第一話
それは、修学旅行へ出発する前のホームルームでのことだった。
どこかが期待した空気が漂う教室で、田中くんは焦っていた。いや、田中くんの今までの人生を振り却って比較してみればそこまで焦っている訳でもなかったが、今からでも無断欠席しようかな、と考えるくらいは焦っていた。
一見いつもどおりのアルカイックスマイルの田中くんだが、見る人が見れば田中くんの眉毛が5mmだけ下がっていることに気付くだろう。
暑くなってきた今日このごろ。修学旅行の行き先は、みんな大好き沖縄だった。
田中くんは、暑くなると寒いところへ逃避行する派だったので、あえてより暑い場所へ突撃するチャレンジ精神はまったく理解できなかったが、クラスメイトの高すぎるテンションを見て、田中くんが思っていたよりも突撃派が多かったことはわかった。
担任の高林など、血管が切れないか心配になるほどだ。田中くんは高林の末路などどうでも良かったが、朝の教室で突然のスプラッタが起こると面倒だろうとは思った。
担任の先生の脳血管事情を面倒の一言で済ますほどドライな現代っ子である田中くんだが、じゃあ、いったい何を心配していたかというと、問題は田中くん自身にある。
田中くんは、絶対に海に入りたくなかったのだ。
海が嫌というより、肌を晒したくなかった。別に嫁入り前だからとか、闇の者である自分が日に当たってしまえば消滅してしまうとか、宗教上の理由で無理という訳ではないが、田中くんにはマリアナ海溝より深い事情があった。
田中くんの身体には、それはそれは立派な刺青があったのだ。
じゃあ海に入らなければいいのだが、この沖縄フィーバー具合を見れば、普段空気に溶け込んでいる田中くんを見つけ出し、服をひん剥いて海を放り込むくらいしそうで怖かった。
それはもう怖かった。何かの薬をキメているように見えたくらいで、こいつらにシャブ売ったっけ、と田中くんが記憶を辿るほどだった。
勇者と呼ばれるほどのオクスリの売人をしたり、うっすらと銃痕が残っていたり、身体を見せられないほど全身に彫り物がしてある以外はいたって平凡な田中くんは、そんなクラスメイトに引いていた。ドン引きだった。思わず高林にヤクザキックを入れたくなるほどだった。
だから、突然白い光が溢れて、なんか中世のお姫様っぽい人の前の、ファンタジーっぽい魔法陣的な物の上で気が付いて、魔法使いっぽい黒いローブの怪しげなおじさんたちに囲まれていたとしても、一瞬だけほっとした。
担任にヤクザキックをするのは、田中くんが苦労して作り上げたキャラに反するからだ。ほかにも信頼とか信用とかいろいろ失うような気がしないでもないが、田中くんにとっては些細なことだった。凝り性な田中くんは、自分の努力の結晶を壊さずに済んだことに安心していた。
ちなみに高林は消えていた。
まあ、ほっとしたのはあくまで一瞬のことだったが。
「異界より召還されし勇者よ、邪悪なる魔王から我が民をお救いください!」
その言葉を聞いた田中くんは、は? ってなった。むしろああん? ってなった。
それって誘拐じゃねえかって思った。もちろん顔には出さなかったが。
田中くんは、どこかの宗教団体に誘拐されたのではないかと考えた。白い閃光で目を眩ませているあいだに催眠ガスで眠らせて連れて来たのだろう。そして、まるで魔法で呼び寄せたかのように錯覚させているのだ。今は疑問を持っている生徒も、徐々に洗脳されていくに違いない。そのうち薬も打たれるかもしれない。なんて陰険なやり方なんだ。
ちなみに田中くんがこう考えた理由は、自分ならそうするだろうと思ったからだ。
よって、田中くんは自称王女のキチガイ女の話など聞かなかった。異世界がどうのとか、よく今まで精神病院に入らずに済んだなって逆に感心した。
途中で隣の席の佐藤が奇声を上げて喜んでいたが、気にしないことにした。
斜め前の席の鈴木もてんぷれがどうのとか言っていたが、無視した。
きっと、突然なことで錯乱したのだろう。憐れなことだ。
ひとまず、話を信じているふりをすることにした。変な抵抗をすれば、余計にひどいことになる。とにかく目立たず、没個性に溢れ、普通すぎるほど普通に振る舞わなければならない。悟られないように、洗脳されないように心をしっかり保たなければ。
だが、田中くんは本当に召喚された可能性を完全に否定している訳ではなかった。
受け入れられることはすべて受け入れ、その柔軟性でどのような状況でも冷静に対処しようとする姿勢こそが、田中くんが組で重宝されていた理由なのだ。
それに、そちらの方が田中くんにとって都合がいいというのもある。
そもそも薬の売人である田中くんがこうして大人しく修学旅行なんてものをしている理由は、シャブ売りの足が着きそうになっていて、不用意に動けなかったからだ。
このまま組がガサ入れされたら田中くんも逮捕されてしまう。未成年だから多少の情緒酌量はあるかもしれないが、もう二度とあんなに儲けられる仕事は見つからないだろう。
幸いにして、常に薬が詰められた小さめのビジネスケースを持ち歩いているので、もしもここが異世界だったのなら最初からやり直すことができる。
薬が見つかったとしても、異世界人には作用が違うとかなんとか言ってごまかすこともできるだろう。
それこそ異世界人に田中くんが売る薬が効くかはわからないが、なんとかなるだろう。少なくともサツに捕まるよりはずっとマシだ。
宗教団体だった場合は、シャブの存在がばれたなら、まあ、薬を交渉材料にしてどうにかするしかない。見つからないにこしたことはないが。
田中くんは数分でそう結論付けると、いつものように困った顔で笑いながら大人しくしていた。
まわりや部屋の様子を観察したいが、この部屋のなかには衛兵の格好をした者もいる。ごてごてとした服が邪魔だとは思うが、彼らは明らかに非戦闘員ではない。そんなやつらの目の前では素人として振る舞った方がいい。
田中くんは、さすがはシャブ売りの勇者と言わざるを得ない思考回路だった。
どうして彼には、佐藤くんや鈴木くんのようにありのままを受け止めて喜ぶ純粋さがないのだろうか。
という訳で、田中くんはクラスメイトたちの行動にならおうと思ったのだが、その肝心の行動を見てドン引きした。
みんな何やら珍妙な言葉を叫んで、空中を凝視しているのだ。
もしかして、気絶しているあいだに変な薬でも打たれていたのではないかと冷や汗が流れたが、どうやらそうではなかったらしい。
聞くところによると、それぞれ自分の能力値や才能を数値化させて目視するための呪文らしい。そして自分の能力は、自分から見せないかぎりは自分にしか見えないらしい。
いわゆる、魔法というものなのだろう。
田中くんは、誘拐犯から聞かされた怪しげな話に馬鹿正直に従うクラスメイトたちの気が知れなかったが、仕方がないので従った。
田中くんの仏のごとき微笑みを見て、彼か実は内心舌打ちをしているなどとは誰も思い付かないだろう。
「ステータス!」
田中くんは叫んだ。すごく恥ずかしかった。ぼったくっていることがにばれて必死に逃げたときの方がまだマシだった。
これで何も表示されなかったら、田中くんはキレるかもしれない。
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《ステータス》
名前:田中 太郎(仮) Lv 1
種族:人間
性別:男
職業:自営業団体労働組合員
体力 21
魔力 46
攻撃 19
防護 18
知性 26
精神 29
《オリジナルスキル》
増加
《スキル》
隠密 詐欺 恫喝 ヤクザキック 踵落とし 拳銃 ナイフ
《称号》
召喚に巻き込まれし者 平々凡々 シャブ売りの勇者 外道 成金
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うん。平均がわからないから数字に関しては何も言えないが、人に見せられないことはわかった。
実は薬を打たれているとか、変なガスを吸わされたとか、脳にチップが埋め込まれているなどの理由で幻覚が見えていないかぎりは、魔法だと判断しても問題はないだろう。もちろん、確定した訳ではないが。
キチガイ女の説明によると、体力や魔力といったものはこの世界の成人男性の平均でおよそ20程度。スキルは生きているうちに自然に身に付いたもので、オリジナルスキルとは異世界から来た者だけが持つ、それぞれ個人に合った能力。職業と称号はそのままの意味だと考えてもいいだろう。
異世界からきた場合、この世界で新たに生まれたような状態なので最初のレベルはみんな一らしい。
召喚された者たちは、みんな勇者としてここへ来たため能力値が底上げされていて、称号に勇者とあるらしい。
田中くんの能力値は底上げされた様子もないし、称号に勇者もない。いや、シャブ売りの勇者が勇者の称号にあたるならあるのだろうが、おそらく違う。
どうやら田中くんは、誤ってこの世界へ来てしまったようだ。称号も “召喚に巻き込まれし者” だし。
だが、田中くんにとっては願ったり叶ったりだった。
正直勇者なんて面倒なことはしたくないし、そんな危険なことをするよりは、シャブ売って裏社会をうろちょろしながら適当に稼ぐ方がずっといい。
田中くんはここを異世界だと考えることにした。もしも宗教団体なら、心を折ったところを洗脳をするはずだ。目の前のキチガイは、そこまで積極的に心を折りたい訳ではないようだ。
あと、考えるのが面倒になったというのもある。今のところ洗脳とか命の危険もなさそうだし、見るからに異世界っぽいからもう異世界でいいんじゃない?という思ったのだ。
田中くんはこだわることには凝り性だが、ほかは案外面倒くさがりだった。
田中くんにとっては金が稼げてうまい飯と酒があれば、異世界だろうが宗教団体だろうがほかのプラズマ的なアレだろうが、どうでも良かったのだ。
未成年の田中くんがどうして酒の味を知っているのかは聞かないお約束だ。
田中くんは内心、異世界(仮)でのこれから生活を考えてウハウハだったが、一応残念そうな体で声を上げた。
「あの……僕、勇者じゃないみたいなんですけど…………」
気弱そうにおずおずとまわりをうかがいながら、田中くんはまったく別のことを考えていた。この世界(仮)で、元の世界の金が使えるかどうかだ。
「なんですって!? それは本当ですか?」
「は、はい……。ステータスも平均でしたし、称号に召喚に巻き込まれし者ってありますから……。」
まあ、使えないだろう。賭博場で稼ぐという手もあるが、この世界の賭事は知らない。
「なんてこと……。申し訳ありません。元の世界へ帰る方法は、魔王城にある異世界帰還の書を読むしかないのです。ですが、勇者でなければ魔王城まで辿り着くのは不可能なのです…………。」
「いえ、それは仕方がありません。とても難しいらしい異世界召喚を、巻き込まれた人がいたとはいえ成功させたのはすごいことだと思います。僕は元の世界では天涯孤独の身ですので、生きていけるだけの資金さえ貰えればこの世界で暮らしていきたいのですが、だめでしょうか?」
仮に知っている賭け勝負があったとしても、魔法のある世界(仮)でどれだけ自分の知っているイカサマが通用するかわからない。
「いいえ、いいえ! まったくだめではありません! 許してくださるとはお優しいのですね。その心遣いに感謝いたします。あなたに女神のご加護がありますよう。」
「ありがとうございます。異世界人である僕からの言葉に効果があるかはわかりませんが、あなたにも女神のご加護がありますように。」
仕方がないからどこかの組織の下っ端に雇ってもらって、一から成り上がるしかないだろう。幸運なことに魔力は一般人より少し多いようだから、それをどうにか活用していこう。まったく魔法やら魔力やらに造形がない田中くんに扱えるかはわからないが。
「それでは、皆様もお疲れでしょうから侍女長がそれぞれの部屋へ案内いたします。二人部屋となっていますが、部屋割りの変更やご不満の点がありましたら、呼び鈴をお鳴らしください。昼食の時間になりましたら、侍女がお迎えに参ります。」
「「「「「わかりました。」」」」」
あ、話が終わった。
結局田中くんが何も聞かないまま話は終わったが、まあ、どうにかなるだろうと田中くんは思った。
田中くんは結構楽天主義者だった。
しかも、興味がないことは話を聞かない系の人だった。