入国
アルマトイはカザフスタン共和国の経済と文化の中心地である。
中央アジアの諸国へ行くには、アルマトイ国際空港を経由して各地へと飛び立つことになる。
俺たちはこのアルマトイ空港から、ヤニベクスタン共和国のメナバト行きの便に乗る予定だ。
あれは俺がまだ中学生か高校生の頃だったと思う。
サッカーの日本代表がW杯の初出場をかけてアジア最終予選を戦っているとき、このアルマトイでカザフスタン代表と引き分け、そして日本代表は加茂監督を更迭した。
俺は深夜遅くまでテレビでその試合を見ていた……なんて感慨にひたろうにも、外は真っ暗だ。
何も見えやしない。
日本とアルマトイの時差は3時間だから、いまは午前7時のはず。
しかし、緯度の関係からか、晴れているのにまったく日が昇っていない。
日本の同じ時期と比べるなら、午前5時の夜明け前と同じくらいだ。
空港の外に出たところで、店一軒だって開いてなさそうなので、ただボーっとメナバト行きの便の準備が整うのを待つしかない。
「センセ、どうぞ」
スレイマンが自販機のカップコーヒーを持ってきてくれた。
不味い。
が、目は覚める。
目が覚めると同時に、急速に頭が回転し始める。
「スレイマンは、どうして日本の大使館に勤めるようになったんだ?」
この旅を通じて、俺は彼のことを「ロジコフさん」ではなく「スレイマン」と呼ぶようになっていた。
「ワタシが日本に来たのは1年前です。それまでは別の会社にいました。フフ、民間登用、デスね」
「そのわりに日本語がうまいじゃないか。どこで勉強したんだ?」
「じつは……ワタシが日本語を勉強したのは『ヴィスカウント』のおかげデス。ワタシは経営を勉強するため、日本の大学に留学していまシタ。でも、最初は日本語が難しくて、全然わからなかった。だけど日本で『ヴィスカウント』のアニメを見て、衝撃を受け、それからマンガがあることを知りました。ワタシはそれから熱心に日本語を勉強して、マンガも読めるようになりまシタ。だからセンセは、ワタシの恩人ね。大学を卒業してからはヤニベクに帰って、エネルギー関連の会社に勤めていました」
例の天然ガス資源、というやつか。
「そこからは転勤族デス。いろいろな国の支社に行きました。アメリカもロシアもフランスも。だけどワタシの国の人、日本にあまり来ていません。日本語できる人、少ないデス。だからワタシ、大使になってました」
このフライトを通じ、スレイマンは母国語(ヤニベク語)と日本語以外にも英語を話せることを知った。
このぶんだと、ひょっとしたらロシア語やフランス語も話せるのかもしれない。
まるでジェームズ・ボンドだ。
「ワタシはショーン・コネリーが好きデスね」
「ダニエル・クレイグも、俺は結構好きだけどな」
他愛もない話をしているうちに、搭乗手続きのアナウンスが告げられた。
メナバト行きの便は小型の旅客機だった。
アルマトイまでの大型機と違い、ちょっとした風でもグラッと揺れる。
この便で国境沿いの山を、えいやっ、とひとまたぎすると、ようやくヤニベクスタン共和国の領内に入ることになる。
メナバト空港はヤニベクスタン共和国では唯一の国際空港ということもあって、俺たちが到着した昼時分には大勢の利用客がいた。
ロビーのアナウンスや道行く人々の言葉を聞いていると、大使館で聞いたように「ヤニベクスタン」と「ジャニベクスタン」の発音が混在しているようだ。ヤニベク語では「ya」と「ja」の区別がつかないが、それは日本人の耳に「R」と「L」の区別がつかないのと同じようなもの、とのことだ。
複数言語を華麗に操る、われらがジェームズ・“スレイマン”・ボンド氏の分析である。
空港を出ると日はすでに頭上に達していた。
おそろしく乾燥していて、肌を射抜くように寒い。
暖房で温まった肺に、急に冷たい空気が流れ込み、俺はむせてしまった。
着陸前に小型機の窓から空港周辺を見下ろすと、滑走路の周囲には広大な牧草地が広がっていた。美しい枯草色がどこまでも広がっていて、そのせいか、メナバトの空気には牧草の臭いが混じる。それと空港内のフードコートから、独特な香辛料の香りが漂ってくる。
スレイマンが言うには、成田空港はしょうゆの匂いがするらしい。蕎麦屋のせいだろうか。
空港の出口では、遊牧民の伝統的な衣装を身にまとった少年が、土産物の屋台を引いて童謡のようなメロディを口ずさんでいた。牧歌的で、のどかな光景である。
「あれは何ていう歌なんだ?」
俺はスレイマンにたずねた。
「あれは代表的な遊牧民の歌です。
草原の向こうに湖があり
ひとびとは山羊を連れて湖をめざす
湖の神は牧畜を讃え
牧童は大きな愛を授かって 天に召される
そういう意味です」
「なんだかわびしい歌だな」
「センセ、ここからは車デス」
俺はスレイマンにうながされてタクシーに乗り込んだ。
空港から延びる一本道は、あいにくとアスファルトの舗装が雑で、路面はところどころデコボコしている。ドライバーの運転が荒いせいもあって、俺とスレイマンは、昔のアニメ映画のように車の中で何度も何度も飛び跳ねていた。
「センセ、お尻ダイジョブですか!?」
スレイマンがニヤッと笑いながら聞いてきた。
走行音がうるさいので、怒鳴るようにしゃべらないとお互いの声が聞こえない。
痔はマンガ家の職業病というが、いまのところ俺は罹ったことがない。
「これぐらいなんともねぇよ。俺のケツは鉄だからな!」
「ケツがテツですか! ケツがテツ!」
言いながらスレイマンは膝を叩いて大笑いしている。だんだんコイツのことがわかってきた。
オッサンがダジャレ好きなのは万国共通だ。
そしてコイツの笑いのセンスは、だいぶズレている。
「このあたりはソビエト時代整備された道なので、デコボコなんデス」
道路脇の牧草地には家畜が放し飼いにされている。ところどころ、色の褪せたコーラの看板があったり、ひげを蓄えたオッサンの看板が立っている。オッサンの看板は定期的に現れるので、さすがに気になってきた。
「あのオッサンは誰なんだ!?」
「オー! あれは前の大統領デス。ムフタル! ムフタル大統領!
みんなから<建国の父>と呼ばれて慕われてマス!」
そういえば、半年ほど前に前大統領が死に、選挙であたらしい大統領を選んだ、とのニュース記事を読んだ。これだけ看板になっているのだから、いかに彼が慕われていたかがわかる。
「イエー! ムフタール!」
タクシーのドライバーが、俺たちの会話の単語を断片だけ聞き取ったようで、いきなり叫び始めた。
「ムフタルは元は鉱山技師でした。しかし、ソビエトから独立したあと、彼はガス田を発見します。ムフタルは自分の企業で資源を独占することをしませんでした。彼は大統領になると、会社を国有化し、たくさんの雇用を生みました。そして外国に資源を売って、ヤニベクは経済が豊かになりました。だから彼は<建国の父>と呼ばれ、国民から愛されています」
「……って、ちょっと待て! 彼の任期は何年だったんだ!?」
「さすがセンセ、いいところにお気づきデス!
ワタシの国の大統領の任期は1期5年で、最長は2期10年デス!」
「計算が合わないぞ!」
「ムフタルは国民の人気があったので、誰もが彼の大統領を望みました!
結局、対立候補が出ないまま、彼は死ぬまで大統領でした!」
「そいつはずいぶんいい加減な話かもだぜ!」
「それがヤニベク・スタイルね!」
タクシーはようやく市街地へと入ってきた。路面はきれいに整備されており、もう大声を張り上げなくても会話ができる。
メナバトの中心部には近代的なビルが立ち並んでいる。
東京の大手町や丸の内に似たビジネス街だ。
しかし都内よりも道幅が広く、人の往来が少なく、そして街中に看板広告がないせいで、むしろ東京より近代的な印象を受けた。と同時に、閑散とした印象も受ける。
市街地には電線がまったく見当たらないので、インフラはすべて地下に埋設していることが推測できる。道幅が広くて電線がないので、市街地のどこにいても空が大きく目に映る。
清潔。
一言でいえば、メナバトの印象は「清潔」だ。
街を歩く人々は、年少者はスマホを、高齢者はタブレットを持っていることが多い。
俺は自分のスマホを取り出した。堀田君の教えてくれた通りにデータローミングをオフにしておいたので、通信料金が跳ね上がる心配はない。とりあえずはwifi環境でのみ通信を使用することにして、時間が取れればプリペイドSIMを購入すればいい。これだけスマホやタブレットが普及しているなら、手に入れるのも容易だろう。
スマホの「設定」の項目をタップすると、いくらスクロールしても入りきらないほどのフリーwifiの電波を拾っていた。通信状況は日本より進んでいるかもしれない。
「みんな歩きスマホ。日本と一緒ネ」
スレイマンは片方の肩をすくめて、口の端をゆがめて言った。これは否定的なニュアンスなのだろう。
「これだけ街がきれいだと、ホテルも期待できそうだな」
「あっ、そうそう」
俺が軽口をたたくと、まるで言い忘れていたことがあったかのように、スレイマンはおもむろに言った。この言い方をするときは重要なことを言うときだ。この男は、大事なことをサラッと言う。
「長旅でお疲れのところですが、ホテルにチェックインする前に、寄ってもらいたいところがありマス」
「おう。どこ行くんだ?」
「大統領府デス」
「だいとうりょーふ、って……なんだ?」
「大統領がいるところデス。これから大統領に会いに行きマス」
は? 大統領!?