枯れる湖
「まいったよ。着いていきなり大統領だぜ?」
俺はノートパソコンにヘッドセットを接続し、編集者の堀田君とスカイプでビデオ通話をしている。
在宅で仕事をするアシスタントに指示を出す場合は、この方法がいちばん手っ取り早い。
通話画面に映る堀田君の顔は、ずいぶんと眠そうだ。
ヤニベクスタン時間で21時。日本時間は25時である。
「スマホで撮影した写真はクラウドにアップしたから見てくれ」
「いま見てます。いい写真、撮れてますねぇー。
先生、まじめにルポライターに転職しても食っていけそうッスね」
やはり彼は「一言多い」のだが、もう俺はそれに慣れてきている。
俺は話をしながら液晶タブレットを走らせていた。
俺が仕事で使うものよりサイズは小さいが、同じ会社の製品なので使い勝手はいい。
「先生、それいま何描いてるんスか?」
「んー?」
俺は作業を一時中断して、描きかけのスケッチを書き出して送信した。
「うわ! めっちゃイイ絵じゃないッスか!」
「まだラフスケッチの段階だけどな」
俺がマラト大統領に握手されてガチガチになっているイラストだ。人物を4頭身くらいにデフォルメしているので、いかにもルポマンガっぽいテイストが出ていると思う。
「いま先生から聞いた話と写真とこのスケッチがあれば、じゅうぶん記事ページ作れますよ。ねえ先生、俺の先輩が『プレイボーイズ』の部署にいるんスけど、これ、そっちで記事にしません?」
「ああ、いいよ。好きにしてくれ」
「それで、明日はどこ行くんスか?」
「なんか観光地があるって言ってたな。湖。それで夜は迎賓館で懇親会だとさ」
「迎賓館! マジっすか先生、超VIPじゃないッスか!」
「じゃあ明日も早いから、このへんで落ちるぜ」
「わかりました。明日も連絡くださいね」
「あ、それと堀田君」
「なんスか?」
「PCのエロフォルダはちゃんと隠しとけよ」
「え、あ、ちょっ……」
さすがに今日は疲れたので、堀田君の性癖をチェックしている時間はない。
俺はホテルの壁面に備え付けられた、大型の薄型液晶テレビのスイッチを入れた。現地の放送局以外にも、アメリカやイギリスの巨大ネットワークのチャンネルも入るようだ。
何の気なしに国営放送にチャンネルを合わせると、いきなり俺の顔が映った。今日の大統領との会見がニュースになっているのだ。ごていねいにもワイプにはアニメ版『ヴィスカウント』の映像が流されている。
なんだか夢でも見ているような気分だが、これがいい夢なのか、それとも悪い夢なのか、もう俺には判断がつかない。
日照時間の関係なのか、ヤニベクの生活習慣は「朝は遅く、夜も遅く」だ。
朝飯は9時、昼飯は14時、夕飯は21時くらいが「平均的」で、レストランは21時になるまではバルとして営業し、軽食以外のちゃんとした料理は21時から提供するのが一般的らしい。
だから誰かと食事をする場合は、23時か24時までかかるのが常であり、きょうの懇親会も21時から予定されている。この生活サイクルにはなかなか慣れない。
スレイマンと俺は朝飯をホテルのラウンジで軽く済ませると、午前中はヤニベクスタンでは唯一といっていい観光地の湖に向かった。
この湖は、地図上は「ヤニベク湖」と表記されているが、現地での固有名詞はない。
ヤニベクスタンには湖はひとつしかないので、ヤニベク人はただ「湖」、もしくは「大きな湖」と呼んでいるそうだ。大きな山々と大きな湖に囲まれた、広大な緑の平原と砂漠。それがヤニベクスタンの国土である。
湖では、スレイマンの手配したガイドが俺たちをアテンドしてくれる。
湖を渡ってくる風に塩の香りが混じる。
塩湖のようだ。
このヤニベク湖は巨大な内陸湖で、一見すると海のようにも見える。
だがガイドによると、かつてはもっと広大であったという。
環境破壊と気温変化の影響で、湖面積はこの半世紀で1/5まで狭まった。
かつては盛んだった漁業は完全に衰退し、漁師は鉱山や工場で働くようになった。
ただ、最近になって露出した湖底からは遺跡のようなものが出土し、にわかに観光地として注目を集めているらしい。
この湖に来ている観光客は、外国からというよりも、国内旅行者がメインだ。
昨日の国営放送を見たのだろう、俺はあっという間に囲まれて握手やサイン攻めに遭う。
ヤニベクの人たちは基本的に笑顔で、人懐っこくて社交的である。
それでいて、押しつけがましくない。
礼儀正しさ、というか、ある種のはにかみを持ち合わせている。
それが好印象を抱かせる。
……もちろん昨日の大統領は例外として。
「スレイマン、書くものないか? マジックか何かないか、マジック!」
群衆が口々にマジック、マジックとざわめきだす。
不思議そうな顔をしている俺に、スレイマンはバッグから油性マーカーを取り出して手渡してきた。
両端に「極太」と「細」、太さの異なるペン先のある、日本のジブラ社の製品だ。
俺は「細」のほうのキャップを抜き取り、ヤニベクの人たちが差し出す新聞紙やら雑誌やらにサインをし続けた。イラストはナシの名前だけのサインだが、彼らはとても喜んでくれている。
「センセ、『ヴィスカウント』で主人公が魔法使うじゃないデスか。
作者も魔法を使うのか、って、みんな興奮してますよ」
俺の顔から思わず笑みがこぼれた。
まいったな、俺はこの国の人たちを好きになりかけている。
それは、まずい。
人だかりが一段落したところで、俺は岬のような突端でスレイマンと二人きりになった。
ガイドには、少し外してもらった。
俺はスレイマン・ロジコフに、確かめなければならないことがある。
「それで、今日の懇親会は、どういった集まりなんだ?」
「…………」
「まさかファン・ミーティングってわけじゃねぇんだろ?」
「……“有識者”を招いての、経済懇親会議デス」
スレイマンは、一呼吸おいてから、ゆっくりと語りだした。
俺が人払いをした意図を、察したようだ。
「出席するのは大統領と経済相、ヤニベク財界の社長サンたち、そして国内外の取材記者。
日本のコンテンツ産業、マンガとアニメについて、お話しいただきたいのデス」
「……って言っても、相手がどの程度理解しているかにもよるからな」
「正直に言えば、みんなアニメとマンガの区別もついていまセン」
「まあ、そんなとこだろうな。それより、なぜコンテンツ産業なんだ?
この国には天然のガス資源があるんだろ?」
スレイマンは言葉を選びながら、慎重に話す。
「……マラトも大統領になる前に、いろいろな国を見てきました。
とくにベネズエラに駐在したときの経験が、彼に衝撃を与えたそうデス。
ベネズエラは世界有数の石油産出国で、とても裕福な国でした。
しかし、産油国が世界中に増えて原油価格が低下すると、状況は変わりました。
国が豊かになって物価と人件費が上がると、採掘コストも高くなります。
ベネズエラは石油資源を輸出しても儲からなくなりました。
いまベネズエラは、国内経済が崩壊しています。
資源に頼り切った経済は、いずれ立ち行かなくなります」
ようやく話の筋が見えてきた。
話の筋、つまりなぜ俺がこの国に呼ばれたのか、だ。
ここまで話すということは、スレイマンも俺のことを信頼しているに違いない。
俺は黙って聞き、彼に言葉を続けさせる。
「ヤニベクはまだ人口が少なく、国民ひとりあたりのGDPもあまり高くありません。
だから、いまのところ資源輸出国として成り立ってます。
もっとハッキリ言えば、“まだあまり裕福じゃない”から、平和でいられるんデス。
しかし人口は増えています。人々も豊かになってきています。
それに……天然資源は、いずれ無くなる可能性もあります。
だから、いまのうちに、あたらしい産業を生み出すことが必要なんデス」
「そのためのIT化と教育。そして……コンテンツ立国」
「そうデス」
俺は日本で“カジノ法案”が可決したニュースを思い出した。
「カジノで観光立国、ってわけにはいかないのか」
「周辺国にはムスリム(イスラム教徒)が多いですからね。
ほかに観光資源は、この湖しかありません」
理解はできる。
だが。
「大統領とは仲がいいんだな?」
「ええ、彼とはハイスクールからの同級生で……」
そこまで言いかけて、スレイマンは俺の雰囲気を察し、ハッとした。
「話はわかった」
「だが、気に食わねぇな」