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 彼女は、私より一回り小さい少女の姿をとっていました。そして、生まれたての鹿のように震えた足でこちらに向かってきて、私にゆっくりと微笑みかけました。

「どう」

 ミヅモの口からかすれた声が漏れました。おそらく、自分の今の姿について聞いたのでしょうけど、私は何も言えませんでした。あまりにも、あまりにも急な展開と異常な事態に、頭が真っ白になってしまったのです。

 先ほど触れた通り、ミヅモからは赤い水――血が噴き出していて、しかも当然服なんて来ていないから、つまるところ全裸で。しかも、実はミヅモの変身は完全ではなかったのです。足や手はところところ黒ずんでいましたし、腕は左右に二本ずつで、極めつけは右目が二つでした。私は、どこにどこからどのように反応すべきか全く分からなくなりました。

「なにか へん?」

 ミヅモは私のところへ寄ってきて、心配そうに顔を覗き込みました。

「いや、……何も」

 おかしいところはたくさんあったのに、私はこう答えてしまいました。彼女はそれを聞いて嬉しそうに笑いました。

「しっ てるよ。人の血は赤い 手と足があっ て、 かみ、の毛 目、はな、口、……あと耳。うん できてる」

 そして、自分の姿を手で確認するようにして順に触っていきました。なんだか、聞いていると不安になりそうなしゃべり方だったのをよく覚えています。声自体は普通の少女なのですが、発音の仕方でしょうか、言葉の切り方でしょうか、とにかく歪でした。

「ミヅモ……なんだよね?」

 ミヅモは不思議そうに首をかしげながらも肯定しました。混乱の末に、私はミヅモの容姿についてはひとまず置いておいて、状況の確認から始めようという結論に至りました。

 それによると、やはりこれはミヅモが自主的にやったことでした。その理由は、この方が宗と一緒にいられるから、だと。私が母や一哉と一緒にいたことから、そう思ったのでしょう。飼われている犬や猫は自分のことを人間だと思っている、なんていうのはよく聞く話ですが、ミヅモは自分と私たちが違う存在であることを理解していたのです。とはいえ、ミヅモは仮にも神なのですから、犬猫と比べるのもおかしいですね。

 母の言う通り、彼女が記憶を失っていることも分かりました。ここに来る前は寒い場所でずっと眠っていたと、その程度のことしか覚えていないらしいのです。ただ、私がミヅモを復活させたこと、今のミヅモは私の心臓によって生きることができているということだけは分かっていると言って、彼女は「ありがとう」とお礼を言いました。私は、それを返してとは絶対に言えなくなりました。

 ある程度話が落ち着いたところで、私はミヅモの状態を改めて認識しました。彼女は相変わらず血塗れなのです。

「その血は、ミヅモの? 大丈夫?」

「うん 人のまねし てるだけだから これ、は血じゃない」

 それを聞いて、ひとまず安心しました。まあでも、それは彼女の様子からなんとなくわかっていたのです。問題は彼女がどうとかよりも、むしろ私が彼女の姿を見ていられないということでした。

「じゃあ……とりあえず、それを洗い流そうか。お風呂って分かる?」

「おふろ! うん、わかる。水を浴び る場所 ひとのことばは 少 し聞けば、知らなくても わかるようになる」

 ミヅモはそう言いましたが、それがどういうことかはいまいち分かりませんでしたし、正直なところ今も自信がありません。おそらくは、ですが、ミヅモは知らない言語でもなんとなく意味を理解できる能力を持っているようです。まだまともに日本語を聞いていないのにここまで話せていたのも、この能力によるものでしょう。当然ながらこれは彼女がその言葉の概念を知っている場合に限られるので、携帯電話や車などは説明しないと理解できないようでした。

 私が格子の扉を開けると、ミヅモはゆっくりと中から出てきました。そのときの彼女の顔といったら……。私が今まで見てきた中で、一番幸せそうな顔でした。そして勢いよく私に抱きついてきたのです。もちろん私の肌も服も偽の血で赤く染まりましたが、そんな彼女を責められましょうか。ただでさえ私は、異性からこのように抱きつかれるなんて初めてだったのです。

「やっ と会えた。シュウ すき」

 さらにはこんなことまで言うので、私は温かい気持ちで満たされました。そのまま彼女の頭をなでてあげると、くすぐったそうに「くひゅふふ」と笑いました。彼女の三つの目がどれもふにゃりと細まるのが、たまらなく愛くるしい。最初は不気味にも思えた彼女の三つ目でしたが、それですぐに慣れました。

そもそも、私は蜘蛛の姿のミヅモをずっと可愛がっていたのですから、今さら三つ目が何だという話です。強くしっかりと抱きしめてくる四本腕の感触もまた愛おしい。私は、姿の間違いを訂正するのはやめておこうと決めました。

 初めて地下室を出たミヅモは、何を見ても目を輝かせました。書斎の本、廊下の電気、洗面所の鏡、蛇口、洗濯機、タオル……。ただ、そのたびにはしゃいで飛び跳ねたりするので、どこもかしこも血だらけです。私はミヅモをお風呂場に入れた後すぐ、血を拭きに戻ったのですが、何秒もしない内にミヅモが私を呼ぶ声が聞こえたのでまたお風呂場に戻りました。お風呂場でたたずむ彼女はこう言いました。

「水は どこ?」

 彼女は、お風呂は知っていてもシャワーは知らなかったのです。

 私は迷いました。このまま「ここをひねればお湯が出る」と教えたところで、ミヅモが使いこなせるとは思えない。私が一緒についていた方がいろいろと安全です。しかし、女の子と一緒にお風呂に入るということには強い抵抗があった。彼女の本当の姿が蜘蛛だとしても、今も裸の彼女を見ているのには変わらないとしても、です。といっても、この気持ちはあなたには分からないかもしれませんね。

 最終的に、私はミヅモとお風呂に入ることにしました。一応上着だけ脱いでお風呂場に入り、シャワーについて教えました。しかし、いまいちピンときていない様子でしたので、私はお風呂用の椅子にミヅモを座らせて後ろに立ち、自分でシャワーを持ちました。シャワーの水がお湯になるのを確認してミズモにかけました。するとすぐ「ぎゃっ」と小さい悲鳴が漏れたので、慌ててシャワーを止めました。

「あつい びっくりした」

 ミヅモは涙声でそう言いました。お湯の温度を見ると37度となっていたので、一瞬おかしいなと思ったのですが、よく考えれば誰だって予期せずお湯をかけられたら驚きます。先の会話で分かるように、ミヅモは水が出ると思っていたのです。そこで、まず手のひらにお湯をかけて慣らしてあげました。しばらくすると「もうだいじょうぶ」と言うので、私は改めてシャワーをミヅモの頭にかけました。

 さらさらと血が流れていくと、彼女の褐色の髪や白い肌がまた見えてきました。彼女は「人のまねをした」と言っていましたが、少なくとも日本人をまねたわけではないようです。たぶん、欧州の方……それもイタリアとかスペインとか、地中海周辺の人に近い容姿でした。私の地理の知識が合っていれば、ですが。自信はありません。遥か昔に一度地球に来たという話ですから、そのときの記憶を使ったのでしょう。(記憶にはエピソード記憶と意味記憶という区分があって、記憶喪失によって失われるのは専らエピソード記憶、つまり思い出や出来事らしいですよ)

 あれだけの血を浴びたのだし、お湯で洗い流すだけでは不十分だろうと思い、私は軽くシャンプーでミヅモの髪を洗いました。女の子の髪の洗い方なんていうのは当然分からず、普段自分がしているように洗いました。ミヅモの髪は肩につかない程度と短かったので、まだなんとかなりました。

 一応言っておくと、身体を洗うのはミヅモに任せました。ボディソープとボディスポンジの説明を懇切丁寧にして、私はお風呂を後にしました。そして今度こそあちこちの血痕を拭いて回りました。ただ、身体を洗い終えたミヅモが水浸しのままそこら中を歩いたので、私は再度この作業を行うことになります。

 ミヅモにしっかりと身体を拭いてもらったところで、次は服です。彼女は四本腕ですから、どうしたものかとしばらく悩みました。その末に、私の普段着ているタンクトップを着てもらうことにしました。ミヅモからすればかなり大きいサイズですし、きっと四本腕も通るのではと思ったのです。私は彼女を自室に案内しました。

 ミヅモは私の部屋に入るとにわかにはしゃぎだし、ベッドに飛び込みました。「やわらかい!」と喜び、しばらくごろごろしていました。その間に私はタンクトップと、もう使わなくなった小さめの下の寝間着を引き出しから見つけました。ミヅモは服の概念こそ知っているものの着たことはないらしく、服を着るだけで結構な時間がかかりましたけど、タンクトップは見事彼女の四本腕を通しました。

 こうして、とりあえずは目のやり場に困ることはなくなったものの、私はそれからどうするか考えていませんでした。このまま部屋に置いておくというのもまずい気がするけれど、かといってまた地下室に閉じ込めるのも違う気がする。いっそ何も考えずに寝てしまいたいけれど、ベッドはミヅモが占領している。

 ……母に相談してみよう。結局、私は自分で判断するのを避けました。でも、このときはそれが最善だと思っていたのです。母だって人間の姿を見ればミヅモのことを無下にはできない。この家にはまだ空き部屋がいくつかあるのだから、そのどれかをミヅモに貸すくらいどうということはない。……それで、ミヅモは正式にこの家の地上で暮らすことを認められる。ミヅモが家族になる。そのような夢を見ていました。そんなはずないのに。




「地下室に戻してきなさい」

 聡明なあなたなら予想はついたでしょうが、仕事から帰ってきた母の答えはこれでした。当然です。人間の姿になれば安心だと楽観していたのは私だけでした。ミヅモが神であること、ミヅモが私の心臓を奪ったことは変わらないのです。

 こんな少女を地下室に閉じ込めるなんて、と私が言うと、母は「少女じゃない。少女の仮面を被った怪物にすぎない」と返しました。私は反論できませんでした。私はそのことを一番よく知っているのです。あの蜘蛛だったミヅモが形状を変えて人間になる、さながらスプラッター映画のようなその光景をこの目で見たのですから。

 ミヅモも母の剣幕に委縮して、何も言えないでいました。僕が何か言わなければならない、と頭を回転させていると、ミヅモは母に背を向け、とぼとぼと歩き始めてしまいました。どこへ行くの、と聞くと、「ちかしつ」と答え、そのまま書斎へ入っていきました。僕は彼女を追いかけました。

 ミヅモは、格子の扉の前で立っていました。扉を開けようとしているようでしたが、彼女は鍵の開け方を知らなかったのです。

「どうしてあんな簡単に諦めるんだよ。ミヅモだって、ここから出られたときは喜んでたじゃないか」

 僕が問うと、彼女は悲しげに僕を見つめました。

「だって、  ……シュウ 困っ た 顔してた」

 ミヅモは彼女なりに、僕に気を遣ってくれていたのです。僕が考えていたのとは、まるで逆の立場。何も言えない僕に代わって、彼女が波の立たない方法を選んでくれた。彼女は僕よりもずっと、決断できる子だったのです。

 彼女は扉に手をかけて言いました。

「中に 入れて」

 こんなに悲しい「中に入れて」があるでしょうか。

 僕は結局、ミヅモの言う通り、鍵を開け、彼女を中に閉じ込めました。母に何も言えず、ミヅモにさえ何も言えず、結果としてただ二人の言う通りに動いているだけの自分が、本当に情けなかった。

「楽しかっ た。ちょっ とだけシュウと一緒にいられ て。おふろ と、ベッドも」

 格子越しに彼女が言いました。

「ごめんね。またここに来るから。今度はもっといろんな物を持ってくるよ」

「うん ありがとう」

 そのときの彼女は、とても大人びた笑みを湛えていました。



 それから僕は、地下に行くたび何か持っていくようになりました。お菓子のバリエーションも増やし、ミニカーやぬいぐるみなどの玩具に、漫画、ゲームなども。その中で、彼女は目があまりよくないことも知りました。おそらく、このことも彼女の人への変身が完全ではなかった一因なのでしょう。

 このことが判明したきっかけは、文字の習得の困難にありました。彼女はあっという間にたくさんの言葉を覚えていきましたが、文字は一切覚えられないのです。彼女いわく、全部同じに見えると。最初はまあ、言語習得と識字は違うか、くらいに思っていたのですが、ある日さすがにおかしいと思い、手作りで簡単な視力検査表を作ってやってもらったところ、結果は散々でした。試しに安い眼鏡を買ってかけさせてみましたが、結果は同じ。しっかり検査をして、自分の目にあった眼鏡を付けられれば違ったのかもしれませんが、さすがにそんなことをするわけにもいかず、彼女の視力については諦めることにしました。

 それ以来、僕は彼女に本を読み聞かせることが多くなりました。そのときが一番、ミヅモが楽しそうな顔をするのです。また、これによって彼女が人並みの常識と倫理観を身につけてくれたら、あるいは普通に生活することができるようになるかもしれない、という狙いもありました。

 あるときは、彼女の新しい服を買ってあげました。女性の服を買うのは少し勇気がいりましたけど、さすがにいつまでも僕のタンクトップと寝間着ではいけないと思ったので。買ったのは肩紐型で藍色のワンピースです。やはり一人では着られないようだったので、久しぶりに僕は格子の内側に入りました。タンクトップと寝間着を脱がしてワンピースを着せると、見違えるように女の子らしくなりました。

 ミヅモは、見かけ相応の女の子らしく喜び、周りをぐるぐると歩きました。かと思えば、僕の方を振り向いて「にあう?」と聞いてくる。僕は当然「似合うよ」と答える。すると彼女はくひゅふふ、と笑う。幸せな時間でした。

 いつも通りミヅモの頭をなでてあげると、彼女は目を細めました。けどいつもと違い、彼女は突然「シュウ」と僕の名前を呼びました。なでているときに彼女が何か言うのは初めてだったので、少し驚きつつも「どうしたの?」と、なでるのをやめて顔を覗き込むと、







 ――ミズモはいきなり僕にキスをしてきました。僕は驚いて硬直しました。彼女は僕とは対照的に、柔らかな表情をしています。

「シュウが 教えてくれた。キスは、好きな人に する」

 僕は硬直したままでした。

 言うまでもないですが、これが僕の初めてです。

 僕は硬直していました、硬直していましたが、頭の中は今までにないくらい忙しなく動いていました。普段は難しい事態に直面すると怠けがちの僕の頭ですが、このときばかりは、思考を停止してはならないという意志が勝りました。だって、ここで思考を停止するとミヅモを傷つけてしまいますから。

 僕は、ミヅモの認識を「家族」から「異性」に切り替えるレバーが倒れないよう、必死になっていたのです。今までもずっとそうでした。一緒にお風呂に入ったときも、服を着替えさせたときも。でもそのときは、「ミヅモは僕のことを家族だと思ってくれている」という意識があったからこそ、踏みとどまれたのです。そのタガが外れてしまった。

 さらに、ミヅモに着せたワンピースは、彼女の四本腕を考慮して緩い肩紐型にしたために、上から眺めると、胸が、見えてしまう。

 僕は何も考えられなくなりました。

 あまり詳細に書いたところで不毛なだけですから、結論だけ書くと、僕はミヅモを襲いました。そして彼女は、それをあっさりと受け入れました。それ以降、僕とミヅモは度々行為に及ぶようになりました。彼女は、その行為をとても気に入ったようで、貪欲に僕を求めました。彼女自身が喜んでいるのだから、という口実を振り回し、僕もまたそれに応えました。

 思春期の男と貞操観念が存在しない少女とがずっと一緒にいれば、遅かれ早かれこうなるのが当然だったといえるかもしれません。






 ……そんなの、言い訳にすらなりませんね。

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