サイン・オブ・ザ・タイムズ
軍人グループのリーダーと俺は、部屋の中央で対峙している。
マーティンの送信した情報が世界中に拡散されたことは、この男の様子を見れば一目瞭然だ。リーダー格の男は血走った目で俺を睨みつけ、肩で息をしている。感情的になるのを、どうにか抑えているらしい。
室内にはこれ以上ないほどの緊張が張り詰め、全員の視線が俺たちに注がれていた。
リーダー格の男は、俺に向けて手を突き出してきた。他の人質たちは、何が起きているのか理解できていない。だが俺には、彼が何を要求しているのかがわかる。
俺はズボンの左後ろのポケットからメモ帳を取り出すと、男に手渡した。リーダー格の男はページをパラパラとめくって中を確認すると、メモ帳を床に盛大に叩きつけた。
パタン!
メンコのような動作だな、と思った。案外、冷静に事態に対処できている自分に、われながら驚く。リーダー格の男は、再びものすごい形相で俺を睨んできた。そして俺に向かって怒鳴り散らす。
だが俺は言葉がわからない。
平気な態度を装ったまま――内心はドキドキしていたが――、俺はこの男をにらみ返す。リーダー格の男がドアのほうに向かって叫ぶと、開け放たれたドアから、若い兵士が別の人質を連れて姿を現した。
スレイマンだ。
連行されてきた人質はスレイマンだった。彼は後ろ手に手錠をはめられている。その姿を見ると、安堵の気持ちよりも先に、怒りがこみ上げてきた。スレイマンの右頬は殴られたのか、赤く腫れ上がっていた。さらに顔のあちこちに擦過傷が目立つ。シャツの首元にはべったりと血の跡が付着しているが、それは鼻血だろうか。あきらかに拷問を受けた痕跡だ。
「……センセ、通訳しろ、と連れてこられました」
「……ああ、まずは無事で何よりだ」
「彼は陸軍の参謀長デス」
スレイマンに向けた視線を、再び参謀長へと移す。
落ち着け。怒りを収める必要はない、だが落ち着け。
参謀長といえば、実質的な軍のトップだ。
その彼が全軍を指揮するのではなく、実働部隊として、大統領の身柄確保と大統領府制圧に動いていた。つまりこのクーデターの指揮者は軍部ではない。裏に首謀者がいる。
そのようなことを考えながら、俺は参謀長の出方を待った。
「お前はなんてことをしてくれたんだっ!
マラトの演説とお前の絵が引き金になって、市民は軍隊に歯向かうようになってしまったんだぞ!
俺たちが外出禁止令を出したのに、市民はまるで言うことを聞かない!
ある者は戦車の前に立ちふさがり、またある者は軍隊に向けて石を投げている!
俺たちもやむなく応戦して、すでに市民に被害者が出ているんだぞ!
お前は自分のしたことがわかっているのかっ!
警察は、市民と大統領の味方に付いた。いまメナバトの市民たちは、お前を解放しろと叫びながら、この大統領府に向かっている! 警察以外にも空軍と陸軍の一部も大統領についた!
ここが包囲される前に俺たちはここを脱出し、大統領を捕まえなければならない。
これはもうクーデターじゃない、ここからは内戦だ!
被害を最小限にとどめるつもりだったのに、お前のせいで台無しだ!
これからどんどん被害者が出るぞ!」
スレイマンの同時通訳を聞きながら、俺は参謀長を睨む。
足が、すくむ。
いままでの人生で、軍人と睨みあった経験なんてものは、もちろんない。
だいたい俺は殴り合いのケンカすらしたことがない。
これ以上参謀長を刺激したら、肩から下げた自動小銃で撃ち抜かれる可能性だってある。
指先が震える。
……だが。
参謀長の言い分は、あまりにも身勝手だ。
彼は自分たちこそ正義だと信じているのだろうか?
これだけ多くの市民が、身を投げ出してまで反対しているのに!
“被害者”という言い方も気に食わない。それは“犠牲者”だ。
お前たちの身勝手な反乱によって生じた犠牲者ではないか。
あのハニカミ屋で穏やかな人々を、美しい街を、踏みにじったのはお前たちじゃないか!
言い返せ。
言うべきことはハッキリ言うんだ。
俺は一歩を踏み出したんじゃないか。
あのメモをマーティンに手渡した瞬間から、俺は軍部の明確な敵になったんだ。
勇気を出せ!
恐れるな!!
この<ヤニベクスタン共和国>で、俺はカリスマ作家なんだ!
「…………スレイマン、訳してくれ」
スレイマンは目を見開いて俺の顔をじっと見つめる。
「……おう兵隊!」
俺の怒鳴り声に、参謀長は驚きを隠せていない。まさか言い返してくるとは思っていなかったのか。参謀長はスレイマンのほうを向き、通訳をうながす。
「参謀だなんだか知らねぇが黙って聞いてりゃいい気になりゃあがって、何をぬかしやがんだこの三下野郎! てめぇなんざに頭を下げるようなそこいらのボンクラとは、こちとらワケが違うんだ!
おぅ、いいか聞きやがれ!
外国の大使を人質にして、海外から呼んだ客人や記者を監禁して、さらに市民に向けて発砲だぁ?
それで『お前のせいだ』とは、御託が過ぎるってんだよ!
身勝手なことばかり並べやがって、それでもお前らは軍人かっ!
お前たちが誰の差し金で動いているか知らねぇが、大統領が気に食わなけりゃデモでもリコールでも選挙でもやりゃあいいだろ、このバカ野郎が!
そのうえ大統領には逃げられて居所を見つけられなくて、居場所を知っていそうなやつを捕まえて拷問するなんざぁ、あきれてものも言えねぇってんだ!
お前たちがやっていることは茶番だ!
てめぇのその足りない脳みそで、もう一度よく考えやがれ!
お前たちは誰のために戦っているんだっ!
お前たちが銃を向けた市民は、誰のために戦っているんだッ!
お前たちは誰のための軍隊なんだッ!?
お前たちの正義はどこにあるんだッッ!!」
参謀長は何か言いたげに、じっと俺を睨んでいる。
若い兵士たちは、うなだれている。
俺は飛行機の中でスレイマンから教わったヤニベク語の単語を思い出していた。
「…………《描く》」
そう言うと部屋中の全員が、ハッとした表情で俺を見つめてきた。
今度はもう一度、ハッキリと言う。
「《描く》!!」
俺は上着の内ポケットに手を入れる。
若い兵士たちは、俺が44マグナムでも取り出すと思ったのだろうか、たちまち俺に銃口を向けてきた。俺はゆっくりと、内ポケットから、油性マーカーを取り出した。
そして、そのまま部屋の壁の前まで歩いていき、油性マーカーで壁に大きなイラストを描き始めた。
「極太」のペン先が壁面を走る音だけが、室内に響き渡る。
イラストが全体の輪郭像を結んでくると、若い兵士たちは俺に向けていた銃口を下ろし、すすり泣きを始めた。ほかの人質たちは正座するような姿勢で、まるで尊いものでも仰ぎ見るかのように壁のイラストに手を合わせ、涙を流している。
参謀長も銃口を下げ、うなだれて、肩を震わせている。
軍人たちの高揚した戦意が、溶け出して、立ち消えていくのが感じられた。
「……マジック」
スレイマンがつぶやく。
いいや、魔法なんかじゃないぜ。
俺が壁一面に描いたイラストは『ヴィスカウント』のキャラクターだ。
連載終了から10年。
ファンにサインをせがまれたときにも、ただの一度も描くことはなかった。
だけど、かつては毎日毎日、何年も何年も、繰り返し描き続けてきた俺の分身だ。
忘れようにも、忘れられるはずがない。
俺が描いたのは、この国でもっとも人気のあるマキノ、そして主人公だ。
俺は描き終えると、主人公に向かってささやいていた。
「……よう、ひさしぶりだな」
悪かったな、ずっと閉じ込めていて。
主人公の名前はタダヨシ。
漢字では「正義」と書く。




