先生の花
テレビを消した。
明かりがついていない部屋の唯一の光源が消えた。カーテンを開ければ光は手に入るだろうが、わざわざ立ち上がってまでして光を求めてはいなかった。
頭の後ろで手を組んだまま、須藤和弘は寝ころんでいた。
カップ麺やスナック菓子の袋で散らかり、物が溢れるこの部屋では満足に足も延ばせないので、膝だけは曲げた状態だ。
腹がきゅるきゅると音をたて、もう何日も何も口にしていないことを思い出す。
須藤は、組んでいた手を床につけ、力を入れて立ち上がった。何日も洗っていない髪が首筋にまとわりつき、べたべたと気持ち悪かった。私服であり部屋着でありパジャマでもあるトレーナーを脱ぎ捨て、風呂場へ歩いていく。
何か食料を買いに行かなければならなかったが、先にシャワーを浴びるつもりだった。
***
家の鍵を閉め、その鍵をポケットにしまった。鍵をしまうのはいつもズボンの右ポケットと決めているはずだが、気付くといつも左ポケットに入っている。
須藤は左利きであり、左手で鍵を閉めるのだから当然なのだが、ポケットをまさぐるのはいつも右からだった。
シャワーを浴びた直後に家を出たため、髪はまだ乾いていなかったが、気にしているようには見えない。
スーパーに入って、適当にカップ麺やパン、飲み物などを籠に入れた。自炊はしないし、惣菜は苦手だ。ここのところはインスタントか、そうでなくても軽い食べ物しか食べていない。体に良くないことは分かっているが、それで体を壊したところで実害はないという考えをもっていた。
籠をレジに運ぼうとしたとき、見知った顔を見つけて足を止めた。高校時代の後輩だ。まだ地元に残っていたのかと思いながら、ゆっくりと後ずさった。久しぶりに見かけたからといってつもる話もない。話たいとは思わないし、むしろ逆だ。
しかし、そんな風に思っているときほど、ことごとく運が悪い。後輩が何かの拍子に振り返り、こちらに気付いたようだった。不思議そうな顔をしてこちらに近付いてくるのを見て、もう避けられないと思った。居心地が悪い。
「須藤先輩ですよね? どうしたんですか、こんな時間に?」
「ああ。お前こそどうしたんだ?」
質問で返し、その間に言い訳を考えていた。なんと答えようか。実は風邪なんだ、いつも母親の面倒を見ている妹が出かけていてな、会社の連中にパシられている、――そんな言い訳が一瞬で思い浮かぶあたり、こういう状況にも慣れてきたのかもしれない。
「俺っすか? 俺は買い出しです。この後から張り込みなんですよ」
「張り込み、ということは、お前、警官なのか」
「そうなんですよ」
「あの頃のお前からは想像がつかないな」
髪を金色に染め、ピアスまで開けていた後輩の姿を思い出した。後輩はおどけて敬礼のポーズをすると、「ですよね」と答えた。
後輩は、じっとこちらを見た。
「先輩の方は、何か事情がありそうですね」
「いや、ねえよ、そんなに大した事情なんて」
後輩は、ふうんと言うと、
「でも、先輩、そのカッコ、明らかニートですよね?」
「・・・・・・まあな」
「なんでですか? 俺、先輩ならすぐに就職決めちゃうと思ってましたけど」
「就職はしたが、やめたんだ」
「えっ? やめた? もしかして、ブラックとか・・・・・・」
眉を下げて須藤の顔を伺った。
もうこの後輩と話していたくはなかったが、誤解されたままではあらぬことを噂にしてまき散らされそうなので、須藤は首を横に振った。
「俺のわがままだよ。働くのが怖くなっただけだ」
「働くのが怖いって、先輩どんな仕事してたんですか」
「教師」
後輩は黙った。須藤は、じゃあな、と言いながら後輩の横を通ってレジに向かった。
教師になることは、須藤の夢だった。中学生の頃の担任に、須藤の考えを百八十度返させた凄腕の教師がいたのだ。それまで、家族や親戚関係、それまでの教師を含め、良い大人と巡り会っていなかった須藤にとって、それは衝撃だった。大人のあるべき姿を見せてくれた。だから須藤は中学教師になることを目標とし、やがてそれを達成した。
須藤が教師をやめたのには、もちろん理由がある。いじめだ。須藤が初めて担任となるクラスを受け持ったとき、前年から続くいじめが行われていた。ターゲットとなった女子生徒の沢井二菜は、やがて母親の実家の方へ転校していった。
そのときから、須藤は漠然とした不安を抱くようになる。「今自分が指導しているこの生徒たちの未来を壊してしまうのではないか」と。現に、沢井二菜に関しては、須藤の責任も重く問われた。いじめ自体は非常に悪質で、教師が気付くことは非常に困難だった。しかし、だから助けられなかったなどという言い訳は通用しない。
「先輩!」
後輩が後ろから追いかけてきていた。須藤は足を止める。後輩の声に気付いたからというのもあるが、第一はレジの前に出来ている列に並ぶためだった。
「先輩、待ってください」
「なんだ」
「教師って、あの」
後輩は、昔の話を持ち出してきた。
「それってやっぱり、先輩が以前話していたことですよね。憧れの教師がいるから、教師になりたいんだって。そう言ってましたよね。諦めちゃったんですか」
「俺の憧れに、全く関係ない生徒を付き合わせる訳にはいかないだろ」
須藤は思わず口を尖らせた。後輩の、後輩らしい無神経さに腹が立った。本当に警察か、こいつ。
「もったいないですよ。俺、その話聞いたとき、先輩なら絶対いい先生になるって思ったんですから。俺みたいなのにとったって、先輩は本当に良い先輩でしたし、それに俺、先輩が先生になるなら学校も悪くないなって」
「その辺にしろ、俺も暇じゃねえ」
「ニートのくせに」
後輩がぼそりと呟いたとき、ちょうど前の人がはけた。前に進み、籠を置く。清算をしているとき、後ろで後輩がまだ何かぶつぶつ言っていたが、全て無視した。
時計を確認した後輩が、「俺はもう行きますけど、先輩は自分の力を低く見すぎですから。絶対にいい先生ですから」と捨て台詞のように叫んで去っていった。買い出しといいながら、手には何も持っていない。俺に構うのに時間を使いすぎたのだろう。
いい加減なことばかり言いやがって、と走り去った後輩の後ろ姿を思い出して毒づいた。
***
あの教師に会いに行こう、と思い立ったのは、それから数日後のことだった。引っ越しました、という手紙が届いたのだ。この教師とは、年賀状のやり取りをしていたが、それだけでなく、大学卒業や就職のときなど、手紙を書いたりもした。これまで出会った教師の中で、進路の相談までしたのはこの教師だけ。卒業後も世話になっているが、教師の方もそれが嬉しいらしい。今回も、はがきの余白に長々と自分の近況を記して送りつけてきた。
あの老眼に書けるのかと思うほど小さな字で、所狭しと達者な文字が埋められていた。
『須藤は教師になったのでしたね。最近どうですか。元気でやっていますか。教師に元気がないと、生徒は敏感に気付くものですよ。元気がないと出来ないことはたくさんあります。あなたも気付いているでしょうが、体力があってナンボの仕事です』
先生には申し訳ないが、もう俺は教師じゃない。
『私は定年退職をして、これから息子夫婦のところで厄介になる予定です。時間は有り余っているし、須藤の相談にはいくらでも乗れます。家に招くことは軽々しく出来なくなりましたが、頼めば許してくれるでしょう』
時間と金を無駄に浪費するだけの駄目男に相談することも、資格もない。
『ところで、庭の花壇が今年も綺麗になりました。須藤たちの卒業で頂いた花も、今年で何代目かは忘れましたが、また綺麗に咲きました』
十二代目だ。
教え子から貰った花は絶対に枯らしたことがないという先生の自慢話を思い出した。子供と同居するというなら、広い庭にあった花はどうしたのだろう。全て持ち込んだのだろうか。
『また須藤に会いたいものです』
俺も会いたいです。
胸に迫るものを感じて、それを振り払うようにはがきを放り投げた。回転しながら机の上に落ちた。
それからあの教師に会いに行こうと思うまでに、そう時間はかからなかった。寝て起きたら、ふとそんな考えが浮かんだ。どうせ返事を書こうと思っていた。レポート用紙を一枚取り出し、はがきへの返事を書いた。
日取りはすぐに決まった。暇だというのは本当らしい、その日のうちに先生から手紙が届き、日程を調節するのもすぐに決まった。このように頻繁に連絡を取ることは少なくない。そのため手紙ではなく、電話などの連絡先を交換すればいいのだが、須藤は手紙でやり取りをすることを気に入っていた。温かい教師の字が好きだというのもある。
「お久しぶりです、高井先生」
「お、よく来ましたね。迷いましたか」
「迷いました。この辺の道は入り組んでいてよく分かりません」
須藤の恩師、高井は、須藤が来るや否や、窓から見える庭を指さした。
「見てください。私が花の世話をするのが好きなのだと言ったら、弘美さんが用意してくれたんです」
高井の息子の妻も、ガーデニングが趣味なのだという。ベランダにも花があると高井は言った。花を植えかえる重労働は、息子の方も手伝い、まる一日かけて行われた。
「あれが、君たちのくれた花です」
日光をひと際浴びて、何種類かの花が輝いていた。卒業生が高井の好みを調べて、植木鉢で買ってきたのだ。そうした方が花束を渡すよりも喜ぶことは、先輩からの情報だった。
「それで、手紙には話したいことがあると書いてありましたが」
「というより、謝らなければならないことです」
須藤は良い、床にあぐらをかいた。高井は背もたれのついた椅子に腰かける。高井の部屋に椅子は一脚しかなかった。
「俺、教師やめたんです」
高井は驚いたような顔は見せなかった。元々細い目はそのままに「そうですか」と言った。残念だ、とも。
「須藤なら、良い教師になれると思ったのですが。理由はありますか?」
この教師と繰り返した進路相談を思い出した。「あの高校に行きたいんです」「理由はあるんですか」――。勉強をしなくても入れそうな高校に入って、適当に大学に行って、それでそこそこ稼げる会社に勤めたい、などと甘い考えをしていた須藤の根性を叩きなおしたのがこの教師だった。今の、いや、当時もそうだが、その温厚そうな顔つきからは考えられないほどの迫力だったことを須藤は今でも覚えている。
「怖くなったんです。俺に教師はできないと思った」
須藤は、いじめのことをかいつまんで話した。高井は黙って聞いていた。
「それで、自分が生徒の未来を壊してしまうことが怖いということですか」
高井は言った。須藤は頷く。「現に、俺は一人の女子生徒の未来を壊しました」
「須藤は本当に変わりませんね。変わらず馬鹿です」
突然の雑言にクラっとする。昔からこの教師には、こういうところがあった。
「未来を変えてしまうことなど、教師に限りません。一般企業に就職したとしても、君の思いがけない一言が、行動が、誰かの未来を大きく変えるでしょう。君はそのたびに仕事をやめるのですか。人との関わり合いをやめるのですか」
しわがれた優しい声で高井は言った。それは同時に、教鞭をとるときの力強い声をも、思い出させた。
「もっと言うなら、君はうぬぼれすぎです。教師になりたてのたかが君ごときの薄っぺらい言葉に、誰が動かされるのですか。生徒を甘く見すぎです。生徒は、君のような人物に揺らされたりなどしません。大丈夫です」
言われて、須藤は俯いた。畳みかけるような鋭い言葉にうなだれるしかなかった。
「しかし、それでも、俺の未熟ゆえに生徒が不幸になったら、それは」
「そんなの分かり切っています。君が未熟でなくなるまで、それ以後、死ぬまで全力で償うしかないでしょう。教師が生徒に寄り添っていいのは学生時代だけではありません。生徒を受け持っている間だけではないのです。ちょうど、私が君と話しているように」
黙った須藤に、高井は微笑みかけた。自分だってまだ償いは終わっていないのだ、と。
「私も、たくさんの生徒と関わってきました。中には、きちんとした指導を出来なかった生徒もいます。だから私は、決して花を枯らせないのです。生徒のことを忘れず、私のしたことを忘れず、いつまでも愛するために」
須藤は庭を見た。斜めから差し込む光が柔らかく花を照らす。やはり、自分たちの贈った花が一番綺麗に見えるが、それはやはり、自分たちが贈ったから、というだけだろう。傾き始めた陽の光は全ての花に平等に降り注いでいた。
***
明かりをつけた。室内が、チカチカと何度か点滅した。そろそろ電球の買い替え時だろう。明日の帰りに電気屋に寄らなけらば。
300ミリサイズのペットボトルに半分ほど水を汲み、植木鉢にかけた。まだ花は咲いていないが、あと一ヶ月もすれば白い花を咲かせるだろう。去年も、一昨年も、その前も白い花だった。それに、今年は植木鉢が一つ増えた。この花は夏に咲くから、まだ少し先だ。来年も、きっと花が増えるだろう。再来年も。
須藤は、水を持っていない方の手で植木鉢を撫でた。顔つきは柔らかだった。
須藤はこの年、初めて受験生のクラスを担任した。卒業式の日、担任したクラスの生徒が植木鉢に入った花を贈ってきた。どこから聞きつけたのか、須藤が花を育てていることを知ってのことだった。
確かに須藤は、その当時、須藤の恩師に貰った花を育てていた。
「お前らには、本当に迷惑をかけたと思っている。俺が未熟なばっかりに、俺のせいで未来を壊してしまったかもしれん。だが、お前らの人生は長い。これから先、人生をむちゃくちゃに変えちまうくらいの人に出会えるはずだ。その出会いを大切にしろ。お前らは、お前らの高井先生に出会ってくれ」
須藤は、ことあるごとに『高井』という人物の名前を出した。教師として、大人として、人として、須藤が最も尊敬し、敬愛する人物なのだと。
『高井先生のような人と出会え』というのが須藤の口癖だった。自分はそんな素晴らしい大人ではないが、高井先生のような素晴らしい人間と出会い、その出会いを一生大切にしろといつも言った。
やがて、須藤を慕う生徒の一部は、「須藤先生こそ自分にとっての『高井先生』である」と話すようになる。
「高井先生に出会えってそれ、何回目だよ」
生徒は皆、目じりに涙を浮かべている。
「何回でも言うぞ。お前らはな―――」
「先生、俺ら、高井先生にはもう出会ってるよ」
「さっきから高井高井って、先生、いまさら自己紹介してるの?」
「須藤先生が高井先生でしょ」
この年をはじめとし、須藤に高井というあだ名が浸透した。須藤の背が高く、こじつけやすかったのも噂を広めた一因だ。
***
朝。須藤は警告音で目を覚ました。普通のアラームでは中々目が覚めないので、警告音を目覚ましに設定しているのだ。そんなことでは実際の警告のときに跳ね起きたり出来ないだろうと予想はつくが、それ以外に方法を思いつかなかった。
寝ぼけたまま、テレビをつける。ちょうどニュースが始まったところだった。おはようございます、とキャスターの声が聞こえる。
ニュースは好きだ。授業に関連する事柄をちょっと覚えておくだけで、生徒に話すネタができる。ぼんやりとしたままではあるが、流れてくるニュースに耳を傾けた。
朝食はいつも、車の中で食べる。一時間半程度で職場の学校には到着するが、車の中でパンを食べる習慣は以前と変わらなかった。
須藤はネクタイを締めた。今日から新しい赴任先での新学期が始まる。須藤は教師だった。