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SF短編

オリオンが見える

作者: 8D
掲載日:2017/07/26

 あんまり本格的ではありませんが、一応SFです。


 僕が彼女と出会ったのは、地球が滅びの危機に瀕していたある日の事だった。




 オリオン座。


 おうし座の東にあるリボンのような形をした冬の星座だ。


 けれど今、地球からはその姿を見られなくなっている。

 今は緑色の霧が覆い隠してしまっているからだ。

 そうなったのは僕の生まれるよりも前の話で、オリオン座が見られなくなって何年か経っているそうだ。


 その緑色の霧は、反物質で構成されているらしい。

 そして、その霧は緩やかな速度で地球へ近付いてきているのだという。


 地球へ到達するまでに、十年。

 それが地球のタイムリミットだ。

 その時が来れば、物質で構成された地球は反物質と対消滅を起こして跡形もなく消えてしまう事だろう。

 無論、同じく物質で構成された人類も同じ末路を辿る。


 後には何も残らない。

 物質も反物質もない、宇宙の闇だけが残るだろう。


 人類は霧に対して多くの対策を講じた。

 ステーションや他の星へ移民するという計画もあったが、何かの問題で頓挫した。

 反物質を消し去ろうとした事もある。

 それは一応成功し、確かにいくらかの反物質を消す事はできた。


 けれど、その反物質は量が減ろうともすぐにどこからともなく補充されるらしい。

 しかも、丁度地球と相殺するだけの量を維持するのだという。


 その現象から、霧はまるで人類を滅ぼすためだけに存在しているかのようだ、と話題にもなった。


 これは傲慢な人類へ対する神の怒りだ。

 と言う人もいる。

 はたまた、異星人による兵器なのでは?

 という意見もある。


 だけど、どれも明確な正否を伴った理屈など存在しなかった。


 そんな時代、僕は十歳だった。

 あと十年しか時間が残されていないなら、僕は成人してから少しして死ぬ事になるだろう。


 恐ろしくないわけはなかった。

 けれど、それを恐ろしいと思うようになってから結構な時間が経っている。


 人間は、いつまでも一つの恐怖に縛られないようになっているらしい。

 恐怖を塗り潰す楽しさに耽り、またはそれまでとは違う別の恐怖を覚えて、恐怖というものは忘れ去られてしまうようだ。


 でも、ずっと忘れていられるわけじゃない。

 たまに不意打ちのように、残された時間を思い出して恐怖がそっと心に入り込んでくる。

 けれどそれだって、ずっとじゃない。

 いずれまた、忘れてしまう。

 その繰り返しだ。


 その日の僕は、残された時間の恐怖に縛られていなかった。

 別の恐怖があったからだ。


 今日は、予防接種の注射を打つ事になっていた。

 注射は怖い。


 死ぬわけでもなくただ一瞬で済む痛みなのに、少なくともその時は人類滅亡の恐怖を凌駕する恐ろしさを僕は覚えていた。


 母親に叱られる事にも恐怖を感じる臆病な僕は、たいした抵抗をする事もなく哀れにも注射の餌食となった。


 僕は痛みでみっともなく泣いてしまった。

 僕の心象が滲み出てしまったからか、その様は母親にとっても哀れに映ったらしい。


「ここの中庭はすごく綺麗なのよ。そこに行って気分を落ち着けてらっしゃい」


 そう言ってくれた。

 僕は一つ頷いて、目元を拭いながら中庭へ向かう。


 母親が言う通り、確かに中庭は綺麗だった。


 木々が多く、病院の中庭だと思えないほどに空気が濃い。

 まるで、森の中にいるようだった。

 木漏れ日に照らされる赤レンガの並木道を歩く。

 僕の視界を影と光が交互に撫でた。


 道が終わる。

 影が途切れ、光だけが満ちる。

 眩しさに目を眇めた。


 そこは、広場だ。


 噴水がある。

 円形の石畳に囲まれた噴水だ。


 その石畳の上に、影が差している。

 大人の影にしては低く、人間の影にしてはいびつな影。


 影を作っていたのは、車椅子に座った少女だった。


 目をそらさずにじっと見ていても、その視線の先から不意にうっすらと消えてしまいそうな……。

 そんな儚い印象の少女だった。


 不意に、長い黒髪が揺れる。

 彼女の視線が、こちらに向けられた。


「こんにちは」


 彼女は微笑んで挨拶してくれた。


「こんにちは」


 僕は挨拶を返し……。

 言葉を交わし……。

 そして、彼女と友達になった。




 彼女は、この病院に入院している患者らしかった。

 あの日の出会い以来、僕は毎日この病院に通っていた。

 もちろんそれは、彼女に会いたかったからだ。


 彼女とは、他の友達と同じように遊ぶ事ができなかった。

 あの中庭で彼女の車椅子を押して散歩をする。

 その間に、話をする。

 彼女と過ごす時間なんてそれだけの事だ。


 それだけでも、僕にとっては楽しい時間だった。


 僕が彼女とこうして毎日会うのは、同情だけではないだろう。

 会いたいと思わせる魅力が彼女にはあったからだ。


 日を追うごとに僕は、彼女の事を知っていった。

 話をしている時に、彼女が自分の身の上話をするからだ。

 代わりに、彼女も僕の事を知っていっただろう。

 僕もまた、自分の事を彼女に話していったからだ。


 ただ僕は、彼女から話を聞いて、彼女を深く知っていくごとに……。

 後悔を覚えていった。

 少しずつ、次第にそれは大きくなっていく。


 きっかけは一つの疑問だ。


 車椅子に乗っているから、足が悪いのだろう。

 僕は単純にそう思っていた。

 けれど、どうやら彼女は足が悪いわけじゃないらしい。


 そういった話は、ここ数日の彼女との会話で知り得た事だった。


 なら、どうして車椅子に乗っているの?


 そう訊ねる。

 すると彼女は答えた。


「病気だからよ」


 病名は彼女も知らない。

 とても長いんだと。

 どこがどう悪いのかよく解からない病名なんだと。


 ただわかるのは、その病気が彼女を自力で立てないくらいに弱らせているという事だ。

 だから彼女は、車椅子に乗っていた。


「もうすぐ私、死ぬのよ」


 そして彼女は、そう続けた。


 その言葉が、後悔を生んだ。


 僕が後悔を覚えたのは、彼女を可哀想だと思ったからじゃない。

 深く知っていって、彼女の事を好きになって……。

 好きになったからこそ、近いうちに別れなければならない事実が悲しかったのだ。


 それも再会する事のできない別れ。

 永遠の別れだ。


 でも、僕がその言葉に後悔をつのらせる日々は、それほど長く続かなかった。




 彼女は病気で入院している女の子。

 それが、彼女の境遇だ。


 でも僕が知りたかったのは、そういう事じゃない。

 そういう事を知りたいがために、質問をしていたんじゃない。

 僕は彼女がどんな女の子なのか知りたかった。

 だから質問をしたんだ。

 言葉を交わしたんだ。


 僕が誰かに知って欲しいのも、彼女の境遇じゃない。

 彼女という人間だ。

 彼女がどんな人間だったのか、僕はそれを伝えたい。


 一言で表すならば……。

 その子はとても不思議な子だった。


 きっとそれは、その当時の僕にとって彼女の価値観が理解できなかったからだ。

 彼女の考え方は、僕のそれとは違った。

 他の友達と比べても、それは独特に思えた。


 それは幼さゆえの無知さが彼女をそう見せていたのか。

 そう思った時もある。


 だが、今にして思ってもそれは違っていたように思える。

 それから先に出会った人間と比較しても彼女は稀な存在だったし……。

 それどころかきっと、彼女のような人間はこの世界全ての人間と比較しても稀なんじゃないだろうか。


「不公平よね」


 ある日、彼女はそんな事を言った。


「それは、君の境遇が?」


 当然のように僕は訊ね返す。

 それ以外に、彼女の嘆きの理由が思いつかなかったからだ。


 しかし、そう訊ねると彼女は首を横に振る。

 違ったようだ。


「違うわ。私は恵まれているもの」

「どうして、そう思うの?」


 君が恵まれているなら、僕はどうなんだろう?


「だって、世の中には親もいなくて、病気になってもお医者様にかかれない子が多くいるの。そんな子達の中には私と同じぐらいか、それよりももっともっと幼い子だっているのよ」

「そう、だね……」


 僕は肯定する。

 それは事実なのだろうから。


「私みたいに、どう足掻いても早死にしてしまう子供がこうして生き残らされているのに。世界中では治療さえ受ければすぐにでも元気になるような子が治療を受けられずに死んでいる。私はそれが、悲しいわ。不公平だと思うの」


 僕は言葉に詰まる。


「……僕から見れば、君だってそうだよ」


 何とか搾り出せたのはそんな言葉だった。


「誰だって病気にかかるものよ」

「だから公平? 君ぐらいの歳で、死ぬような病気にかかる人間なんてそうそういないよ」

「かもしれないわね」


 彼女はそう言って笑った。


 自分がいつ死ぬかもわからない身であるのに、そう思い……。

 そして笑える彼女を。

 僕は尊いと思った。


 たとえ僕の知らない場所で彼女以上に苦しんでいる人がいたとしても、顔すら知らないそんな人間よりも、僕は彼女が生きていてほしい。

 そう思ったんだ。




 彼女との思い出が途切れる少し前の頃。


 あれは冬だったと思う。

 そう、冬でなければあれを目にする事はできなかったし、病院の面会時間が終わるまでに外が暗くなる事はなかった。


 その頃になると僕は、病院の面会時間が終わるまでずっと彼女のそばにいるようになっていた。

 いつ無くなるともしれない、彼女との時間を少しでも長く実感していたかったから……。


 せり上がったベッドに背中をもたれさせて、彼女は座っていた。

 僕は簡素なパイプ椅子に座り、彼女のそばにいた。


 いつも不思議な彼女は……。

 その日、いつも以上に不思議な雰囲気を帯びていた。


 会話をしていた僕達だったけれど、彼女は不意に言葉を留めた。


 月光に照らされる彼女は、何かに魅入られるように窓の外を見上げる。

 彼女を魅入るのは月だろうか?


 いや、恐らく違う。


 オリオンは冬の星座。

 そして、それが見えるその季節には、同じくあれも見える。


 彼女の見上げた先、オリオンのある場所。

 そこには、緑色の霧が広がっている。


 地球を覆おうとする反物質の霧だ。

 季節が巡り、冬が来るたびにそれは近づいてくるから、それは年を追う毎に少しずつ大きくなっている。


「どうしたの?」

「呼ばれている気がするの。あそこから……」


 途切れた会話に問い掛けると、彼女はそんな事を言った。

 指を差す。

 その方向は、やはり反物質の霧だ。


「あの、反物質の霧が?」

「ええ……。それか、その奥のオリオンなのかもしれないわ」


 星座に呼ばれている?

 どちらにしても、彼女を呼ぶのならそれは死神に違いない。

 いや、もしも呼んでいるのが霧ならば……。

 それは人類にとっての死神だ。


「ある意味、平等なのかもね」


 僕は思わず呟いていた。


「どうして?」


 彼女は僕を見て、問い掛けてくる。


「君がいなくなってから、僕もそれほどかからずにいなくなってしまうだろうから」


 十年後には、霧が地球を飲み込むだろう。


「そうかもしれないわね」

「君が天国に行っても、すぐに追いかけられる……。いや、世界中のみんながすぐに追いかけてくる。だから、きっと君に寂しい思いをさせなくて済むね」

「……私の行く先が天国だとは限らないわ」

「君の行く先はそこだと思うよ」


 彼女は答えなかった。


 代わりに、彼女は窓の外を見る。

 空を見上げた。


「ねぇ、あの奥を見てみたいと思わない?」


 彼女は霧を見て言う。

 あの奥にあるのはオリオンだ。


「私、生まれてから一度もあの奥を見た事がない。何があるのかは、本や記録映像で見て知っているけれど……。本物のオリオンを見た事がないわ」

「それは、僕もだよ。同じ歳の子供は、誰も見た事がないと思うよ」


 もう何年も前から、あの霧はオリオンを隠し続けているのだから。


「オリオンが、見えないわ……」


 一言呟く。

 その声色は、寂しそうだった。


 さそりをけしかければ、あの霧もどこかへ逃げてしまわないだろうか?

 その時は、オリオンも逃げるか……。

 そんな事を思った。


 三日後、彼女は僕の思い出になった。




 十年が経とうとしていた。


 オリオンを隠す霧は、今や冬の空を覆っていた。

 空を見上げれば、一面の緑色だ。

 あと数ヶ月で、反物質は地球へ到達するそうだ。


 言わば、その数ヶ月は人類にとっての黄昏と呼べる期間だろう。

 この頃になると、脅威は目に見えて実感できるようになり……。


 空を覆う緑の光景に、否応なく自らの命のタイムリミットが迫っている事を突きつけられたのだろう。

 自暴自棄に陥り、身勝手な振舞いをする人間が出始めた。

 それも一人や二人ではなく、数十、数百を超え、もはやそれは暴動や内紛と言ってもよい規模の事件になった。

 そんなニュースが、最近では世界各地で起こっている。


 俺の住む町でも、少し前に小さな暴動が起こった。

 幸い、まだこの町では希望を捨てていない人間の方が多いようなので、すぐにそれは治まった。


 だが、それでも絶望する人間が皆無というわけではない。

 俺の同僚も、少し前に拳銃で頭を撃ち抜いたばかりだ。

 この町だけでも、毎日誰かが死んでいる。


 この世界の秩序は、著しく崩壊し始めていた。

 治安維持に努める警察すらも治安活動は無意味な事だと思い始めている。

 誰も彼もが、それが無駄だと思い始めている。


 あと数ヶ月の命ともなれば、それも仕方のない事だろう。

 どんな暴挙に出たとしても、それを責める事はできない。

 何をどうしようとも、善行を施そうと悪行を成そうと全てが無に帰してしまう。

 何もかもが無駄になる。




 その頃の俺は、軍にいた。

 特に夢があったからとか、人を守りたいとか、思う所があってその将来を選び取ったわけではない。


 彼女の父親の計らいがあったからだ。

 その人は軍の偉い人間で、彼女と仲良くしていた僕に便宜を図ってくれた。

 おかげで今の僕は、エリートコースを歩んでいる。


 今の世の中、戦う相手などいない。

 あるとすれば、それは反物質の霧くらいのものだが……。

 戦う方法すらないのが現状だ。


 だから今の世の中において、軍人というのは危険もなく給金も多い、わりの良い仕事だった。

 とても贅沢な生活ができる職業である。


 生きる事への不安はなく……。

 むしろ、世界が終わるまでに稼いだ金を使い切れるかどうかの方が心配だった。


 世界が終わる。

 しかしこの期に及んで、俺はそれを恐ろしいと思っていなかった。


 それは、俺が未だに彼女の事を強く憶えているからだろうか。




 今となっては、俺が彼女にいだいていた感情が何だったのか。

 確かめようがない。

 好きだったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。


 彼女と過ごした日々が思い出の彼方へと過ぎ去り、いつしか「僕」は「俺」になり……。

 緩やかに、時に性急に、あらゆる事を、あらゆる価値観を、新たに獲得し、古い考えを捨て去り、俺は大人になっていった。


 ただ、どれだけ時間が過ぎて、子供らしさが失われたとしても、彼女の存在だけは俺の心の中に強く残っていた。


 恋人がいた時だってある。

 でもそんな時でも、彼女の事だけは時折思い出された。


 僕が女性と長く続かないのは、そういう部分があったからなのかもしれない。


 僕にとって彼女という存在はとても大きい。

 実際の彼女がどうだったのか……。


 本当はもっとたいした存在じゃなかったのかもしれない。

 少し浮世離れしただけの、普通の女の子だったのかもしれない。

 でも、思い出は実際よりも綺麗に思えるものだから、大きな存在として心に残っているだけ。


 そうなんじゃないかとも思える。

 それが本当にそうなのかはわからない。


 でも俺は、今でも彼女と過ごした日々と交わした言葉を憶えている。

 それだけは確かな事実だ。




 ある日の事だ。

 俺は呼び出された。

 銀色のドアの前、名前を告げる。


「入りたまえ」


 声が帰って来ると同時に、ドアはスライドして開いた。


 目の前には、一人の男。

 頭髪に白髪の混じった体格の良い中年男性だった。


 その目は俺に向けられていない。

 机の上に置かれた書類へと落とされていた。

 字を追って視線はかすかに動き、作る表情は厳しい。

 厳格そうな表情だった。


 でも、これはこの人の仕事へ向かう姿勢が作らせる表情だ。

 性格至って柔和である。


 その目が紙面から離れ、俺に向けられる。

 笑みを作った。


「久し振りだね」

「はい。ご無沙汰しております」


 彼は俺と二人で会う時、いつもこうして優しく微笑みかけてくれる。

 軍人ではなく、娘の友人としての接し方だ。


 彼は、彼女の父親だった。

 俺が軍人として悪くない待遇を受けているのも、この人の導きがあったればこそだ。


「もっと、頻繁に遊びに来てくれてもいいんだよ? 君は、あの子の唯一の友達だった。私としても大事な人間だ。家族ではなく、友人としてあの子を見た君の話は聞いていて楽しいからね」

「公私混同はいけません。それに、今でも可愛がられ過ぎていると顰蹙ひんしゅくを買っているので」

「それもそうだな。だが、妻も君の事を気に入っている。是非、近々遊びに来てくれ」

「はい」

「差し当たって……」


 そこまで語ると、彼は笑みを消した。


「さて、用件に入ろうか」


 どうやら、呼び出されたのは軍人としての僕だったらしい。


「君に任務を与える」


 そう言って、彼はまた笑みを作った。

 砕けた口調で続ける。


「喜んでくれ……。いや、差し出がましいな。君は、私が言わずともそうしてくれるだろうから」

「何の話でしょう?」


 俺は首を傾げた。

 すると、彼は一層笑みを深めて答えた。


「あの子に、また会えるぞ」




 翌日の早朝。

 俺は指令を受け、ある施設へ訪れた。


 軍の管理する研究施設だ。

 飾り気のない、白い建物だった。

 中に入ると、インテリアの一切ない無機質なロビーがあった。

 受付へ声をかけ、奥へ進む。

 白い壁と灰色の床で構成された廊下を行く。

 途中、大きな窓があった。

 窓からは研究室が見えた。

 ガラス張りの窓を覗くと、何かの研究をしている研究員が見える。


 見学用の窓だ。

 比較的、機密性の低い研究を行なう研究室はこうして施設の浅い区画で、許可さえ得られれば誰にでも見られるようになっている。


 けれど俺が向かうのはさらに奥だ。

 奥のさらに奥。


 セキュリティコードの記されたカードキーを用いなければ開けない扉を開き、奥へ進んでいく。

 俺のカードキーはあの人から預かったものだ。

 その権限がどこまであるのか知らないが、このカードキーで開ける区画の深さは常軌を逸していた。

 如何にあの人が偉い人間でも、本来ならここまでの入場を許されていないはずである。


 そしてたどり着く。

 そこは最高機密の区画だった。


 完璧な防音によって、時折通る研究室のドアからは一切の音が聞こえない。

 無音の廊下は無機質さをさらに増し、空気が重くなったかのように思えた。


 何度かここに来た事はあるが、ここまで深くこの施設の奥へ足を踏み入れたのは初めてだ。

 正直、居心地が悪かった。


 俺は、ある一室へ辿り着いた。

 カードキーで部屋の扉を開く。


 そこはモニタリングルームだった。

 奥の部屋を観察する場所だ。


 モニタリングされる奥の部屋の様子が、ガラス越しに見えた。


 そこには……。


 息を呑む。


 彼女がいた。

 十年前に死んだはずの彼女が、ベッドに腰掛けて本を読んでいた。




 あの日、あの人から聞かされた話だ。


「どうやら、あの反物質の霧には意思があるようなのだ」

「意思、ですか?」


 半信半疑ながら、訊ね返す。

 あまりにも突拍子のない話だったからだ。


「ああ。極秘情報だがね。十年以上前から、あの霧は人類に対してコンタクトを試みていた。とはいえ、それを受け止められる者というのは圧倒的に少なく、受け止められるわずかな人間も全てを受け止めきれるわけではなかった」


 それを聞いて思い出したのは、彼女の言葉だ。


「呼ばれている気がするの。あそこから……」


 彼女はそう言っていた。

 あの霧から呼ばれているような気がする、と。


「それは、呼ばれるという事ですか?」

「そうだ。霧の発するコンタクトを受け取れる人間は、確かにそう表現する事が多い。声が聞こえるわけでなく、ただただ霧から呼ばれている気がするのだと」


 なら、彼女もまたそうだったのかもしれない。


「そして軍は長年、その呼ばれた人間を使って霧との意思疎通を図るための技術を模索してきた。その技術が、半年前に完成した」


 そんな物が……。

 聞いた事がない。


「これによって、我々は霧との意思疎通ができる事だろう。霧を退け、人類の危機を回避する事も可能だ。それも高い確率で」

「何故、公表されないのでしょう? 確実な方法だというのなら、公表しても問題ないのではないでしょうか?」


 彼は表情を険しくした。

 重々しく口を開く。


「……この方法が人道的でないからだ。たとえ人類を救う事ができたとして、救われた世界はこれを許さないだろう」

「それは……」

「その方法とは、完全に霧との同調を果たせるよう人間を改造するというものだ」

「人を造り替えた、と?」


 彼は頷いた。


「そうだ。彼女……実験体はもはや人間と呼べない。体こそ物質で構成されているが、その存在は霧に近い。霧とコンタクトをするためだけの存在になった。そのように人間を作り替える批判は免れまい」


 彼女……。


「……そこで君に頼みたい事がある」


 俺に?


 前置いての説明があったのは、ただの雑談じゃないだろう。

 その計画を今の今まで知らなかった俺に、何を頼むのか……。


 いや、予感はある。

 彼がどういう意図で俺へ頼んだのか、なんとなくわかる。


「その実験体は、もしかして――」

「そうだ。私の娘だ」


 やはり。


「生きていたんですね」

「そう言っていいのかな? 半年前まで、意識はなかった。病状の進行を抑えるために、冷凍睡眠ねむっていたんだ。被験体に選ばれるまで……」

「……そうですか」

「君は、私を非難しないのかね?」


 実の娘を人体実験に使った事を?

 人間ではなくしてしまった事を?


「どうでしょう……」


 自分にもよくわからなかった。


 少なくとも、怒りが湧くような事はなかった。


「私としては、娘に死んでほしくなかった。その一心で、受けた事だ。娘の番が来るまでに実験が完成し、病気の治療法ができれば……。そう思っていた。しかし、娘は被験体に選ばれ、そして唯一の成功例になってしまった。皮肉な話だ」

「彼女に生きていてほしいという気持ちは、わかりますよ」

「そう言ってくれるなら、救われる思いだ」


 心ごと吐き出すように、彼は深い溜息を吐いた。

 そして続ける。


「……では、お願いする。娘を説得してくれ」

「説得?」

「ああ。娘は、人類を救う切り札となった。しかし、彼女自身は人類を救いたくないらしい」




 俺が彼に怒りを覚えなかったのは何故なのか?


 彼女にまた会える喜びが勝っているからか……。

 それとも、安堵があったのかもしれない。


 霧によって死ぬ運命を回避できるという安堵だ。


 俺としては、認めたくなかった。

 人類の死を恐ろしくないと思っていたはずなのに、そんな気持ちを抱いてしまう事……。

 彼女と会える喜びよりも、自分の命可愛さで彼女との再会を成してしまうという事が……。。


 かつての自分の気持ちが、そんな気持ちで揺らぐものであってほしくはない。

 俺は彼女に会いたいからこそ、会いに行くんだ。

 そこに他意はない。

 そう思いたかった。


 彼女は、人類を救いたくないと言い出したそうだ。


 そもそも計画は彼女に霧との意思疎通を図ってもらい、霧に退いてもらうというものだ。

 彼女が霧とコンタクトを行なった結果、霧の目的が人類の価値を量るものである事がわかった。


 価値、というのは語弊があるかもしれない。

 霧は、物質に依存する生き物とは何かというものを知りたがっているそうだ。


 物質に依存する生物の存在意義。

 それが不可解だから、対消滅を起こそうとしている。


 正直、その目的に対する手段こそ人類にとって不可解である。

 知りたいのに消してどうするのだろう?


 その答えも、彼女に聞けばわかるだろうか。


「人類を助けるかどうかは、君に会って決めたい。娘はそう言っている。つまり今後の人類存続は、君にかかっている」


 あの人はそう言った。

 彼女が俺に会いたがっている、か。

 それは素直に、嬉しい事だ。


 そうして、マジックミラー越しに見る彼女は、初めて出会った頃と同じだった。

 体の大きさも、作る表情も、しぐさも、全部彼女だ。

 違うとすれば、服装とその髪の色だろう。


 今まで俺は、入院着を着た彼女の姿しか見た事がない。

 だけど今の彼女は、歳相応の少女がするような可愛らしい服を着ていた。


 綺麗な黒だった髪の色は、綺麗な青に変わっていた。

 肩から背中に流れる青には、何かキラキラとしたものがちらほらと散りばめられている。


 それが、人間ではなくなった証明なのだろうか……。


 そんな彼女を俺は、ぼんやりとしばらく眺めていた。


「あの……」


 モニタリングルームの研究員に声をかけられ、そこで俺は意識をそちらへ移した。


「すまない。軍から来た者だ」

「話は聞いています。では、お願いします」

「ああ」


 研究員に促され、俺は彼女のいる部屋へと入った。


 開かれる扉に、彼女は本から目を離す。

 入室する俺に、自然と視線は向けられた。


 ああ。

 確かに人間ではない。

 彼女と視線を合わせると、先ほどの髪の色とは比べ物にならないほど彼女の異常性を知覚できた。


 彼女の目には銀河があった。

 白い渦が、青い瞳に渦巻いている。

 やはり、キラキラと何か輝いている。


 彼女は目を細め、微笑む。

 そして、再び目を見開くと彼女の瞳はただの青になった。


 人間と同じ、白目と虹彩と瞳孔のある目だ。


「久し振りね」

「……ああ」


 少し躊躇いながらも、俺は答える。


 何故躊躇ったか……。

 彼女と自分の間に跨る時間の差。

 その差で変わってしまった自分を彼女に晒すのが少し怖かったからだ。


 負い目とも言えるかもしれない。

 彼女を置いて、一人だけ大人になってしまった事への……。


 答えると、彼女は微笑んだ。


「あなたは変わらないわね」


 彼女は言う。

 少しの安堵があった。

 それと同時に、抵抗も覚える。


「そう? 俺は大人になったよ」

「そうね」


 彼女は動じる事もなく、一言返した。


「君こそ変わらない」

「私からすれば、あなたと最後に話したのは半年前の事だもの」

「俺にとっては十年前だ」

「ええ。そうね。だから、私としては今のあなたを知りたいの。それが、人類を助ける事になるから」

「俺を知る事が?」


 彼女は頷いた。


 どういう事だろう?

 ただ……。


 これは君の感傷じゃないのか……。

 純粋に、俺に会いたかったからという事じゃないのか。

 それが少しだけ寂しく思う。


「どういう事なんだ?」

「そうね……。あの霧について、あなたはどれだけ知っている?」

「反物質で構成され、地球全てと対消滅を起こすだけの規模を持っている。そして、意思があり、人類の価値を知りたがっている」

「明確には、霧が意思を持っているというのは間違いよ。霧は手段でしかない。意思を持っているのはあの反物質の霧ではなく、また別の存在よ」

「それはいったい?」

「物質にも反物質にも依存しない存在」

「そんなものが……」


 物質でも反物質でもない。

 そんな物が「存在」と呼べるのだろうか?


「ええ。そして「彼ら」の意思を物質は阻害する。

 だから「彼ら」は一度物質としての人類を消してしまおうと思っているの。

 そうすれば、話ができるだろうからって……。

 でも、そんな事をしても話はできない。

 人類は物質で「体」を構成し、心を形作るために「脳」という物質を必要とする。

 そんな人類が物質による「構成体」を失ったとしても彼らと意思を疎通させる事はできない。

 だって、全てが消えてしまうから。

「体」が存在しなければ、「心」を残す事ができないから。

 彼らは、それを理解していない」

「なら、伝えてくれ。そんな事をしても、人類を知る事はできない、と」

「同じ事よ。それを伝えても、きっと人類は生き残れない。霧は晴れず、そのまま地球を飲み込むでしょう」

「何故?」

「存在する価値が理解できないからよ」


 俺は言葉を失った。

 彼女は続ける。


「価値がなければ……物質に依存する価値が理解できなければ、残す意味は無い。あってもなくてもいいもののために、反物質の霧を止める必要は無いでしょう? 「彼ら」にとって人類という存在は、霧を消し去る労力を払うに値しない。そういう事ね」

「それでも、もう増える事はないんじゃないか? 昔、消し去った霧が補充されたように、また増える事はないんじゃないか?」


 だったら、また反物質の除去作業を行えばいい。


「かもしれないわね。絶対に消し去りたいというわけでもないから。ただ、間に合うかしら?」


 無理だろうな。

 時間的な猶予は恐らくない。

 作業を行っている途中で、地球は消滅するだろう。


 彼女は俺の考えていた事を察しているのか、視線を外してさらに続ける。


「だから、人類が確実に助かる方法は、「彼ら」が人類の価値を理解する事。「彼ら」が存在を認めれば人類は生存できる」

「じゃあ、君が人類の価値を「彼ら」に認めさせてくれないか」

「だめよ」

「どうして?」

「今の私は、少しずつ人類の在り方がわからなくなってきている。物質に依存する事が合理的ではない、と思えてしまっているの」

「人間じゃなくなったから?」

「そうね。この体は「彼ら」に近づいている。

 このままじゃきっと、私は本心から人類の在り方を肯定できない。

 そして物質に依存せず、「声」も持たず、意思だけを通わせる彼らに嘘は通じないの。

 心から私が人類の在り方を肯定できなければ、霧を退ける事はできないでしょうね」


 彼女は俺を流し見る。


「だから、あなたを呼んだのよ。あなたと過ごせば、人類の素晴しさを再確認できると思えたから」

「まだよくわからない。どうして俺なのか。お父さんでもよかったんじゃないか?」

「ふふ。確かに、それでもよかったかもしれないわ。でも、あなたの方がきっとうまくいくわ」


 彼女は答え、笑う。


「さ、行きましょうか」

「どこへ?」

「外よ」


 答え、彼女は俺に手を差し出した。

 ダンスの申し出を受けるお姫様がするように、手の甲を上に向けて……。


「私を連れ出して……」


 彼女は言い……。

 じっと、俺がその手を取るのを待った。




 最高機密の急な外出。

 そんな事はできないと思っていたが、話は前もって通っていたらしい。


 手を引いて彼女を立たせると、モニタリングルームへの入り口が開いた。

 そのまますんなりと俺達は外へ出て、モニタリングルームへ入る。


 思えば、今の彼女の服装は外へおでかけするためのもののようだ。

 白いフリルシャツ、同じ色のロングスカート、桃色の上着。

 スカートの裾からわずかに見える足を花柄のソックスが包んでいる。

 靴は動きやすそうなスニーカーだ。


 これを見越しての服装だったのだろう。


「どうぞ。外は寒いよ」


 モニタリングルームで待っていた研究員が、彼女にダッフルコートを渡した。

 彼女はダッフルコートで可愛らしい服装を隠してしまう。


「行ってきますね。先生」

「うん。楽しんでおいで。じゃあ、彼女をよろしくお願いします」


 研究員は俺に向いて言う。


「はい。……あの、よろしいのですか? 外へ出しても」


 彼女は最重要機密のはずだ。


「これも人類を救うためのオペレーションです。全ては、あなたにかかっていますからね。頑張ってください」


 そう言いながらも、研究員は笑顔だ。

 悲壮感などそこに見えない。

 冗談めかしてすらいた。


「怖くないのですか? 他人に自分の命が握られているようなものなのに」

「考える時間は多かったので」


 確かに、時間はあったな。

 その間に恐怖を克服したのか。

 自暴自棄になる人間もいるけれど、こういう人間もいるんだな。


「行きましょう」


 立ち止まっていると、彼女が手を引く。

 廊下へ出て、そのまま外へ向かう。


「どこへ行くんだ?」

「どこへ行きたい?」


 問い返されて困惑する。


「聞き方が悪かったわね。あなたが女の子をデートに誘うなら、どこへ連れて行く?」

「デート……」

「デートでしょ? ずっと、こうする事が夢だったの」

「デートする事が?」

「どちらかというと、自分の足で自由に外を動き回る事かしら。デートに憧れていたのも確かだけれど」


 彼女は幼い頃から病にかかっていた。

 自分の足で動ける時もあったけれど、それは短い間の事だった。

 物心ついた頃には杖をつき、やがて車椅子でなければ移動できなくなった。


 だから彼女の言う事もわかる。

 彼女はきっと、自由を求めていた。


「君こそ行きたいところがあるんじゃないのか?」

「あるわ」

「じゃあ、そこに行こう」

「ふふ、本当はそう言ってくれるんじゃないかと思っていたわ。こういうやりとりもしてみたかったの」


 彼女はそう言って、俺の腕に抱きついた。


「こういうのって、大人のデートっぽいでしょ?」


 施設の外へ出ると、太陽の眩しさに彼女は目を眇めた。

 そのまま、嬉しそうな笑みを作った。




 俺は彼女とデートをした。

 彼女の行きたいと言った所に付き添って、いろいろな所を回った。

 映画を見て、遊園地に行って、ジャンクフードを食べた。


 歳若い……。

 というより、幼い。

 まるで子供同士がするような幼稚なデートだ。


 でも、間違ってはいないのか。

 彼女はあの時のまま。

 あの病院にいた時の……子供の頃のままだ。


 彼女は楽しんでいた。

 心の底から。

 俺にはそう見えた。


 彼女にとって今日一日で見たもの、体験したものは、今まで望んでいながら得られなかった珠玉なのだろう。


 でも……。

 大好きな彼女とのデートだというのに、俺には物足りなく思えた。


 俺はもう、子供じゃない。


 映画も遊園地も、内容を楽しむものじゃない。

 時間を共有するためのものだ。

 食事だって、デートの時はもっといい物を食べるものだ。

 味も二の次で、ワインとムードを楽しむものだ。


 素直に目の前にある物だけを楽しむわけじゃない。

 そのものだけでは満足できなくなる。


 大人になるという事は、欲深くなる事なのかもしれない。


 楽しめない理由はまだあるかもしれない。

 彼女を置き去りにして大人になってしまった事への罪悪感だ。


 彼女と過ごせば過ごすほど、俺はかつての自分と今の自分の差異を強く実感した。

 自分の彼女へ対する気持ちもわからなくなっていった。


 気付けば、夕方になっていた。


「もうすぐ、夜ね。最後に、行きたい所があるの」


 そう言って彼女が行きたがったのは、俺と彼女が出会った病院だった。


 空はまだ少し赤い。

 でも、すぐに黒へ変わるだろう。


「もっと早くに来ればよかった。できれば、木漏れ日の下を並んで歩きたかったのに……。でも、最後に来たかったからね。仕方ないね」


 俺が彼女の車椅子を押して、一緒に歩いた並木道。

 レンガの石畳を二人並んで歩く。


「どうしてここに?」

「ここが私とあなたを繋いだ場所だもの」

「そうだな」

「今日は楽しかったわ」

「……本当に?」

「ええ。きっと、これで人類は救われるわ。物質に依存する素晴しさを十分に実感できたから」


 彼女は答える。

 けれど、俺はそれを信じる事ができなかった。

 俺はただ、彼女の言われるまま、彼女の望むままに過ごしただけだ。

 彼女を喜ばせるような特別な事をしたわけでもない。


 だから……。


「でも、ダメ押しをしておきましょうか」


 そう言うと、彼女の足音が止まった。

 俺は半歩進み、振り返る。


 すると両頬を細い手が挟みこむ。

 引かれ……。


 頬の、唇に近い位置に柔らかい物が押し当てられた。


 彼女が手を放して離れる。

 照れて頬を染める彼女の顔が見えた。


 今触れたのは、彼女の唇か……。


 キスだ。

 幼い恋人同士がするような、軽いキス。

 愛情というよりも、友愛に近い。

 そんな拙いものだ。


 けれど、それを成した彼女の表情は驚くほどに火照って赤くなっている。


 彼女にとっては、お遊びのようなこのキスも一世一代の愛情表現だったのかもしれない。


 それを同じ価値観で受け止められない自分に、腹立たしさを覚えた。


「ドキドキするわ。「心臓」という物質の作用ね。不思議だわ。心は「脳」だけが作り出すものじゃないみたい。「血」の流れも、ジンと熱くなる「胃」も……あなたに触れようとして、震えた「手」だってそう……。きっと、体全部が心を作るのよ」


 体が心を作る、か……。

 なら、俺の心が昔みたいに純真でいられないのは、大人の体になったからだろうか……?


 本当に彼女の相手は、俺でよかったんだろうか?


「何故俺を選んだんだ?」


 気付けば、俺は訊ねていた。


「あなたは私にとっての希望だもの。あなたほど、人生の中で素晴しい人間を知らない。だから、私はあなたを知りたい。あなたの素晴しさを再確認できれば、きっと彼らもわかってくれる。そう思ったの」

「そんな……っ!」


 叫びだしそうになり、無理やりに口を閉じて抑える。

 激しく動く感情を抑えながら、続ける。


「でも、俺は……僕は何もしちゃいないじゃないか。何もしてあげていないじゃないか。君が、素晴しい人間だと思える要素が僕にあるわけがない」

「違うわ。あなたにとってのあなたが素晴しくないちっぽけな存在でも、私にとってのあなたはとても大きくて素晴しい存在だった」

「僕にはよくわからないよ」


 僕が言うと、彼女は一度小さく息を吐いた。

 言葉を返す。


「物質に依存するものの認識は全て「主観」よ。

 多角的ではない、一方向のみの観点を主とした一方的な感じ方……。

 その感じ方が大事なの。

 それは時に事実以上の認識を与える。

 それが、物質に依存するものの良さ……素晴しさよ。

 あなたと今日一日を過ごして、それがよくわかったの」


 彼女はそう言ってから、首を振った。


「いいえ、違うわね。こんな話じゃない。もっと単純な事……」


 彼女が僕の目を見詰め返す。


「一言で言うなら、私はあなたの事が好きよ。恋人になりたいと思った。だから、キスもしたかった。好きな人と一緒にいられる事は素晴しい事だから……。だから、私は物質に依存する素晴しさを知る事ができた」


 彼女も、僕の事が?


「……僕だって、君の事が好きだ」


 僕の口から、そんな言葉が出る。


 ああ。

 好きなんだ。


 言ってしまえば、しっくりと心にはまり込んだ。

 抵抗は無い。

 嘘じゃなく、僕は今でも彼女が好きなんだ。


「両想いね。嬉しい。最後に、あなたの気持ちを知る事ができてよかった」


 彼女は微笑む。


「最後?」

「ええ。私は、ここで「彼ら」に人の価値を伝えるつもりだから……」


 答え、彼女は僕に背を向けた。


「私は「彼ら」に近づいている。それは考え方だけでなく、存在そのものが……。人間としての私と、「彼ら」に近付いた私。今はその均衡が最も取れている。でも、私が「彼ら」に人の価値を伝えれば、きっとその均衡は崩れる。私の全ては「彼ら」と同じになってしまう」

「そんな……じゃあ、消えてなくなるのか?」

「死ぬわけじゃないわ。ただ、物質に依存できなくなるだけ」

「でも、君がいなくなる事は同じじゃないか」


 彼女は黙り込む。


「どう言っていいかわからない。でも、世界に存在するためには必ずしも物質に依存しなければならないわけではないと思うの」

「触れ合う事も、言葉を交わす事もできないなら、存在していないのと同じじゃないのか?」

「ごめんなさい。私には、あなたを納得させられる言葉がないの……」


 どう言っていいかわからない。

 そう言ったのは、彼女自身にもまだわからないからだろう。

「彼ら」と同じ存在になるという事が。


 ただわかるのは、彼女との別れが近いという事だ。

 彼女はこれから、人の価値を「彼ら」へ伝えるのだから。


 ……伝えてしまえば彼女が消えるというのなら、伝えなければ彼女は消えないのだろうか?

 そんな考えが過ぎる。

 でも、だからと言って伝えないでほしいとは言えない。


 僕一人の決断で、感情で……。

 人類の命運を決めてしまう事はあまりにも傲慢だ。


 どうして、僕は大人になってしまったんだろう?

 子供の頃の僕なら、その決断を実行できたかもしれない。


 君さえ居ればいいんだ、と言えたかもしれないのに……。

 今の僕には、それが言えなかった。


「……じゃあ、これで、お別れなんだね」

「そうね」

「もっと早く、伝えていればよかった……。そうすれば、僕も今日という一日を素直に楽しめたのに。君と過ごす時間をただ楽しみだけで満たす事ができたのに……。どうして、僕は変わってしまったんだろう?」


 彼女は僕に近づき、その手を握った。


「言ったでしょう? あなたは変わっていないわ。優しいあなたよ。捨てられない人がたくさんいるんでしょう?」

「うん……」


 彼女は満足そうに笑う。


「でも、もっと長く一緒に居たかったよ。一緒に、大人になりたかった……」

「これからは一緒にいるわ。ずっと……」


 彼女は言うと、目を閉じた。

 青い髪が仄かに光を帯びた。


 しばらくすると、その光が消える。

 彼女は目を開いた。


「伝えたわ。「彼ら」に」

「そう……」

「もう少しで、私は物質に依存できなくなる。その時まで、一緒にいてくれる?」

「ああ。もちろんだよ」

「少し、話をしましょう?」

「うん。何を話そうか」


 それから僕と彼女は、噴水のある広場へ行った。

 ベンチに座り、話をした。

 他愛ない話だ。

 ほとんどは、僕の歩んできた人生だ。

 何度か付き合った恋人の話は内緒にして、今まで体験してきた事を語った。


 そのわずかな時間は、今日一日の中で一番楽しい時間だった。

 映画よりも、遊園地よりも、食事よりも、何よりも濃い時間だった。


「……ねぇ、大人のあなたはどうやって愛情を表現するの? 教えて」


 不意に言われる。

 少し悩み、僕は彼女の顔に自分の顔を寄せた。


「目を閉じて」


 彼女は言われるままに目を閉じる。

 その唇に、自分の唇を重ねた。


 軽く重ねるだけで、これも大人のキスとは言えないかもしれない。

 でも、これでいいと思った。

 そうしたいと思った。


 彼女が目を開く。


「少しだけ、私も大人になったみたいね」

「うん」

「これだけは、私だけの記憶にしておくわ」


 彼女は言うと、不意に空を見上げた。


 空にはとうに夜の帳が下り、星々が煌めいていた。

 彼女の見る先には、一つの星座がある。


 リボンの形をした冬の星座だ。


 反物質の霧に覆われ、今まで見る事のできなかったものだ。


「ああ、オリオンが見える」


 彼女は一言呟いた。


 それから少しして、彼女は消えた。

 光の粒子になって、空気に溶け込むようにして消えた。


 でも、今回は思い出に変わったわけじゃない。

 これからは、一緒だ。

 思い出を一緒に刻んでいくんだ。




 あれから五十年ほど経つ。


 反物質の霧が消えてから、私は有名人になった。

 霧を消すために、私の功績があったのだと大々的に報じられたためだ。


 人類を救った英雄として、多くの人々から尊敬される存在となった。

 行く先々で敬意を表され、サインを強請られた。

 霧の脅威がなくなってからは、僕の出身国が権威を独占する事に反感を持った他国のスパイから命を狙われる事もあった。


 と、驚く程の有名人だ。


 その後は特に何も目立った事はしていないのに、冗談みたいに出世した。

 これは、彼女の父親の根回しも合ったかもしれないけれど。


 そして、定年を迎えて今は大きな屋敷に住んでいる。


 広い庭に椅子を置き、そこに座って一日を過ごす。

 そんな老人になっていた。


「おじいちゃん。ご本読んで」


 ふいに声をかけられた。

 見ると、小さな女の子が絵本を持って立っていた。

 その後ろには、同じような年頃の子供達がいる。


「いいよ。おいで」

「やったー」


 絵本を受け取って、子供達に読み聞かせる。


 この子達は、様々な理由から一人で生きていかざるを得なくなった孤児達だ。

 私は軍を退役後、有り余る財産を使って孤児を支援する組織を作った。

 自分の屋敷でも子供達を預かり、人を雇って孤児院として運営している。


 私にできる事なんて、世界にとっては微々たるものであるが。

 少しでも彼女の嫌う不公平を無くせればいいと、そう思ったからだ。


「ありがとう」


 本を読み終わると、子供達は礼を言って屋敷の中へ入って行った。

 私は一人残される。


 遠く、庭の一角で遊ぶ別の子供達を眺めた。


 今、ここでこんな光景を見る事ができるなんて思わなかった。

 本当なら、既に地球は跡形もなく無くなってしまっているはずだったのだから。


 今となっては霧の脅威の事など知らない人間の方が多く、私の日常は落ち着いている。

 私もただの大きな孤児院を経営する老人でしかない。


 それでもまだ、時折私を英雄と慕って訪れる者はいるが……。


 本来なら、君こそが英雄と呼べるはずなんだけどな……。


 軍は、彼女の存在を隠匿し続けている。

 存在するはずのないものとして……。

 そして、この世界のどこにも存在していない彼女を人々が、知る事はこれから先もないのだろう……。


「あれから五十年……。世界は君の事を知らないまま、のうのうと生き続けているよ」


 誰にともなく呟き、目を閉じる。








 それでいいのよ。


 君がそう言うのなら……。

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