ノーリミット
室内ではテレビがつけっぱなしになっている。
時々強い風が吹いて窓を揺らすと、遠くに喧騒が混じっている気がする。
まだ騒動は収まっていないのだろう。国営放送は市内の様子をライブカメラで伝えており、市民と軍隊のあいだで揉め事が起きているように見えた。
俺は午前中いっぱいを使って、スケッチを描き続けた。
会議室での昨夜の騒動、室内で“仕分け”される人質、手錠で拘束される政治家……。連行される俺自身のイラストは、『ヴィスカウント』単行本の著者近影用に描いた自画像を、ことさらカリカチュアライズした。両足をそろえて飛び跳ねている、世界中で通じる“驚き”のマンガ表現だ。ルポマンガと同様、4頭身の親しみやすい絵柄なら、起きている事件の深刻さとの対比が生まれ、リアルな絵柄よりもむしろ読者に与えるインパクトは強くなる。
“情”を“報せる”と書いて“情報”だが、感情を伝達するにはマンガほど優れたメディアはない。少なくとも俺はそう考える。
あとは、このスケッチを英国人記者のマーティンに渡すだけだ。
俺は部屋の中央で、テレビに背を向けて座っている。
ペンを走らせてさえいれば、どこを向いていようとも、俺だけは不審がられない。
英国人記者マーティンは立ち上がると、左足を引きずって、俺の斜め前に座った。
遠巻きにテレビ画面を眺めているようだ。
俺の手元は、マーティンの体でブラインドになり、兵士からは見えない。
俺はメモをマーティンの前に差し出す。
視線はドア前の兵士から外さない。
マーティンはテレビの前に座っている他の人質に目を配りながら、左足の靴の中からスマートホンを取り出し、俺が描いたスケッチを無音のカメラアプリで撮影した。該当ページを撮影し終えると、マーティンは再び靴の中にスマホを隠し、メモ帳を俺に返す。俺はスケッチ作業を続けているフリを再開した。そのままマーティンは少しテレビを眺めていたが、しばらくすると再び自分の所定位置に戻り、左足に毛布をかけていた。
マーティンの所属する組織――英国国営放送――は、世界中にネットワークを持つ巨大放送網である。日本でもケーブルかCS放送で見ることができたはずだ。このヤニベクスタン共和国でも、俺はホテルでこのチャンネルが入るのを確認した。欧米諸国ではだいたい見ることができるだろう。公式のWEBサイトも持っているし、記者たちはSNSもやっている。
マーティンが送信する情報は、このクーデターの“誰も知らない情報”としてスクープになるだろう。少なくとも英国国営放送の記者とイラストレーターが軍の人質になっていることは、世界中が知ることになる。ヤニベク軍も知ることになるが、それにより俺とマーティンには危害を加えられる可能性はグッと低くなるはずだ。
だってそうだろう? 事件終結後、情報を内部からもたらした人間が負傷をしていたり、殺害されていたら、ヤニベク軍は世界中から非難の的になってしまう。“炎上”するのは火を見るよりも明らかだ。ただし、彼ら軍部が逆上して俺たちを殺す可能性もゼロではない。そうなれば、この賭けは俺たちの負け……ということになる。
だが、彼らは理性的だ。入念なボディチェックをされて、メモ帳やスマホを取り上げられて、俺とマーティンは別室で隔離され、今よりもう少し厳重な監視下に置かれ……、せいぜいその程度だろう。タカをくくる、というのとは違う。
俺はその可能性に張ったのだ。
賭けたのはチップやキャッシュではない。これは生命のオールイン(全額勝負)だ。
マーティンが外部に情報をリリースするタイミングは、俺にもわからない。完全に彼任せだ。しかし、情報が世界中に拡散されれば、軍人が血相を変えてこの部屋に飛び込んできて、俺たちにわめき散らすだろう。
そこでショーダウン(持ち札の開示)だ。そのときに、このギャンブルの結果が判明する。
ライブカメラの映像を映していた国営放送は、文字だけの画面に切り替わった。おそらく「そのままお待ちください」的な内容なのだろう。ときおりゴソゴソとスタジオ内の環境音が入るので、マイクはオンのままのようだ。またいつ映像が入るかわからないので、俺たちはテレビの電源を入れっぱなしにしておいた。何人かはテレビの前から離れて、毛布をかぶって横になっていた。全員がテレビを見ている状況下でマーティンにスケッチを渡せたのはツイていたと言える。
時刻は午後1時になった。
いま外はどうなっているのだろう。
再びふたりの軍人が、段ボール箱を抱えて室内に入ってきた。
体を動かしていないので、正直に言えば、腹は減っていない。しかし、食料が手に入る環境がこの先も保障されるとは限らない。無理にでも食べておくべきだ。
俺たちに支給されたメニューは朝と同じで、パンは見た目はふんわりと膨らんでいるが、中はとにかくパサついていて、水分がないと飲み下すのが困難だ。
不意に、テレビに映像が飛び込んできた。
先ほどはニュースデスクに座っていた軍人の姿は見えない。怒号が飛び交ったのち、すぐさま映像が切り替わる。
映し出された映像は、スマホの動画撮影アプリで撮影したような縦長のものだった。画面の左右は黒いデッドスペースになっている。大きなノイズがしたあと、見覚えのある男が大写しになった。
マラト大統領……!
眉間のしわは先日より険しく、言葉にも怒気が含まれている。何をしゃべっているか俺にはわからないが、オーバーなジェスチャーを交えて、彼は“怒り”を表現していた。
室内の人質、段ボール箱を運んできたふたりの若い軍人、さらにはドア前にいた見張りの兵士までもがテレビの前に集まってきて、食い入るように画面を凝視している。
マーティンは、俺にアイコンタクトをしてきた。
俺はすぐさまマーティンと軍人たちとのあいだに入り、軍人たちと一緒になってテレビを見ているフリをした。軍人たちが急に振り返っても、マーティンの手元を隠せる。
ややあって、今度は俺からマーティンに視線を送ると、彼はウインクしてみせた。
送った。
マーティンはいま、俺のスケッチを世界に向けて発信したのだ。
クーデター派は、国際空港、大統領府、国営放送を占拠したが、彼らは携帯電話の電波基地局も掌握するべきだった。彼らの計画は古いステレオタイプのクーデターであり、ジャスミン革命の教訓が活かされていないようだ。このクーデターの首謀者は、頭が固く、古い世代で、そして現場を尊重しないタイプに違いない。
マラトがスマホ動画で何を演説しているのか。ヤニベク語が分からない俺は、他の人質たちの顔色から判断するしかない。気色ばんでいる者もいるが、軍人たちの様子をちらちらと覗き見ている者もいる。軍人たちは……、ただ画面に見入っているだけだ。
情勢が、まったくわからない。
マラトの動画は、繰り返しテレビで流れている。それからどれくらいの時間が経過しただろうか。廊下のほうから怒鳴り声と、複数の軍人が足早に移動する音が聞こえてきた。武器のスレるガチャガチャとした耳障りな音が、この部屋に近づいてくる。
バダンッ。
部屋のドアが勢いよく開いた。複数の軍人が部屋に押し入ってきて、ドアの付近を固め、銃を構えている。お前たちに逃げ場はないぞ、とでも言いたげなフォーメーションだ。そして、俺たちを“仕分け”た40代くらいの男――この大統領府襲撃グループのリーダー格の軍人が、部屋の中央に歩み出てきた。
リーダー格の男は、明らかに激高した表情をしている。イライラした様子で、テレビを消すように若い軍人に命令した。ブツリ。テレビの音声が途切れると、再び静寂が部屋を支配した。
リーダー格の男は部屋中を睨め廻して俺の姿を見つけると、ツカツカと俺の前に進み出てきて、手ぶりで立つように促してきた。
以前とは違う、高圧的な態度だ。怒りで肩が震えている。
さあ、ショーダウンだ。




