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 桜の花びらはすっかり散ってしまいましたね。葉桜はどうにも好きになれなくて、私は憂鬱な気分が抜けません。あなたは、お元気ですか。

 とはいえ、あなたは元気なのは知っています。引きこもっていても、窓からあなたの姿を見ることはありましたから。

 このご時世に手紙などというものを受け取って、困惑していることと思います。手紙の相手が引きこもりの私なら、なおさらのことでしょう。でも、誰かに知ってほしかったのです。この一年で私に何があったのか。そして、どういうわけか、私がこのことを伝えるとしたら、一番ふさわしいのはあなただと思った。両親も、親友も、今はいませんから、私の交友関係の狭さを知るあなたならば、それは自然と思えるかもしれません。しかし、この手紙を読み終えた後、あなたは絶対にこう思うでしょう。なぜ私にこの手紙を送ったのか、と。先ほどの通り、私にもそれは分かりません。もしかしたら、私はあなたが好きだったのかもしれません。あの子に、ミヅモに出会っていなければ、私はあなたによって救われていたのかもしれません。でも、そんな想像は無意味です。事実私はミヅモに出会ってしまったのだし、第一私はそのことに心から感謝しているからです。

 前置きが長くなってしまいました。ここ最近、ひらがなさえまともに書いていませんでしたから、文章の乱れはこれからもあると思います。許してください。

 私がこれから述べるのは、ミヅモとの出会い、親友・一哉の死、母の死、そして私の死です。もちろん私はまだ死んでいません。これから死にます。ですが、これを遺書と思って読んでほしくはない。あくまでこれは、私の告白であり、私があなたに向けて送る手紙です。それを忘れないでください。ですから、これは警察に渡さないで、自分で持っていてください。面倒ごとが嫌であれば、いっそ燃やしてしまって構いません。とにかく警察には渡さないでください。私は、社会から一方的に頭のおかしな精神異常者だとみなされたくない。いや、ある意味でそれは事実なのですが、私を知らずにこれを読んだ人々が思うような意味では決してないと断言しておきます。



 さて、いいかげん本題に移りましょうか。

 ご存知の通り、私は一年前の夏休みに父を事故で亡くしました。あなたはきっと、それが私の引きこもりの原因だと思っていたでしょう。でもそれは根本の原因ではありません。父の手記を開いてしまったことが、すべての原因なのです。

 読書好きの彼は、休みの日になると決まって書斎に閉じこもっていました。私は、彼が何をやっているのかとても不思議でした。書斎から出てきた彼は、いつも疲れ果てた様子だったからです。生気のない顔でもそもそと夕食を噛む彼の姿は、異様としか言いようがありませんでした。でも母は気にしていない様子でしたから、私もそんなものかと思い込むようにしていました。あの手記を見つけるまでは。

 夏にしては涼しめの夕暮れ時でした。それは書斎机の引き出しに平然と入っていました。ふと父が生前していたことが気になって、書斎に入ってみたときです。とはいえ、最初は読もうとは思いませんでした。何せ、家族とはいえ人の手記ですから。ですが手記の表紙をよく見てみると、そこには「宗へ」と書かれていたのです。父は五十代で、身体もすこぶる健康でした。まだ己の死期を悟るような状態ではありません。何が何やら分からないまま、凄まじい胸騒ぎを抑えて私は手記を手に取りました。

 そこに書かれている内容を見て、私はこれを読んだことを激しく後悔しました。そこには、彼の黒魔術への熱意がつらつらと書かれていたのです。魔術をもってすれば世界平和が実現するだとか、太古に封印された神を復活させたいだとか、その意志をいつか息子、つまり私に継いでほしいだとか。私は急に、自分が死者を冒涜しているような気分になりました。こんなちゃちな妄想は、本人の死とともに永遠に葬り去られるべきものだったろうと。それでも、「宗へ」と書かれていましたから。私は最後まで一応は読むことにしました。今思えば、このときの妙な礼儀が私のすべてを狂わせてしまったのですね。

 手記の内容は、ページを進めるごとに物騒になっていきました。どの魔術にはどの動物の心臓がどれほど必要だとか、神を復活させる儀式にはどうしても人間の魂が必要だとか、しかし誰を犠牲にすればいいのかだとか。彼が悩みながら書いたのであろう「儀式」の贄になる候補者リストには、小さく私の名前も書かれていました。それを見たときは危うく腰を抜かしそうになりました。私はそこでやっと、この手記の危険性に気づいたのです。

 思わず、手記を放り投げました。そして、背筋を凍り付かせながら辺りを見回しました。死角から頭を殴られ、贄として怪しげな礼拝堂に連れ込まれる自分をありありと想像してしまったのです。でも、これを書いた父はもういない。少なくとも、自分が父の狂信を間近で認識する機会はもうない。冷静になってそれだけ確認できた私は、気を取り直して手記を手に取りました。しかしそのすぐ後、私はまた手記を放り投げることになります。

 手記の最後には、震える文字でこう書いてありました。「私が贄となろう。私が主の肉となる。だから宗、どうかお前が主の依代になってくれ。このような大役、お前に任せきってしまうこと、心苦しく思う。だが分かってほしい。主の復活により、この世界は平穏を取り戻す」

 私の精神は限界を迎えました。あの父が、真面目で聡明で、愛していたかと問われれば分からないけれど、少なくとも心から尊敬していたあの彼が、なぜこうまで狂ってしまったのか。私は手記を壁にぶつけて泣きそうになっていました。



 しかし、ぶつけた拍子に手記から一枚の紙が落ちました。まだあったのです。ここまで来たらと、私は動悸が収まるのを待ってから紙を拾いました。紙にはある図が書かれていました。少し考えて、その図は書斎の間取り図だと分かりました。そして、その図の隅には×印がつけられていた。その印が何を意味するのか、混乱した僕でもすぐに気づきました。

 おそるおそる×印のついた場所に行き、注意深く観察してみると、床に小さな突起のようなものが見つかりました。その突起をつまんで上げると、下に取っ手が隠れていました。取っ手を引くと、下には階段がありました。あの、幼いころにあったらいいなと妄想していた、家の地下室。それがまさかこんな、考えうる限り最悪の形で実現するなんて、誰が予想できたでしょうか。

 地下へ続く階段は黒一色に覆われていました。まるで質量をもった黒が書斎の光を取り込んでいるかのように思えました。今思えば懐中電灯でも持って行けばよかったのだと思いますが、私は憑かれたように階段を下っていきました。横幅は狭く、勾配はきつい、本当に人が使うことを想定しているか怪しいような階段です。それが予想の他長く続きました。一段下りるたびにギィギィと音が反響し、それがまるで自分の心の音であるかのような錯覚に陥りました。

 やがて階段が終わり、床は頑丈なものに変わりました。壁をついていた手にスイッチ状の突起が当たったので押してみると、いくつかの古ぼけたカンテラがぼうっと辺りを照らしました。私の目に飛び込んできたのは、部屋を二つに分ける巨大な格子、そのこちら側に散乱している動物の髑髏、そして、向こう側にある巨大な赤黒い円。覚悟していたとはいえ、やはり私は震えました。父は私が思っていたよりも遥か深い闇に踏み入っていたのです。

 赤黒い円の中には奇妙な模様が描かれていて、私はなぜだかその模様に釘づけになりました。その模様の下で何かが蠢いているような、私を見つめているような気配。果てしなく不気味でしたが、不思議と危険は感じませんでした。まるで悪霊に頭を撫でられているような印象です。はたしてこの状況を受け入れることが吉か凶か、まるで分からない。



 そのときでした。何もない円の中から、黒く巨大な細いものが出てきたのです。それも、三本。それは円の外まで伸びて床をがつっと突きました。次に円の中から出てきたのは、その三本を生やした頭のようなものです。といっても、もちろんそれは人間のものではありません。

 非常に形容しづらいですが、それを例えるならば、「三本足の蜘蛛」とでもいいましょうか。蜘蛛といえば八本足なので、この例えが適切かは怪しいですが、これが一番近い気がします。そうですね、あまりこのような言い方はしたくありませんが、子どもに足をもぎ取られ、三本足になってしまった蜘蛛を想像してみてください。それがゾウの二倍はあろうかという大きさで現れたのです。私の恐怖が理解できるでしょうか。

 私は息の吸い方も忘れて、その場に崩れ落ちました。危険な感じがしないだとか、そんなことでかき消せるような恐怖ではありません。自分より強いもの、自分より巨大なもの、自分では理解できないものに対する、単純で絶対的な恐怖が私を丸呑みにしました。

 蜘蛛の顔がこちらを向き、赤い宝石のような眼が私を捉えました。その瞬間、蜘蛛は口を開いたかと思うと、その内部から細い触手を何百と出してきました。それはゆっくりと私に向かって伸びてきている。しかし私には逃げる気力が残っていませんでした。

 触手は、そのままたやすく私の身体に入っていきました。両親との、そしてあなたや一哉との思い出が、頭の中を一気に駆け巡りました。でも、不思議なことに痛みがない。意識もはっきりとしている。少し冷静さを取り戻しかけたところで、ぞるりと身体から赤黒いものが出てきました。それは私の恐怖を表すかのよう激しく脈打っていた。触手は、私の身体から心臓を抜き取ったのです。

 心臓は触手とともに蜘蛛の口内に運ばれていった。まるで、元々そこにあるのが正しかったかのように。そしてすぐ後、妙な音が鳴りました。音にするのが難しいですが、あえて表してみるなら、くひゅうるるる、という感じです。それが蜘蛛の鳴き声のようでした。そして今度はその足を私の方へ伸ばしてきました。その細い足は格子を通り、私のすぐ目の前まで来ました。私はまた何かされるのかと思いましたが、足は私の目の前で止まったままです。そして、何かを待つようにじっとしているのです。私には何が何やら分かりませんでした。

 足をよく見ると、それは紫がかった薄い粘膜で覆われていました。強い酸なのではないかと私は勘ぐったのですが、床に垂れても何も変化はありませんでした。ですので、というか、まあ、どういうわけか、私は蜘蛛の足に触れてみようと思いました。触れると案の定ベットリと粘液がついてしまいましたが、蜘蛛はくひゅーるるるぅ、と一際大きな鳴き声を上げると、足を引っ込めました。満足してくれたようでした。まだ蜘蛛に対する漠然とした恐怖はありましたが、このときからもうすでに愛着がわき始めていたのも確かです。不思議なことですが、心臓を取られたことなどすっかり忘れていたのです。



 その後蜘蛛が私の手の届かない場所でじっと動かなくなって、私はようやく我に返りました。これをそのままにしておくわけにもいかないが、ここにずっといるわけにもいかない。何はともあれ、いったん上に戻ることにしました。書斎から見える空はもうすっかり暗くなっていて、母が夕食をつくっている音が聞こえていました。隠し扉を閉めて取っ手も隠すと、何のことはない、いつもの書斎です。長い間白昼夢を見ていたのではないか、と思ったのも束の間、私は自分の手についた粘液に気づきました。

 母に見つからないように洗面所へ行って洗い落としました。正体の一切分からない粘液を落としていると、先ほどの恐怖が実感を伴って蘇ってきました。さすがにまた崩れ落ちることはなかったものの、息が荒くなりました。そこでやっと私は、自分の心臓の音が一切しないことにも気づきました。

 居間に出てくると、母はいつも通りの態度でいて、私はとても先ほどあった出来事を話す気になれませんでした。母はこのことをどこまで知っているのか。思えば確かに不思議でした。父が亡くなったとき、確かに母は深い悲しみに暮れているようでしたが、しかしどこか覚悟の上であったかのような態度でもあったのです。そのときは、強い人だな、と思ったくらいで怪しむことはなかったのですが、こうなってしまえば話は別。いつか確かめなければならないと考えつつ、味のしない夕食を噛みました。

 翌日の午後になって、私は蜘蛛の様子が気になってきました。母は仕事に出ていたので、私は居間に置いてあるお菓子を適当にいくつか持ってまた地下に行きました。お腹を空かせているかもしれない、と思ったからです。心臓さえ奪われておきながら、なぜ私が喰われるとは思わなかったのでしょうね。人間の驕りか、はたまた既に精神がおかしくなってきていたのか、定かではありません。

 私が地下に来ると、蜘蛛は待っていたかのように早足でこちらに寄ってきました。また足を伸ばしてくるので撫でてやると、例のように鳴きました。

「お菓子、持ってきたよ……食べる?」

 蜘蛛に言葉が通じるかは分かりませんでしたが、一応そのように呟いてから蜘蛛にお菓子を見せました。すると蜘蛛は、口から触手を出して器用にお菓子を取っていきました。次々と取っていくので、きっと気に入ってくれたのだろうと私は思うことにしました。また少し蜘蛛への愛着が湧いたのを自覚しました。

「君のこと、なんて呼べばいいかな」

 そんなことを蜘蛛に語りかけたくらいです。蜘蛛が私の言葉に反応して、お菓子を取るのをやめてじっとこちらを見つめてくるので、私は焦りました。ここで私は、父の手記が正しければこの子は邪神なのだということに気づき、急に恐れ多くなりました。

「あ、そういうのが嫌だったら別にいい、ですけど」

 露骨に取り繕ったような敬語で、我ながら辟易して、すぐにやめようと思い直しました。ただ、蜘蛛は先ほどと同じくじっと私を見つめていたので、名前を付けられるのを待っているのだと解釈しました。その解釈は今思えば少し強引な気がしますが、その時の私は半ば確信気味にそう思っていたのです。

 その後私は、しばらく考えました。この子らしい名前は何だろう、と。この子について考えるとき、まずイメージするのは「蜘蛛」と「粘液」でした。

「ミヅモっていうのはどうかな。あの、ミズ、と、クモ、で」


 蜘蛛は、ミヅモはくひゅぅるるうと鳴きました。

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