スレイマンからの誘い
ヤニベクスタン共和国の大使館は、虎ノ門のオフィスビルの一室にあった。
アメリカやドイツのような大国でもなければ、大使館はビルに入っていることが多いと聞いていたので、そのこと自体には驚かなかった。エントランスで郵便受けの名札を見ると、別の階にもほかの国の大使館が入っていることがわかる。
「中嶋ですが」
エントランスホールでチャイムを押して名前を告げると、「ドウゾ」という声とともに
ガチャリ
と大きな音を立てて、オートロックの自動ドアの施錠が解除される音が響いた。
まだ引き返せる。
つい今しがたまで頭のどこかではそう考えていた。
それが今では、鬼が出るか蛇が出るか、と意気込んでいる。
まったく、俺はいつか好奇心で身を滅ぼすタイプだな。
ドアの前では、スレイマンがニコニコと満面の笑みを浮かべながら出迎えてくれた。通されたビルの一室は、ビジネス向けのオフィスとは明らかに違う。たとえるなら、映画に出てくるヤクザの事務所みたいだった。シンプルで殺風景だが、神棚だけはしっかりと備え付けられている。
まあ、その神棚が、見たこともないようなキラびやかなものだったが。
あれはどこの宗教のものだろうか?
室内には10人以上のヤニベクスタン人が詰めていた。
こりゃあ……逃げ切れねぇな。
これがマンガだったら、俺の頭には間違いなく大型の汗マークが出ているに違いない。
10人以上とかわるがわる挨拶をしていると、どうやら大使館員は3~4人で、ほかは彼らの家族だということがわかる。ヒジャブを頭にまとった女性もいる。皆一様に笑顔を絶やさない。
日本語の習熟度合いには個人差があるせいか、スレイマンのように会話の成り立つ者もいれば、いまいち意思疎通が難しい者もいた。
俺よりも相手のほうがもどかしさを感じているようで、横にいるスレイマンに矢継ぎ早に単語を確認しつつ、俺のほうに向き直して、必死に何かを伝えようとしてくれる。
子供のころは全員が見ていた。
小さいころの娯楽といえば『ヴィスカウント』しかなかった。
友達と“ごっこ”遊びをよくしたものだ。
作者に会えるなんて感激だ。神に感謝したい。
大使館にいる全員が口々に『ヴィスカウント』を褒めたたえてくれるので、こちらの警戒心が緩んしまう。室内には大きなテーブルの上に料理が並んでおり、立食形式のパーティーになっていた。
ヒジャブをかぶった女性が――彼女はスレイマンの妻らしい――料理についてひとつひとつ説明をしてくれる。
俺が気に入ったのは、牛やラムを串に刺して焼いたものだ。日本の焼肉と違って、レアとかミディアムレアという習慣はないらしい。薄く切った肉は、中までよく火が通るように焼いてあるが、弱火でじっくりと火を通したせいなのか、表面に焦げは少ない。スパイスが効いていて食が進む。
「ワタシの国のお酒デス」
スレイマンの妻から馬乳酒のように白濁した飲み物を勧められたが、アルコール度数が強そうだ。
俺は「下戸だから」と断った。
スレイマンは大使館では顔役のようで、ヤニベクスタンの言葉でほかの男たちにテキパキと指示を与えていた。
俺はほかの大使館員たちの応対をしていた。彼らは口々に『ヴィスカウント』のことを褒めてくれるので、さすがに体がこそばゆい。
そして彼らの国「ヤニベクスタン」とは、彼らの言葉での正式な発音は「ジャニベクシュタァーン」のようだが、ヤニベク語では「ja」と「ya」の区別がないので、どちらでも聞き取れるし、日本人が発音しやすいように「ヤニベクスタン」と表記していることを聞いた。
ようやく人々の挨拶から解放されたところで、ちょうどスレイマンの身も空いたようだ。俺は彼に近づき、横に並ぶと、愛想笑いを浮かべたまま、どうしても確認しなければならないことを小声で切り出した。
「どうして初めから俺を知っていて、声をかけたんです?」
スレイマンは肩をすくめて、丸い目を少し泳がせてから言った。これは彼の癖らしい。
「『ヴィスカウント』の映画、以前やりました。ネ? そのときのプロモーション、センセイ出てました。動画、YouTubeにありマス。だから知ってました。それで私、会場でセンセイを探して、声かけました」
そういえば一度だけ、テレビの取材を受けたことがある。
朝の情報番組で、15秒ほどのプロモーション映像だった、と思う。まだ画面の比率は、現在のように16:9ではなく、4:3のサイズだった頃の話だ。誰かが違法にアップロードしたに違いない。彼はそれを見たのだ。
と、その時、俺の携帯電話がコール音を鳴らした。
そうだ、間瀬ちゃんだ。
「よお、定時連絡だぜ。どうだい、大丈夫そうか?」
「ああ、うん。たぶん、ね」
「ずいぶん後ろが騒がしいな?」
「パーティーになってる。食事をご馳走になってるよ」
「なんだそりゃ。楽しそうだな」
「帰ったら連絡するよ」
帰ったら連絡するよ、のところを、横にいるスレイマンによく聞き取れるように、大きめの声で返答した。俺の警戒心はまだ完全に解かれていない。
何かあったら電話先の人物が警察なり何なりに連絡するぜ。
俺のそんな意図をまったく介さずに、スレイマンはニコニコと語り続けた。
彼の話した内容を要約すると、次の通りだ。
ヤニベクスタンは1991年にソビエト連邦から独立した。
ソビエト時代は共産党政権下で圧政を受け、みんなが工場労働に従事させられた。
本当に貧しい国で、水道管が破裂したり、電力供給が不安定でよく停電もした。
しかしソ連から独立後、数年のうちに国内で天然ガスが見つかる。
天然資源の埋蔵量は多く、資源輸出のおかげで国が潤った。
国はまず水道や電気のインフラを整備し、教育にお金を使った。
やがて人々の生活水準は向上し、すると人々は娯楽を求めるようになる。
ハリウッドなどにはツテがなくて、良質なコンテンツを買うことができなかった。
そんなとき日本の権利会社から格安でアニメ作品を売ってもらえた。
それが『ヴィスカウント』だ。
制作会社が倒産したのと国内で放映が終了した後だったから、『ヴィスカウント』はかなりディスカウントな価格で買えた。
このダジャレはスレイマンのお得意のネタで、誰に言っても鉄板でウケるらしい(知るか!)
安いうえにシリーズの話数が多いので、放映した国営ヤニベクTVは本当に助かった。
『ヴィスカウント』は繰り返し何度も放映されているので、老若男女を問わず知っている。
国民的な人気作品で、現在も高視聴率を記録している。
安定した電力供給のもとで見る綺麗なデジタル彩色の『ヴィスカウント』は、われわれヤニベク人にとって「豊かさ」の象徴なのだ。
スレイマンの人懐っこい笑顔には、人の警戒心を解きほぐす効果があるみたいだ。
別の大使館員から、食後のお茶が出された。ステンレス製の銀色の容器に入っている、甘く煮出されたミルクティーだ。少し香辛料が入っているようで、甘さの中に独特の風味がある。人心地つくような、ホッとする温かみのあるお茶だ。
俺はミルクティーを飲みながら、いつの間にかスレイマンを信頼するようになっていた。
これには自分でも正直驚いている。
帰り際、まるで言い忘れていたことがあったかのように、スレイマンはおもむろに言った。
「センセイ、よかったら今度、ヤニベクスタンに行きませんか? もちろんエアチケットと宿泊ホテルはワタシたちが用意しますカラ」