化
それからというもの、夕食の残りや買ってきたお菓子をミヅモに与えるようになりました。ミヅモは私が持ってくるものなら何でも食べました。そして、嬉しそうに鳴くのです。たまに「邪神」ということばが心に引っかかりましたが、当のミヅモは姿こそ怪奇そのものですが、とてもそのような崇高な存在とは思えませんでした。刷り込みに近いものなのか、私に懐いている節さえあったのです。ものを食べると喜ぶし、私が撫でると喜ぶ、それどころかある程度ことばを理解しているようで、何か褒めたりするとそれもまた喜ぶようでした。
ある日私は、もっとミヅモに近づいてみたくなりました。というのは、つまり、格子の存在が煩わしくなったのです。ミヅモは格子から出せるものといえば足の先くらいしかありませんから、私がミヅモに触れられるのはそこだけです。私はそれが不満でした。
格子のこちら側はある程度生活ができるような空間になっていました。机と椅子、空きのある本棚、それにベッドまで。そのベッドだけはやけに新しく、部屋の中で浮いていました。まあ、それは置いておくとして、そのサイドテーブルには赤錆びた鍵が置いてあったのです。それが格子の鍵であろうことは想像がつきました。
その鍵を格子の鍵穴に差し込むと、同じく錆びきった格子は意外なほどあっけなく開きました。私はついにミヅモと同じ空間に足を踏み入れたのです。ミヅモは、いつもとは違う私の行動に驚いたのか、警戒したようで部屋の隅に寄ってしまいました。「大丈夫だよ」と両手を広げると、ミヅモはおそるおそる私に近づいてきました。そしていつものように、僕の目の前に足を伸ばしてきました。私が撫でてあげると、静かに足を引っ込めて、それきり動かなくなりました。
格子一枚を取り払っただけで、ミヅモの姿は随分と大きく見えました。テレビの向こう側にあった東京タワーを初めて間近で見た時と同じような心境です。もう完全に慣れたとばかり思っていましたが、少しだけ怖いと感じました。どうやらミヅモは人の感情にとても敏感なようで、どこか寂しそうにしていました。悪いことをしてしまったと後悔していると、ミヅモはぐいと頭を下げてきました。少しでも自分を小さく見せよう、ということだったのでしょう。私は申し訳ない気持ちでミヅモの頭を撫でました。
それから数日後、私はそれとなく母に「父が書斎で何をしていたか知っているか」という旨の質問をしました。上でも触れていたように、ミヅモのことを話してみようとようやく決心したのですが、いきなり本題をぶつける勇気は私にはなかったのです。
しかし母は、それだけで何かに気づいたようで、「やっぱり、そういうこと」と呟きました。どういうことかと聞くと、彼女は複雑な表情で私を見ました。
「復活させたのね、あれ」
母は、やはり父の野望を知っていたのです。
話していくうちに、母が父に手放しで賛同しているわけではないということも明らかになりました。母は黒魔術が単なる父の妄想ではないことも知っていた。それどころか、黒魔術自体には肯定的な態度のようでした。しかし邪神の復活に関してだけは父に反対していて、父が邪神復活のための生贄になろうとしていること、自らの野望を私に継がせようとしていることについては随分と口論になったそうです。
父と母でどのような意見の相違があったのか、母はそこそこに詳しく説明してくれましたが、あまり理解はできませんでした。黒魔術に関する背景知識があればまた違ったのでしょうが。とにかく、母の意見を簡単にまとめてみると、こういうことです。
・邪神復活の儀式は時代が流れるにつれて誤解・曲解が増え、原典通りの正しい方法が書かれた魔導書は世界にいくつもない。それゆえに、いまや儀式が成功する確率は天文学的数値になっている。
・そして万が一儀式が成功したとしても、それで世界平和が訪れるとは到底思えない。一般に「邪神」と呼ばれているのは伊達ではなく、邪神は人間に災いしか与えない。
・そんなことに自分の命を賭けること、子どもの人生を巻き添えにすることを受け入れられはしない。
イメージ的には、父がタカ派で母がハト派だったと、そういうことなのでしょう。
最終的に争点となったのは成功確率の低さでした。私の身の安全ではなかったことに私は少なからずショックを受けましたが、まあ、それはともかく、父自身はその方法が原典通りの方法であるという確信があったようです。しかし母はそれを信じられなかった。そして次のような妥協案に至ったのです。
父の命は、父だけのものだから、自分のために命を使う権利がある。だから儀式の生贄として父が命を捨てようがそれを止めはしない。しかし子どもにまでその道を強制してはならない。黒魔術について、儀式について知ったうえで、宗に最終的な選択を任せる。
父は復活の儀式を成功させ、私はミヅモを受け入れた。ここまで父の望み通りにいくなど、母は予想だにしていなかったそうです。予定では、父が死んでから私が落ち着き始めた頃に、母が儀式について説明をする、という流れだったらしいのですが、母は私に説明をする気などなかった。
そもそも、公正に私への判断だけに任せるつもりなら、父が死ぬ前に二人で私に説明をすればいい。父が死んでから説明、という形をとったのは母の策略でした。すでに父は儀式を進めて心を蝕まれ、正常な思考ができない状態になっていた。それを利用し、自分が有利となるような条件を呑ませたのです。いえ、呑ませたつもりだった。しかし父は父で手記を用意して、私を誘導した。私が見たくなるよう、そして母には見えないよう魔術をかけていたのだろう、と母は吐き捨てるように言いました。
ミヅモは私の心臓を得た。それにより、私という存在は生物というより、ミヅモの依代に近い存在となっているのだと母は言いました。そして、私が普通の人生を歩むことは、もう不可能に近いと。邪神に魅入られてしまえば、あとどれだけ生きられるか。私は、ミヅモがそのような恐ろしい存在とは思えないと反論しました。でも、「人外に取り憑かれた者は皆そう言う」と返され、私は何も言えなくなりました。そのようにして悪者に騙される物語を、私はいくらでも挙げられます。それでも私は、自らの運命を実感できませんでした。
母は、邪神から何か授かったかと尋ねてきました。私は心当たりがなく、強いて言えば粘液くらいしか受け取っていなかったので、素直に「何も」と答えました。すると母は、いささか驚いた顔をしました。母にとって、それは奇妙なことだったようです。
どの邪神も大抵、召喚者に対しては復活の礼に力を授けるのだそうです。邪神は気分屋、というか人間では計り知れないような思考をする神が大半で、授ける力にはバラつきがあるらしいのですが、運次第ではそれだけで国を支配できるような力も授かるのだとか。父はそれによって世界平和を実現しようと思っていたそうなのですが、とにかく、私には何の力も授かったような感じがしない。
少し考え込んだあと、母は「邪神に会わせてほしい」と言いました。言い伝えにそぐわない部分もあるし、このまま私が邪神と一緒にいても大丈夫か判断する必要がある、とは言っていたものの、個人的な好奇心が強く混じっているであろうことは私から見ても明らかでした。(この場合、信仰心と言った方が適切でしょうか)
私はミヅモが私以外の人間にどういう反応を示すのか不安に思いましたが、断りはしませんでした。あの子がそう簡単に人に危害を加えるとは思えませんでしたから。私は地下室へ母を案内しました。
地下室に母が入ったときでした。急に強烈な甲高い音が部屋中に反響したのです。私も母も咄嗟に耳を塞いでうずくまりました。だから、それがミヅモの鳴き声だと気付くのにはしばらくかかりました。私は必死で鳴くのをやめるよう訴えました。10回ほど叫んだあたりで、ようやく声が小さくなっていきました。私の声が届いたからか、単純にミヅモが疲れたからか、それは分かりません。
音が止み、ふらつきながら立ち上がった母は、そこで初めてミヅモの姿を見ました。ミヅモは、私が格子を開けて入ってきたときと同じように部屋の隅にいました。怯えているようでした。それを見た母の最初の一言は、
「なにあれ」
でした。
たぶんあれが母の言う邪神だと告げると、母は信じられないというふうに愕然とした表情をしました。
「確かに見た目は伝説と一致する……けど、人間に怯える神なんてありえない」
時が止まったように誰も動きませんでした。埒が明かないので、私はミヅモを呼びました。ミヅモはゆっくりと、おそるおそる私たちに近づいてきました。それを見た母はまた驚きました。
「神を手懐けてるの?」
私は否定しました。懐いてくれている、という感じはありましたが、別にそれで私が何かしようというわけではありませんでしたから。まあ、確かにこのときはペットとして扱っている部分がないわけではなかったのですが。
母は目の前に来たミヅモを見つめながら、難しい顔で考え込み始めました。何を考えているのか気になって母を見ていると、やがて母は私にミヅモの伝説を教えてくれました。
それによると、ミヅモは邪神の中でもかなり上位の存在なのだそうです。しかし、遥か昔ミヅモは一度この地球に降り立ち、罪を犯した。その罪の内容は本によってバラバラなのですが、とにかくミヅモは最上位の神々の怒りに触れてしまった。それ以来、太陽系のある星の内部で氷漬けにされていた。
地球に残っているどの本でもミヅモに関する記述は少ないのですが、現存する神々の中でほぼ間違いなく最も地球近くにいる邪神だからか、復活を望む崇拝者は多いのだとか。
悠久の封印で記憶と力を失ってしまったのかもしれない、というのが母の推測でした。母は露骨に興味を削がれたような顔をしました。同時に、ミヅモを見る目が厄介者を見るような目に変わったのが分かりました。あんまりな手のひらの返しように私は多少なりとムッとしましたが、なんとか堪えました。だって、母からしてみればそれは当然のことです。何をするか想像もつかない怪物が地下にいるのですから。
母は私に言いました。懐いているみたいだから、邪神は私に任せる。定期的に様子を見てほしい。決して他の誰かに見せてはいけない。そして、危ない気配を感じたらすぐに逃げて自分に報告するように、と。一応私の身を案じてくれているようで、私はほっとしました。でもそれと同時に、もしミヅモが完全な状態で復活していたら、母は私をどうしていたのだろうという考えがよぎり、少しぞっとしました。
母は、ミヅモを再び封印状態に戻す方法を探してみると告げました。私はそれを拒みましたが、いい加減にしろと叱られました。
それから数日、私はミヅモのいる地下室に入り浸りました。いつ母が封印の方法を見つけ、別れが来るか分かりませんでしたから。別れが近いとなれば、これ以上情が移らないよう距離を取る方がよいであろうことは私も分かっていました。でも、もう既にそういう段階ではなかったのです。
ある日の朝、また格子の向こう側でミヅモと戯れていると、突然私を呼ぶ声が聞こえてきたので、私は慌てて格子から出て鍵を閉めました。もちろん、声の主は母です。懸命に取り繕いましたが、やはり格子の扉を開け閉めする音は聞こえたようで、「さすがに格子の中に入るのは危ないからやめなさい」と軽く叱られました。その後、一哉が来たと伝えてくれました。あなたも知っているかもしれませんが、彼は基本的に事前の約束なく遊びに来ます。
彼はいい奴ですが、あちこちに気を回せるタイプではありません。しかし、この時はさすがの彼も気を遣ってくれていたのだと思います。遊びに来たという割には随分と複雑な表情をしていたのを覚えています。
玄関まで来たはいいものの、正直なところ私はそのとき一哉と遊びたくはありませんでした。もっとミヅモと一緒にいたかったのです。とはいえ、こんな顔をして遊びに来てくれた友人の思いを無下にするわけにもいかず、私は一哉を家に入れました。母はそのすぐ後仕事に出たので、一哉と二人になりました。なぜだか、まるで母の客人と対面してしまったときのように気まずいと感じたことを覚えています。
私はとりあえず彼を居間に通しました。私と一哉が遊ぶといえば、大抵ゲームです。居間にあるテレビゲーム機を起動して、しばらく格闘ゲームで対戦しました。勝率は過去最悪でした。こういう場合決まって一哉は私を挑発してくるのですが、今回はただばつが悪そうに笑うだけでした。たぶん彼は、その原因が父の死にあると思っていたのでしょうが、もちろんそうではなく、ただ単にミヅモの様子が気になって上の空だっただけです。ですが、さすがにそれを言うわけにもいかず、二人して重い気持ちを引きずりながら対戦を続けました。
7回か8回ほど連敗したところで、唐突に一哉がコントローラーを置きました。
「なあ宗、俺がこんなこと言うのもなんだけど、あんまり引きずるなっていうか……いや違うな、まあ、元気出せよ、な」
いつもの彼からは想像もできないたどたどしい言葉に、私は限界を感じました。これ以上の罪悪感は背負えない。母がいないのもあり、私はつい「違うんだ」と言ってしまいました。不思議な顔をする一哉に、私はミヅモのことを説明しました。
私も冷静ではありませんでした。最近父を失ったという人が、いきなり邪神がどうのなんて言い出したら誰だって頭がおかしくなったのだと思います。場は形容しがたい混乱の極みに陥りました。とにかく病院へ行こうと私を引っ張る一哉をなんとか地下室に連れてきました。
ミヅモは、あのときのような高音こそ出しませんでしたが、やはり若干怯えている様子でした。そして、よく考えなくても当然のことでしたが、一哉はその場で尻餅をつくほど怯えました。しかしここまできたら、もう後戻りはできない。せめて、ミヅモは危険な存在ではないことだけは知ってもらわなければ、一哉が何をするかわかりません。
私は改めてミヅモについて説明しました。本来は神であること。今は記憶を失っていて自分に懐いてくれていること。大人しく、人に危害を加えるようなことはしないこと。無論、自分がミヅモによって命の危機に晒されていることは言いませんでした。
一哉はなんとか納得してくれたようで、私を病院へ送ることとミヅモの存在を公にすることは諦めると約束してくれました。しかし気分が悪いといって、その日はそれで帰りました。私は、自分がとうとう見限られたのだと思いました。もう彼が私と遊んでくれることはないのだと。私は一哉を見送ってから泣きました。まあ、これは結局、私の恥ずべき疑心暗鬼にすぎなかったのですが、そのことはまた後に記しましょう。
重要なのはここからです。一哉が帰って、私はまたミヅモのもとへ行きました。ミヅモは私の姿を見るとゆっくりと近寄ってきましたが、部屋の真ん中あたりで動きが止まりました。どうしたの、と声をかけても反応はありません。こんなことは初めてで、私は戸惑いました。哺乳類とは違って呼吸をしているかどうかも分かりづらいので、ひょっとすると死んでしまったのではと心配しました。そんな中、急にミヅモの身体が縮んでいくものですから、私はパニックを起こしました。届かないと分かっていながら、格子から手を差し伸ばし、ミヅモの名を叫びました。でも、事態は私が想像していたようなものでは全くなかったのです。
体の収縮は私より少し小さめくらいのところで収まりました。そのときの姿は、潰された蜘蛛そのものでした。しかし私が悲嘆にくれるより先に、ミヅモの身体に変化が起こったのです。
黒一色だったミヅモの身体は、ふっと白に近い透き通るような色に変わりました。次に、なんともグロテスクな音……「ごちゅっ」とか「ぶしゃっ」という音とともに、身体の形が見る見るうちに変わっていきました。その音に合わせミヅモからは赤い水が噴き出し、いつの間にか身体の上部にはぞわぞわと褐色の糸のようなものが何千何万と生えていました。
察しはつくでしょうか?
数秒後、ミヅモは人の姿となって私の前に立っていたのです。