渡航
出版業界には「年末進行」というものがある。
年末年始に印刷会社が休業し、機械をメンテナンスするため、スケジュールが前倒しになる慣例だ。
「少年ステップ」のような週刊誌は年末の最終週に1・2合併号を刊行し、1月の第1週は雑誌を刊行しない。
俺がいま連載している日本文学社の「漫画ゴロウ」は、毎月10日と25日の2回刊行なので、この年末進行でスケジュールが前倒しになると、その後、都合1週間の休みが取れる。
俺はスレイマンに連絡し、この1週間を利用して、ヤニベクスタン共和国に渡航することにした。
いささか図々しいかな、とも思ったが、せっかく誘ってくれるのを無下に断るのも申し訳ない。チケット代やホテル代を先方が持ってくれるというのだ。
いろいろ取材して、次の作品に活かせればいい。
結局、俺は渡航の日の朝まで、原稿を上げるために徹夜で仕事をする羽目になった。
「漫画ゴロウ」の編集者には成田空港まで来てもらい、そこで原稿を渡し、その足で飛行機に乗って旅立つ強行軍となった。
どういうわけか、話を聞きつけた「少年ステップ」の編集者の堀田君も姿を見せていた。堀田君は「漫画ゴロウ」の編集者と名刺交換や挨拶を済ませると、俺の方になにやら荷物を押し付けてきた。
「先生、せっかく『ヴィスカウント』が人気の外国に行くんですから、マンガでルポを描いてくださいよ」
堀田君が手渡してきた荷物は、ノートパソコンと液晶タブレットだった。
「おいおい、外国に行ってまで仕事させるのかよ」
「スマホ用サイトの再録、結構ビュー数が取れてるんスよ。いまなら記事物でページ取れるんで、そこから青年誌での新連載につなげましょうよ。コレ、俺の私物だから失くしたりしないでくださいよ!」
本当にコイツは、俺のことを考えてくれているんだな。
俺は柄にもなくジンと来てしまった。
「こんなラッキーチャンス、もう二度とないかもしれないんスよ!」
本当にコイツは、一言多いタイプだな。
堀田君は海外でのwifiの設定の方法やらを、あれこれと紙に書いて説明してくれている。
しかし、こういった如才なさというか、機を見るに敏なところは、さすがに大手で働く編集者である。フットワークが軽い。日本文学社の編集氏は、となりでまごまごしているだけだ。
「いいっスか? 完成原稿までは要らないっスからね。現地の写真と、最悪ネームだけでも送ってくれれば、新年一発目の号に記事ページは載せられますから。4ページは空けておきますからね」
わかった、わかった。
俺は眠い目をこすりながら、スレイマンと一緒に搭乗手続きを済ませて、機内に乗り込んだ。
これで機内食の出るタイミングでビールでも一緒に飲めば、そのままグッスリ眠って、起きたときには現地に着いているだろう。
どうだ、なかなか頭のいいプランだろ?
「ンー」
スレイマンは、俺のアイデアに苦笑いを浮かべている。
「いいですか、センセイ。日本からヤニベクスタンまでの直行便はありません。デスから、途中でトランスファー(乗り換え)がありマス」
「うん。それくらいは想像していたけど……で、最初のトランスファーはどこ?」
「まず日本からカザフスタンのアルマトイまで行きマス」
「うん」
「ここまで飛行機で約12時間」
「じゅっ、12時間!?」
「アジア」と聞いていたので、俺はてっきり台湾や香港のちょっと先に行くくらいの感覚でいたが、それは大きな間違いだった。
「トランスファーで手続きが2時間」
「2時間」
「そこから飛行機で2時間」
「また2時間か」
「今回はちょうどタイミングのいい便があるので飛行機で行けますが、普段は陸路で山を越えるので7時間かかる場合もありマス」
「なっなっ……!」
「飛行場は首都メナバトのはずれにあります。そこから市街地まで車で1時間」
「いっ……」
「合計17時間かかりマス」
「」
気が遠くなるような思いがしたのは、きっと眠気のせいだろう。
そういうことにしておこう。
そうしておかないと、このフライトを早くも後悔しそうだ。
ここから先、日本の常識や俺の常識は、いっさい通用しないと心に刻んでおかなきゃならん。
俺は「ビーフ・オア・チキン」の機内食でビーフを選択し、ついでにバドワイザーを頼んだ。
プラスチックのカップにビールを注ぎ、干からびた機内食をビールで胃に流し込む。
「あれ? センセイ、下戸じゃなかったデスか?」
飲むよ。飲まずにやってられるか。
俺はアルコールのせいで、気絶したように眠りに落ちた。
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何かを踏み外すような夢を見て、ビクッとして飛び起きたところ、機内は静まり返っていた。
機内の照明は落とされ、ところどころ、スポットの照明が点いている。映画を観ているか、あるいは本でも読んでいるのだろう。
まだ着かない。
アルマトイまで、まだ4時間近くかかる。
「眠れまセンか?」
俺が起きたのを察知したのか、スレイマンはニコニコしながら、深く静かに俺に話しかけてきた。
「よかったら、コレ、目を通しておいてくだサイ」
スレイマンが手渡してきたのは、ヤニベク語と日本語の単語帳だった。
挨拶とか、買い物の仕方とか、簡単な日常会話の用例が載っている。
こういったものを用意してくるあたりは、さすが大使館員だ。
「《おはよう》」
「ハイ、《おはようございます》」
「《これは、いくらですか?》」
「そです、《これはいくらですか?》、買い物で言いマス」
「《1、2、3、4、5……》」
「そうそう、その調子デス」
「《書く》」
「《書く》」
「マンガは……《書く》?」
「マンガは《描く》デスね」
スレイマンは即席のヤニベク語講座に、ニコニコしながら付き合ってくれている。
「センセイがワタシの国に興味を持ってくれて、とってもうれしいデス」
「まあ、乗りかかった船だからな」
「船? いまは飛行機デス」
俺は話題を変えることにした。
「そういえば、ヤニベクスタンでは食えない物とかあるのか?」
「オー、ワタシ好き嫌いはアリマセン」
「お前の好みじゃねぇよ。宗教の戒律とか、そういうのはないの?」
だんだんと打ち解けてきて、俺の話し言葉もぞんざいになってきている。
「ヤニベクは昔から、東洋と西洋の交わるところです。
だからワタシたちの国は、争いごとを避けるために、キリスト教とイスラム教、どちらの宗教も選びませんでした。
国教はヤニベクの遊牧民の民間信仰デス。でもこれはとても少ない。
国民はムスリム(イスラム教徒)が6割、ロシア正教が3割、あとはユダヤ教とヤニベク信仰デスね。信仰心は、だいたい日本人と同じくらいデス。文化としては大切にしていますが、それに生活が縛られることはアリマセン。
ムスリム用にハラール(イスラム教徒用に処理された肉)は流通しています。でも、どの宗教も戒律は厳しくないので、食べちゃいけないものはアリマセン」
スレイマンはどこにでもいそうな人のいいオジサンに見えるのだが、ひょっとしたら彼はものすごく優秀なエリートなんじゃないだろうか。自国の宗教事情を、外国語で、これほどスムーズに説明できるだろうか。そもそも大使を任命されるくらいだから、母国ではそれなりに地位のある人物なのかもしれない。
知れば知るほど、彼に対する疑いは減るが、かわりに謎は増える。
「じゃあ、あの金ピカの神様を拝む必要はないんだな?」
「ああ、あの大使館にあったものデスか?」
そこでスレイマンは再びニカッと笑って言った。
「あれは浅草で買ったんデスよ」
俺はこのフライトで初めて笑った。
飛行機の高度が下がり、窓の下には陸地が見えてきた。