ!」
叫びとも、悲鳴ともつかぬ声をあげて、シャーナは寝台の上で起き上がった。
心臓がバクバクと音をたて、全身が嫌な感じのする汗にまみれている。
肌に染みてくるような寒気を感じて、思わず、自分の身体を抱きしめる。
落ち着いて廻りを見渡せば、教会に間借りした自分の部屋にいることは自明だった。
リンゴールの街をすっぽり覆う結界に加え、教会の建物ごとリーリアの防御結界に守られているのだ。
この街の中で、教会のこの一室ほど、安全な場所はないはずだ。
そう、理屈では分かってはいるものの、恐怖は、怯える魂に忍び寄る。
眠気が霧散してしまったので、シャーナは寝巻き姿で、裸足のまま廊下を歩く。
月明かりに浮かぶ窓に、時おり揺れる木々の影が映し出される。
静かだ。
それでいて、健やかな人の気配もいくつか感じている。
魔法使いの鋭敏な感覚が、他者の魔力の流れを感知しているのだ。
元々、探知系の魔法を得意としていたシャーナだったが、リザの鍛錬を経た後、一段と感覚が研ぎ澄まされていることに気がついていた。
シャーナ自身の能力が底上げされたのか、フィノが感覚を増幅してくれているのか、あるいは他の理由なのかは分からない。
フィノについて考えたことに反応したのか、足元から、ニャアと鳴き声が聞こえてくる。
ふくらはぎ辺りに巻きついていた温もりが、スルリと上がって肩の上に乗る。
リザは運命共同体と言ったが、実際のところ、フィノは常にシャーナの近くにいるわけではなく、気が向いた時だけシャーナの廻りをしばらくうろつき、いつの間にかいなくなってしまうという按配だ。
「ほんと、気まぐれなんだから。」
そう言いつつ、フィノの顎の下を撫でてやる。
思い返せばあの老猫も、シャーナに撫でてもらいたくて、ちょくちょくまとわり付いてきたものだった。
(もっと、遊んであげれば良かった・・・)
時にはうざったく感じて、邪険に扱ってみたりもした。
老齢のため、毛並みは少し悪くなっていたけれど、確かな温もりは決して忘れない。
涙が滲んできたシャーナに感じるものがあったのか、フィノは額をシャーナの顎の辺りにこすり付けてくる。
「大丈夫、泣いてなんかいないわよ。」
廊下を進んでいくと、礼拝堂の方がぼんやり明るくなっていることに気がついた。
入り口から中を覗き込んでみると、女神像の前で祈りを捧げている神官服の背中が見えた。
真摯な、静かな祈りの念を感じ取り、シャーナは声もなくその姿に見入っていた。
考えてみれば、朝の掃除に始まり、夜、孤児たちを寝かしつけるまで、リーリアには自分一人の時間はないはずだった。
それ故、皆が寝静まった後にようやく、一人で神と対話する時間が持てるのだろう。
そんな彼女の邪魔になることを気遣って、シャーナは息を殺してリーリアの小さな背中を見つめ続ける。
・・・と、
シャーナの肩から床に降り立ったフィノが、にゃぁと、のんびりした鳴き声をあげた。
「フィノ!」
小さく、鋭い声でシャーナが呼びかけるのと、リーリアが振り返るのとが、ほとんど同時だった。
「シャーナさん?」
跪いた姿勢のまま、リーリアはフィノの背中を撫でている。
ゴロゴロと喉を鳴らすフィノに、観念したシャーナは礼拝堂の中に入っていき、リーリアの隣にしゃがみ込んだ。
「お祈りの邪魔をして、ご免なさい。
何だか、眠れなくて。」
「それじゃ、食堂で、何か温かいものでも飲みましょう。」
リーリアに誘われるまま、二人と一匹は食堂に向かった。
程なく、テーブルについて向き合う二人。
二つのカップからは、仄かに湯気が立ち昇っている。
「火の魔法も、使えるんですね。」
質問とも、呟きともとれる言いようのシャーナに、
「料理とか、日常必要な程度のもの・・・ですけどね。」
そう言って浮かべる微笑は、同性のシャーナでさえもほっこりさせるような温かみを感じさせた。
そう、リーリアはいつも、どんな人にも優しく、思いやり深い。
いつだって、誰かのために行動している。
それなのに、自分は・・・
「どうして、そんなに人に優しくできるの?」
思わず言葉を発してから、しまったという表情をするシャーナ。
リーリアは、そんなシャーナの瞳をじっと見つめている。
思わず目をそらし、
「ご免なさい、変なこと訊いちゃって。」
唇を噛む、シャーナ。
だが、リーリアは微笑を崩すことなく、穏やかな眼差しでシャーナの表情の変化を見守っている。
少しの間を置いて、
「わたしって、そんなに優しいですか?」
「えっ?」
「実はわたし、シャーナさんをどうやってパーティに誘い込むか、最近はそればっかり考えているんです。」
意表を突いたリーリアの言いように、びっくり眼のシャーナ。
そんなシャーナの態度にはお構いなしに、
「わたしも、シャーナさんとおんなじなんです。」
「?」
「今も、疲れていると、死んでしまった仲間のことを、夢に見ます。」
「!」
気がついていたのか!と、シャーナは思った。
「山賊に襲われて、わたしの仲間は、ギルガさん以外、みんな殺されてしまいました。」
淡々と語るリーリアの表情からは、彼女の心の裡は分からない。
「わたしたちが生き残れたのは、運が良かった。
みんな、そう言ってくれますけど、本当に幸運なのか、疑問に思う時も、正直あります。」
「・・・」
「わたしって、こんなだから、悩みなんてないんだろうって、みんな思ってるみたいなんです。
でも、わたしだって一応、悩み事はあるんです。」
そう言って、強い眼差しでシャーナを見つめるリーリア。
シャーナも思わず、リーリアの瞳を見つめ返す。
「わたしたちのパーティに、参加してくれませんか?」
「・・・」
返事ができない、シャーナ。
リーリアもギルガも、人となりは、今までの付き合いから分かっている。
穏やかなギルガと、優しいリーリア。
友人としては申し分ない二人だ。
盾術のギルガと、防御魔法のリーリア、そして火炎魔法の自分。
三人の、パーティとしての相性も悪くない。
客観的に判断すれば、リーリアの誘いを断る理由がない。
しかし・・・
「でも、あたし・・・」
それきり、言葉が続かない。
せっかく誘われたのだから、できれば参加したい。
でも、もしも、自分がパーティの足を引っ張ってしまったら・・・
ゴブリンの悪夢は、ふたたび現実のものになってしまうかもしれない。
ゴブリンの汚らしい手が全身をまさぐる、おぞましい感覚。
汚物と体液と腐臭にまみれ、混沌の中で過ごした日々の記憶。
気がつけば、ガチガチと歯が鳴る音がした。
ミルクで温まっていた筈の身体が、我知らず震えている。
目前のリーリアの姿が歪み、思考が朧に溶け込みそうになる。
シャーナの意識が制御を失う、その寸前・・・
「捕まえたッ!」
ドンと、お腹の底から突き上げるような衝撃が、一気にシャーナの意識を覚醒させた。
いつの間にか、リーリアの両手が、シャーナの両手を包み込むように握り締めている。
「な、何?」
「もう、逃がしません!」
凛としたリーリアの瞳が、シャーナをつき抜け、その向こうを見つめている。
「我らが守護者、女神ニニアルネよ、我らが魂に、滅魔の加護を賜りたまえ!」
リーリアの言葉が、シャーナを穿つ。
いや、それはシャーナの身体をすり抜け、体内に巣食う物を打ち砕いた。
「うぐう、あああああッ!」
邪念に満ちた断末魔の叫びが、シャーナの背後に抜けてゆく。
思わず目をつぶっていたシャーナが、リーリアの姿に刮目した。
それは正しく、ニニアルネの化身。
神々しい光を纏う、慈愛の女神の姿。
だが、それも一瞬で、元の姿に戻るなりリーリアは、ふぅと大きく、ため息をついた。
「い、今のは?」
「シャーナにかけられていた呪いです。」
「呪い?」
「恐ろしく、執念深い怨念でした。
シャーナさんの魂に取り付いて、侵食する機会を窺がっていたようです。
でも、もう大丈夫。
今のシャーナさんなら、もう、取り付くことはできないでしょう。」
「リーリア・・・さん?」
不徳要領という顔をするシャーナに、
「そう言えば、話してませんでしたね。
本来のわたしは、祓魔師なんです。
でも、それだけじゃ、食べていけないので、冒険者もやってるんです。」
そう言いながら、リーリアは目を閉じ、ゆっくりとした口調で詠唱を始める。
胸の奥から湧き上がり、身体の末端に広がってゆく温もり。
(温かい・・・)
ふたたび目を開けたリーリアが、なぜか悲しそうな表情をして、
「どういうわけか、わたしの得意な魔法って、あんまりお金にならないんです。
火炎遣いのシャーナさんが、いっそ羨ましいです。」
ため息をつくリーリアに、波立っていたシャーナの心の海が、凪いでゆく。
(この感覚、どこかで・・・)
シャーナの中で、過去の記憶と、現在の感覚が結びついた。
(そうか、あの時、あたしを助けてくれたのは・・・)
悲しみのせいではない涙は、いったい、何年ぶりだったろうと、シャーナは思った。
とりあえず、次回でこのお話は完結です。