ボールペン
午前8時。
部屋の中では10人の人質が毛布にくるまって床に体を横たえている。
室内灯は消されずに、一晩中、明るいままだった。
床の硬さと電灯の明かりのせいか、あるいは気持ちが昂っているせいか、深く眠れなかった。誰もが、眠れない一夜を過ごした。ドア前の歩哨は午前5時前後に一度交替したようだ。
現在、時刻は午前8時に差し掛かろうとしている。
不意に部屋のドアが開き、ふたりの若い軍人が段ボール箱を持ち運んできた。
中には大きなパンと、人数分のペットボトルのミネラルウォーターと青リンゴが入っている。
どうやら俺たちの朝食のようだ。
ミネラルウォーターは硬度の高めな硬水で、日本では目にする機会はなかったが、この国に入ってからはよく見かけるブランドだ。パンはピザのような円形で、ふっくらとした厚みがあり、ちょうど小さめの座布団くらいのサイズをしている。これを人数分に切り分けて食べろ、とのことなのだろうが、当然のように刃物は渡されないので、手で等分に分けた。
ふたりの若い軍人のうち、ひとりがテレビのリモコンを持ってきた。
テレビの電源を入れると、はじめに音声が聞こえてから、映像が遅れて映し出される。
チャンネルはヤニベクスタン国営放送に合わせられた。
ニュース番組のスタジオだろうか。
それにしては、異様な光景が映し出されている。
迷彩服姿の男がニュースデスクの中央に座り、その背後にふたりの軍人が直立不動していた。
座った軍人の隣にはスーツ姿の男性キャスターがいて、緊張した面持ちでなにやらメモを読み上げている。
俺には理解できなかったが、室内のヤニベク人たちは、ううっ、とうなりのような声を上げた。
画面が切り替わり、市街地が映された。ヤニベクスタンに到着した初日にタクシーで通った、首都メナバト市内の目抜き通りだ。タクシーの車窓から、スマホをいじっている青年や、タブレットを操作している中年が見えたことを思い出す。まだ朝もやが残っていて視界が悪い。その見覚えのあるメインストリートを、戦車と装甲車が走っている。市民の姿はいっさい見えない。
美しかった街並みに、キャタピラの跡がついていく。
再び画面が切り替わると、また見覚えのある場所が映った。
メナバト国際空港だ。周囲には牧草地の広がっているのどかな空港だったが、ここにも戦車が入り込み、滑走路を封鎖している。屋台を引いて遊牧民の歌を謡っていた少年は難を逃れただろうか。
さらに画面は切り替わり大統領府を映した。
戦車の砲弾なのか、空爆によるものなのかはわからないが、建物の一部は崩れ落ち、その奥の建物はもうもうと黒煙を吐き出し続けている。加藤大使が言っていた国会議事堂にちがいない。
映像は圧倒的だ。
一連の映像からは、クーデターが成功したように見える。
俺は英国人記者のマーティンに尋ねた。
「プレジデント? プレジデント・マラト?」
「ノー。イエット」
あらためて整理するが、クーデター側の勝利条件は、大統領の拘束もしくは殺害だ。
生きて身柄を捕らえるほうが優先度は高いが、クーデター成功の最低条件としては「生死を問わず(デッド・オア・アライブ)」だろう。
大統領を捕らえ、彼に口を開かせず、情報統制をおこなうために、国際空港と国営放送を占拠する必要がある。映像からはクーデター側が国際空港、国営放送、大統領府を制圧したことがうかがえるが、それはクーデター成功のために「十分条件」であって、まだ「必要条件」は満たしていない。
同じ部屋にいる他の人質たちが、口を抑えて悲観的な表情をしているので、もしかしたらニュースデスクに座った軍人は、勝利宣言を述べている可能性もある。
だが、マラト大統領はまだ見つかっていない。
それなのに勝利宣言をしているとしたら、早く事態を収束したいクーデター側が焦っていることの証左ともいえる。
マーティンはテレビの前から離れる際に、俺の耳もとでボソリとささやいた。
「wifi、オーケー」
マーティンは、やはりヤニベク語を理解していた。
テレビの放送から、大統領が捕縛されていない情報を受け取り、俺に教えてくれたのだ。だから彼がほかのヤニベク人と言葉を交わさないのは、やはり意図があってのことである。
そして通信が可能であることを、瞬時に教えてくれた。
マーティンは現状を外部に伝えたがっている。それは彼のジャーナリスト魂のなせる業か。しかし、見張りがいる手前、彼はメールのテキストを作成したり、通話をすることは不可能だ。だから何か別の方法で、外に何かを知らせたい。俺に協力を求めているとしたら、その方法を一緒に考え、実行することなのだろう。
だが。
俺はここで逡巡する。
大統領の勝利条件は、無事な姿を国内外にさらし、このクーデターの不当性をアピールすることだ。マーティンが自身のSNSや自社サイトでこのクーデターを報道すれば、クーデター派を告発することになるので、それは大統領派に与する行動となる。俺はマーティンに加担し、このままマラト大統領に協力することになってもいいのだろうか?
ハッキリ言って俺は、マラト大統領のことをあまり気に入っていない。
だがそれは俺の個人的な感情だ。
クーデター派が武力行為で民意を踏みにじったのは許しがたい。
じゃあ俺は義憤にかられているのか?
……違う。義憤は、ないわけではない。しかし、それよりも俺はスレイマンの安否が気になっている。彼の身が安全であるとするのは、あくまで俺の推論だ。大統領側がこのクーデターを早期に鎮圧し、スレイマンの身柄を解放させるのが第一だ。
俺は一歩を踏み出す決断をした。
若い軍人がクリップボードにはさんだ書類に、ボールペンで何かを書き込んでいる。配給した食料などのチェックだろうか。俺はその軍人に近づくと、ボールペンを指さして、自分のメモ帳をズボンの左後ろのポケットから取り出し、右手の親指と人差し指の腹をくっつけて、書くジェスチャーをした。
その軍人は一瞬躊躇したが、俺の顔を見るやいなや、表情がパッと明るくなり、ペンを差し出してきた。
おとといの大統領との会見映像のせいで、俺はこの国で顔が知れ渡ったようだ。
俺はボールペンで、無地のメモ帳にイラストを描き始める。
写実的なスケッチではなく、あくまでマンガのタッチでのイラストだ。
彼らの目に慣れ親しんだ『ヴィスカウント』と同じタッチである。
はじめに配給されたリンゴを描く。
リンゴの絵を見せると、若い軍人たちはとてもにこやかに微笑み、互いに何かを話し合っている。
次に俺はペットボトルを描く。
軍人たちは俺が描いている様子を覗き見ながら、うまいもんだなぁ、とでも感心しているようだった。
次に、彼らが肩から下げている自動小銃を描き始める。
以前、資料を見ながら描いたことがあるだけに、リンゴやペットボトルと変わらないくらいにスラスラと描ける。ヤニベクの若い軍人たちは、俺が描く様子を見て、まるで手品でも見ているかのような反応をした。鉄製品特有の鋭角をなくし、できるだけ丸みを帯びたデフォルメにする。軍人たちは自分の持っている銃と見比べて、ただただ驚いている。
自動小銃を描き終えた俺は、ドア前に立つ見張りの兵士を指さして、彼の似顔絵を描き始めた。段ボール箱を持ってきたふたりは、明らかに羨望のまなざしでドア前の兵士をはやしたてる。蒙古ひだのある特徴的な垂れ目、幅広な鼻の頭を、俺はマンガ風のイラストで、デフォルメしていく。若いふたりは、やんやの喝采を送った。
ホテルで液晶タブレットで描いたルポと同様、俺は兵士を4頭身にデフォルメして描いた。俺はドア前の兵士に近寄ってイラストを見せると、ドア前の兵士は照れてはにかんでいた。
やがて若いふたりは、名残り惜しそうに段ボール箱を抱えて部屋から出て行く。
以降、俺は室内で何を描いていても、見張り兵から咎められないようになった。




