若月との出来事
ここは、本編迷ったら月に聞け2とほぼ同じ内容なので、一気に投稿しました。長いです…。三万字ほど一気に行きます。
月は、ある日気がついた。
中天に居て、背を向けいているその先に、自分と同じ身のものが居る。
もう一つの自分は、しかしこちらに気付いていないようだった。まどろんでいるような、それとも光が激しすぎて、こちらのような影には気付かないのかもしれない。
それでも、もう一人の自分に、月は想いを寄せ、いつしか会いたいと望むようになっていた。
祈る念は、なぜか表の主には届かぬようだった。
それでも、いつもいつも、月は表に向けて語りかけていた。
そんなある日、地上から微かな声が聞こえた。
今までも地上からは数限りない声が話しかけていたが、月にはなんのことかわからなかった。聞き続けているうちに、やっと念の意味がわかるようになり、こちらから念を返しても、あちらの小さな存在は、こちらの声が聞き取れないようだった。
あきらめて眺めているだけだった地上から、自分の声に向けて何かが応えたように思った。
《我になんと申したのか?》
月は聞き返した。ただの気のせいかもしれない。しかし、地上の声は言った。
「あなた、誰かに会いたいの?ずっと会いたいと言っているわね。」
月は驚いた。
《我は、我の背の君に会いたいのじゃ。》
声はまた言った。
「背の君?まあ月も結婚をするの。」
月は声の出所を探った。人が多く住んでいる場所より少し離れた野に、一軒の館が建っている。そこに座ってこちらを見上げる人が、声に答えているのだ。
《結婚とはなんじゃ?我の背と向かい合わせになっている、表の光の君とお会いしたいと申しておるのじゃ。》
この頃、結婚相手のことを背の君と言っていた。月は文字通り背中合わせの君と言ったつもりが、人には違った意味合いに取られたらしい。ため息をついて人は言った。
「月にも悩みは尽きないのですもの、私に悩みがあるのも道理ね・・・。」
彼女の座る屋敷の対屋の庭には、橘の木がたくさん植えてあった。ゆえに彼女は、橘の君と呼ばれているのだと、月は聞いた。
「月に呼び名はあるの?」
月は戸惑った。
《そのようなもの、ない。我は月、ではないのか。》
橘はしばらく黙って、月を見つめた。
「今日は美しい若月よ。あなたのことは、若月と呼ぶことにするわ。」
月にとって、どうでも良いことであったが、同意した。
《主がそれがよいと申すなら。我は若月でよい。》
それから若月は、橘と毎夜話した。自分の声に人が応えることが、これほどに気持ちを明るくさせるとは、思いもよらなかった。
話すうちに、橘は都人の中将の、脇腹(本妻ではない人から生まれた)の娘らしかった。母の身分が低いため、このような都の外れの屋敷に、一人住んでいるのだという。母は昨年亡くなり、父はこちらに来るのも間遠になっていた。
それでも、使用人達は何人かおり、世話をする女房(女の使用人)も居て、そこまで生活には困ってはいないようだった。
若月は橘を通していろいろな人の世のことを聞いた。人の世とは、なんと不便なことよといつも思っていた。
また、橘は若月の話もよく聞きたがった。背あわせの光の君のことを、若月はよく話した。
「まだ見ぬおかたに恋をしているのね、若月は。」
《恋とはなんじゃ?我のこの気持ちのことか?》
若月はそうたびたび橘に聞いた。そうすると橘は、いつも笑った。
「ああ、若月、私にも分からないの。私もまだ、恋というものをしたことがないから。」
ある日の夜、いつもと同じように、若月は橘に話し掛けた。
《橘よ、我の声聞こえておるか?》
いつも上げてある御簾が、今日は降りている。しばらくして、橘が、今まで出て来なかった庭へ降りて来た。
「若月…」橘は泣いていた。「おもう様(お父様)が、病で今朝亡くなったの。」
若月にはかける言葉がなかった。人の死というものが、よく分からなかったのだ。
《我にはよく分からぬ。なぜそのように悲しむのじゃ。》
橘は言った。
「もう、二度とお会いすることは出来ないの。眠りについて、二度と起きないのよ。」
《消滅…か?》
若月は自分にわかる言葉を探してそう言った。橘は頷いた。
「若月には分からないのかもしれない。でも、とても悲しい事なのよ。」
そしてまた泣き崩れた。その姿を見て、若月もとても悲しくなったのだった。
それからの橘の屋敷は、日に日に寂しくなって行った。父の庇護がなくなり、使用人達もやめて行き、屋敷は荒れて、橘は本当に一人になってしまっていた。残っていたのは年老いた女房が二人ほどで、橘は14歳であったが、世捨て人のように暮らしていた。
「女房達が殿方を通わせろと言うの。」橘は若月に言った。「でも、私は暮らしのために背の君を無理矢理選びたくない…。」
《恋を…したいのじゃな?橘よ。》
橘は恥ずかしそうに頷いた。
「ええ。私はまだ文も交わしたこともないのだもの…。」
若月には、なんとなく橘の気持ちがわかった。あれほどこがれた恋というもの、させてやりたい。若月は本当にそう思っていた。
一年後、いよいよ生活は苦しくなり、橘は見るからに痩せていた。寒い冬も、火桶に入れる炭すら工面することができず、着物を何枚も重ねて暖を取る姿を見ていた。庭は荒れ、あれほど美しかった橘の木も伸び放題で、雑草が生い茂り、落ち葉も散るに任せ、人が立ち寄らない屋敷になってしまっていた。
都で流行病が出たと聞いた時も、このような寂びれた場所には病魔も来ないであろうと、若月は思っていた。しかし、橘はある日、若月と話している最中に、気分が悪いと床に伏して、それから起き上がれなくなってしまった。
そんな時も、橘は少し御簾を上げさせ、若月に向かって途切れ途切れに話してくれた。しかし橘は、弱っていく一方であった。
《許せ、橘。我には何もしてやれぬ。》
若月は絶望的な気持ちで言った。このように若くして、消滅して逝かねばならぬとは。人の儚さに、若月は痛みを感じた。どこが痛むのかわからない。が、とても痛かった。
「最期まで、一緒に居てくれたじゃない、若月。」橘は虫の息で呟いた。「私が助からないとわかった二人の女房たちは、もう暇を取って出て行ってしまったわ。」
若月は、人が泣く意味を知った。この痛みに耐え切れなくて、人は涙を流すのだ。
《主は恋がしたいと申していた。我にはそれを叶えてやることも出来なかった・・・。》
「ああ、若月」ハッとしたように言った。「あなたは背の光の君に会いたいと言っていたわね。」
若月はびっくりした。なぜ今それを言う?
「背中合わせて会えないのなら、地上で会えばいいのよ。私からは表の光の君が、毎日見えているのだから。」橘は力の抜けた手を必死で上げた。「私の体を使うことは出来ない?あなたは死なないのでしょう。私の心は消滅しても、この体はあなたが恋を叶えるのに使えるはず。」
若月はうろたえた。そのようなこと、考えた事もなかった。
《確かに、我は死なぬ。そういうものではないゆえに。しかし橘よ、我がその体に入れると、本当に思うのか?》
橘の頬に、少し血の気がさした。
「あなたが私の体を使ってくれたら、こんなにうれしいことはないわ。私が叶えられなかった恋をして、あなたは幸せになって欲しいの。私はずっとあなたと共に生きるのよ。」
若月は決心した。やってみよう。橘の夢を叶えてやるため、あの体に降りて、我と共に橘を生かして行くのだ。
《約束しようぞ。我は主の体と共に、生きよう。もう老いることもなく、病に苦しむこともない・・・主の体、守って行く。》
橘は頷いた。目から涙が伝って落ちる。「ありがとう。きっとよ。」
その言葉を最後に、橘の上げた手はポトリと褥へ落ちた。生気の尽きたのを感じた若月は、ためらいを捨てて、光の玉となって橘の体へ降りた。
それは夜空に明るく光輝いた。若月は橘の体で起き上がり、その重さにふらふらとしながら立ち上がった。視野が狭く、回りが全く見渡せない。しかし近くのものは、驚くほど鮮明で、色があり、美しかった。人の目から見ると、世界はこれほどに鮮明であるのか。
若月は、いつも橘がしていたように、御簾を巻き上げて空を眺めた。そこには、あれほど焦がれた背の光の君が、白い光を出して輝いていた。
若月は、自分の頬に涙が流れるのを感じた。
「ああ光の君」若月は呟いた。「なんとお美しい姿じゃ。橘よ、礼を申すぞ。」
若月は続けた。
《あのあと、橘を見捨て出て行った女房達が引き返して来たのじゃ。今の世のように人は大勢居らず、また地の光も少ない頃、我が橘に降りた光は都の隅々にまで見え、照らしたのだと言う。それから都より大挙して人が来始め、我は月の神の使いと称され、奉られた。》
遙は泣いていた。まだ自分と同じぐらいの歳であった橘の、孤独な死にショックを受けたのだ。維月は言った。
「それがあの月の社の場所なの?」
若月はかぶりを振った。
《あの場所ではない。あれはその後、我を封じた人が作ったもの。》若月はうつむいた。《あれから千年経った。今我が体を離れれば、橘は霧散して塵になってしまうであろう。我は・・・我は橘を生かすため、体から離れることは出来ぬのじゃ。》
涼が若月に言った。
「でも、今その体はエネルギー体よね?」
若月は答えた。
《そうじゃ。橘の人の体、我がついているものは、塚の中に今も眠っておる。当主に解放され、我の思念はこのように自由に外を動けるようにはなり申したが、体はあの中にあの時のまま封じられておるのじゃ。》
維月は若月を気の毒に思った。橘に約束したために、月に帰らず、まだ橘の体についているのだ。力が十六夜に匹敵しないのは、おそらく長く人につき、月から離れているからなのだろう。
「とても長い間、本当によくがんばったわね、若月。私達と共に、来る?」
維月は言った。その言葉と共に、若月の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。それを見た遙が、若月の背を撫でた。若月は頭を下げた。
《前当主、維月様。我は行けませぬ。我にはまだ、せねばならないことがありまする。十六夜様のお力を借りれればと思い申したが、我のことを信じてはもらえませぬゆえ。しかし、当主が我を自由にしてくだされた。我一人でも、出来ると思いまする。》
「何をするの?」
若月は首を振った。
《これは我自身のこと。お手を煩わせることになっていけませぬゆえ、ここでは申せませぬ。》
若月は口をつぐんだ。維月は詮索しないでおこうと決めた。
「では、何か助けがいる時は呼んでちょうだい、若月。私達にはあなたの声が聞こえるのだから。」
若月は頷いて頭を下げ、そのままの姿勢で姿が薄れて、消えていった。
明日は、家に帰る。
維月は、十六夜に今の話を伝えておこうと思った。
十六夜は、ずっと機嫌が悪いようだった。月のまま話すことが多くなり、降りて来ることは滅多にない。母はいつまでも、ほっときなさい、と怒っているようだった。
若月と会えたことは後悔していなかった蒼だが、十六夜を連れて行ったのは後悔していた。
若月の過去を聞いた十六夜は、同情する蒼らを尻目に、こういい放った。
「それが真実だとなぜ言える?確かにオレ達思念体は、神を含めて嘘はつかねぇ。そういう概念がないからだ。だが、どこかで事実を伏せる、つまり言わねぇことは出来るんだ。ましてあいつは長い間人についてるんだ。嘘をつく可能性がない訳じゃねぇよ。」
そこがまた維月の逆鱗に触れ、今母が月と話す姿は見ていない。
蒼は十六夜に話し掛けた。
「十六夜…お前がオレ達の心配をして言ってくれてるのはすごくわかるんだ。でもオレ、困ってるのを目の前に、ほっとくことが出来なくてさ…母さんだってそうなんだと思う。」
しばらく口をつぐんでいた十六夜は、ため息をついたようだった。
《…わかってるよ。お前も維月もそういう所がそっくりだ。だがな、オレはもう二度と後悔しないと決めたんだ。オレは長い間、他の神やらなんやらとは話さないようにして来た。維月に最初に頼まれるまではな。》
蒼は驚いて座り直した。
「母さんが?」
十六夜は、今度こそため息をついた。
《そうだ維月だ。お前は他の神のやつらと話す能力を持っている。しかしそんな能力はこの家系でお前が初めてだ。維月も神の声は聞こえねぇんだよ。》
「なんかあったのか?」
蒼は恐る恐る聞いた。
《困ってる人を助けたいと、そいつに縁の神に、オレの通訳で話したのさ。ヤツは肝心なことは言わなかった。今思えばヤツも、自分の守るものを守り切りたい一心だったのだろうがな。維月はそれで、瀕死の重症を負った。有と恒と遙がいなけりゃ死んでただろうよ。》
母さんが、取材に行って崖崩れに巻き込まれた時だ。オレはあの時、何も知らなかった…覚醒していなかった。
「それで、十六夜はどうしたんだ?」
暗い声で十六夜は答えた。
《オレは人の世に影響出来ないが、神達には力を使うことは出来ない訳じゃない。ヤツには永遠に眠ってもらったさ。》
「ええ?!殺したの?!」
十六夜は呆れたように答えた。
《どうやって思念を殺すんでぇ?封じたのさ。二度とこんなことが出来ねぇようにな。その上ヤツの守っていたものには、力を降ろさねぇ。維月に浄化もさせなかった。》
十六夜の激怒した姿が思い浮かんだ。それでも蒼は言った。
「でも、その人達は神様のことなんて知らなかった訳だし…。」
《ああ、維月もそう言いやがった。》十六夜は苦々しげに言った。《だがな、オレはもう少しで維月を失う所だったんだ。あの神の都合なんて知ったこっちゃねぇ。オレは他の「人」がどうなろうとかまやしねぇのさ。お前達さえ無事であればな。》
蒼は初めて、十六夜を怖いと思った。そうだ。十六夜は「人」ではないのだ。母さんを殺しかけたその神も、自分の守るものが無事なら母さん一人の命など、どうでも良かったのだろう。そして十六夜も、オレ達を守る為なら他の神だろうと人だろうと、どうでもいいと思っているのだ。十六夜から見れば、人などとるに足らないものなのかもしれない。生まれて、死んでを繰り返し繰り返し、あの天上から眺めて来たのだから。
それでも、蒼には困っているものを見捨てることは、やはり出来そうになかった。
「十六夜・・・オレは人だから。神様や十六夜の考えにまで、まだ到達出来てないんだ。多分死ぬまで無理だと思う。だって、十六夜みたいに長く生きられないから。だから、どうしても同じ気持ちを持っている生命体が、困っていたら見過ごせないんだ。母さんも死にかけても、きっとその気持ちが変わらなかったんだよ。」
十六夜は黙った。また怒って答えてくれなくなったのかと、蒼はドキリとした。だが、しばらく後に声がした。
《・・・維月と変なところ似やがって。》と呟くように言い、《お前は変わり種なんだよ。何か意味があって生まれて来たのだろうと維月も生まれた直後から言ってたが、確かにそうだろう。力の強さが半端ねぇ。オレはな、お前が生まれた直後に維月と約束したんだよ。維月の命を捨ててもお前を守り切れと言われてな。だからオレは、お前が危険な所に飛び込んで行くと言うのなら、止める。それでも行くなら、守るしかねぇがな。》
蒼は十六夜の様子がいつもの調子に戻って来たのでホッとした。母さんとも、仲直りしてくれるだろうか。
「なあ十六夜。母さんとは、話さないの?」
十六夜はちょっとためらったようだ。
《・・・維月が応えねぇからな。あいつは昔から、怒ると手が付けられねえ。》
蒼は意外だった。
「え、十六夜は怒ってないの?」
《怒ってねぇよ。オレはそんなに尾を引くタイプじゃねぇもんな。あいつが応えねぇから、イライラするだけだ。》
蒼はなんだか十六夜が可哀想になった。オレも経験がある。母さんは怒るとほんとに怖いのだ。でも、ほんとは母さんも仲直りしたがっていたりする。オレの経験上、意地になっているだけなのだ。
「十六夜、いい方法を教えるよ。母さんには何回も怒られた経験あるし、きっとオレの方が人間には詳しいんだから。」
《・・・ほんとに大丈夫なんだろうな。》
十六夜は訝しげに言った。
しばらくして、十六夜はエネルギー体になってそこに立っていた。
「じゃあ、母さんを呼ぶから。」
蒼は言った。
「かえってこじれたりするんじゃねぇのかよ。あいつはここのところ、いくら話し掛けても返事もしなかったんだぞ。」
十六夜は消極的だったが、蒼は自信があった。
「大丈夫だって。オレを信じろ。」そして居間に向かって叫んだ。「母さん!母さんちょっと来て!」
下から声が聞こえる。
「何よ、蒼、大きな声で。ちょっと待ちなさい、すぐ行くわ。」
トントンと階段を上ってくる音がする。ドアの前に立つ蒼を見て、維月は目を丸くした。
「なあに?こんなところで。」
「母さん、一生のお願い」と蒼は手を合わせた。
「はいはい、何回それ聞いてきたかしらね。」
維月は呆れたように言った。
「この中入って、三十分は出て来ないで。」
「なんですって?」財布を出しかけて、維月は止まった。「お金ほしいんじゃないの?」
「オレってどう見られてるんだよ」蒼は呟いた。そしてドアを開けて中へ維月を押し込んだ。「とにかく、お願いね!」
「ちょっと蒼!」とドアが閉まり、維月の声がドアの向こうから聞こえた。「月じゃないの!」
蒼は下へ退散した。涼がテレビを見ながら座っている。「あれ、母さんは?」
「十六夜と話合い中。」
涼はチラッと階上を見た。
「うまく行くのかしらねえ〜。」
しばらくして、維月が十六夜と共に階段を降りて来た。十六夜はまだ腑に落ちないような表情をしているが、少なくとも母はもう怒ってはいないようだった。
「お茶入れて来るわ。」
維月はキッチンへ向かう。十六夜はテレビの前のソファに座った。涼が、維月がキッチンへ消えたのを見てから小声で言った。
「なんで母さんとこんなにあっさり仲直り出来たの?」
「蒼が言った通りにしただけだ。」
十六夜はまだ釈然としないようだ。蒼は胸を張った。
「見ろよ。やっぱり効果あったろ?」
十六夜は頷いた。
「蒼は維月が騒ぎ出したら、抱きしめて、とにかく謝れと言ったんだ。」
涼は仰天した。
「あんたよくそんなこと思いついたわね!自分なら絶対出来ないくせに。」
「オレがそんなことしても逆に母さんに叩かれるけど、十六夜なら大丈夫だと思った。だって、生まれた時から一緒なんだもんなあ、母さんと。」
蒼はしみじみと言った。十六夜はチラッと蒼を見た。
「お前なあ、自分に出来ねぇことをオレにやらせやがって。もし、もっと維月が怒ってたらどう責任取るつもりだったんでぇ。」そして付け足すように呟いた。「でもまあ、維月が機嫌直したからいいがな。」
維月がお茶を持って戻って来た。
「お待たせ。」
テレビからニュース速報のチャイム音が流れた。これが流れると、ついテレビを見てしまうのは人の悲しさだろうか。なぜなら十六夜は、そんなことは気にも止めずに母からお茶の乗った盆を受け取っていたからだ。
居間に居た三人は、速報の文字を見て凍り付いた。
「これっ…映像は?!どこかの局はやってないの?!」
涼がリモコンをバシバシと押す。一つの局で手は止まった。
『…の○○市の石屋旅館で、海沿いから何者かが爆発物を投げ入れ、露天風呂が半壊し、宿泊客、少なくとも六人が病院に運ばれた模様です。尚犯人は犯行後、自らも爆発に巻き込まれ…』
「ここ!やっぱり私達の泊まった所よ。」
涼が叫ぶ。しかし維月の目は画面の角に釘付けになっていた。
蒼も見た。そこには、暗い顔をした若月が、爆発現場を見ながらたたずんでいた。
「若月…。」
蒼は十六夜を見た。十六夜は、ただ黙って画面を見つめていた。
「若月が…若月がやったのか?」
蒼は呆然と画面を見つめた。十六夜は答えた。
「オレの力は、いくら人に影響させようとしてもお前らを通さなきゃ出来ねぇ。アイツがやったとしたら、アイツは月とは異なる力を持ってるってこったな。」
階段から降りて来てそれを見ていた遙が首を振った。
「違うわ!たまたまそこに見に行って、映った可能性もあるじゃない。」
しかし蒼は黒い霧の姿を見てしまっていた。若月の足元に、集まるように波打っていたのだ。それは母も涼も同じだったようだ。遙は答えない皆を見渡して、叫んだ。
「何よみんなして!いいわよ、私が確かめるわ!」
遙は家を飛び出した。
「待ちなさい、遙!」
維月が呼び止める。そして、「恒!」
騒ぎに自室から出て来ていた恒が、頷いて後を追った。十六夜が立ち上がった。
「蒼、オレを戻せ。」
蒼はすぐに力のリンクを切った。十六夜は光になって消えた。
「どこに行っても月なら追えるわ。」
維月がホッとため息をつく。蒼はハッとして自室へ駆け戻り、窓から月を見上げて言った。
「若月!若月、聞こえるか?聞こえてるはずだ。答えろ!」
若月からの応答はない。
「なんで答えないんだよ!」
《念は届いている》十六夜が答えた。《しかし答えるつもりはないようだな。》
「そこから若月が見えるのか?」
《意識を向ければ位置は容易にわかる。お前らの言う「見る」とは違うがな。しかしオレは今遙を追ってるからな。》
蒼は口唇を噛んだ。どうなってるんだ?若月、何をしようとしている?
遙は、走って走って、どこかの公園に到着していた。恒が追い付いて来ているのは感じる。遙は精一杯念を飛ばした。
『若月!若月聞こえる?』
しばらくして、若月の声がした。
《遙か?》
遙はホッとして答えた。
『そうよ。皆が皆、あの爆発を若月のやったことのように言って…私、私家を飛び出しちゃったの。』
若月の声はためらったようだった。
《遙…我のためにそのようなことをしてはならぬ。とく去ぬるのじゃ。》
遙は首を振った。
『どうせ十六夜が見てるもの。どこに居るかなんて、母さん達は知ってるわ。新月の日でもない限り。』
どこか苦々しげな感じになってしまった。念だけなのだから、感情がダイレクトでも仕方ないか。
恒が追い付いて横に立つのがわかる。それでも、遙は意識を集中した。
《遙、よく聞くのじゃ。あれは我が人を操りさせたこと。我の責なのじゃ。主は母や当主の元へ去ね。》
遙は少なからずショックを受けたが、予想していなかった訳ではない。気を取り直して念じた。
『…何か、訳があるんでしょう?』
《遙…》
若月は言いよどんだ。真実を言えば帰ると思ったのだ。
『私は人見知りで引っ込み思案だけど、それだけにとても人をよく見るの。勘が働くのよ。若月、訳を教えて。』
しばらく黙ったのち、若月は言った。
《…では、遙。お前には話そう…。》
公園の真ん中で、遙は黙ってただ立っている。
恒はどうしたものかと考えあぐねていた。と、十六夜が恒に言う。
《…コイツは若月と話してやがるな。》
恒は月を見た。
「え、念で?十六夜、聞こえるの?」
《聞こえねぇ。》十六夜はフンッと鼻を鳴らした。《オレ達に聞かれるのを避けるために、遙は念で話してるんだよ。蒼に来させりゃよかったな。アイツならなんとかして聞き取りやがるかも知れねぇ。》
ふと、遙が顔を上げた。そして、恒に初めて気付いたかのように振り返った。
「ああ、恒。もう帰ろうか。」
恒は拍子抜けした。
「え、なに?若月なんて言ってたんだよ。」
遙は歩きながら言った。
「何も。何聞いても、私は関係ないから早く帰れってそればっかり。」
恒は狐につままれたような気分だった。
十六夜はそれを見ながら、小さく呟いた。
《…何を話しやがった。》
その日は下弦の月だった。
蒼は月を見上げた。ほとんど見えないが、確かにそこに存在しているのはわかる。なぜなら十六夜の声が聞こえ、力が流れ込むからだ。
「明日は話せないなあ。」
十六夜は、笑ったようだ。
《小さなガキじゃあるまいし。毎月のことじゃねぇか。それに、つい去年までは、オレの声に気付きもしなかったくせによ。》
「そうなんだけどさ。」蒼はうつむいた。「なんか今回は、若月のこともわからないままで新月だから、ちょっと不安なだけなんだ。」
《…それはオレもだ。》十六夜は同意した。《オレから何が見えてもお前達が門を閉じていて伝えることが出来ねぇからな。それでなくても、若月の気配は掴みにくい。まるでオレの力の性質を知っているようだ。》
十六夜は、不安げだった。新月は十六夜からの力を受けられないばかりか、声も聞くことが出来なくなる。十六夜からは、いつも通り見えているのだと以前聞いて知っていた。見えるだけに、また余計に不安にもなるのだろう。
力の補充だけは、恒と遙の二人が揃っていれば出来るので、蒼は安心だった。何かあれば、オレが何とかすればいい。
「ま、明後日までなんだ。恒と遙が居れば、オレがみんなを守るよ。」
十六夜は誇らしそうだった。
《成長したな、蒼。だが油断はするなよ。》
蒼は笑った。
「任せといてくれ。じゃあもう寝るよ。」
《ああ》と十六夜は、《維月を、頼む。》
蒼はベッドに入りかけて振り返った。
「なんで母さん?」
十六夜は沈んだ声で言った。
《あいつはすぐに無茶をしやがる。若月のことも気にしてやがるから、何をするかわからねぇ。新月にわざわざ出掛けるほどバカじゃないとは思うが。》そして、少し黙り、《なんだか胸騒ぎがしやがる。》
蒼は頷いた。
「わかった。」
蒼はなんだか不安なまま眠りについた。
朝は、まだスッキリしないまま目が覚めた。恐らく昨日の不安をまだ引きずっているのだろうと、蒼はわざと勢い良く起き上がって、顔を洗った。
皆はもう起きていた。夏休みの朝だが、新月ともなると、皆一様に緊張感が漂う。早く皆の顔を見て無事を確かめたくなるのは、毎月の恒例行事のようだった。
「ああおはよう、蒼。ご飯出来てるわよ。」
母がテーブルの上を示した。蒼は頷いて椅子に座った。
「あれからなんか変わったニュースない?」
蒼はテーブルの上の新聞を開いて言った。
「特にそれらしきものは何も」既に食卓について食事をしている有が答えた。「あれから五日経つのに、なんだか不気味だけど。」
「ふうん。」
蒼はざっと新聞に目を通した。有の言った通り、めぼしい事故などない。若月は、あれからも蒼が何度も呼びかけているが、答えることはなかった。遙にはあの夜、答えたと言っていたので、頼んでみたが、遙もまた答えがないと言っていた。
「そう言えば今日、裕馬が来ると言っていたわね。泊まるの?」
母はキッチンに立ちながら聞いた。蒼はハッとした。
「忘れてた。泊まらないと思うよ。今日は家に帰るって言ってた。」
母は顔をしかめた。
「母さん、今日は送って行けないわよ。新月の夜は出掛けないの常識でしょう?」
蒼は頷いた。
「分かってると思うけど、後で確認しとくよ。」
「晩ご飯の支度があるから、早くしてね。」
「分かった」
蒼は答えて、ふと卓上のカレンダーを見た。出て行った父が、蒼達に会う日に丸がしてある。
蒼は覚醒してから、なぜ母が仕事と言って頻繁に家を空けるのか、やっとわかるようになったのだが、父にはわからない。父は普通の一般人で、月の力の事も、何も知らない。もちろん見えないので、もし説明したとしても、きっと信じはしないだろう。今は、父も離婚したことで時に会った時も、平穏に蒼達にも接している。蒼もこのままがいいのだと思うようになっていた。
「母さんはなんで父さんと結婚してたの?」
母は驚いた顔をした。
「子供が欲しかったから」蒼が目を丸くするのを見て、「ほんとはね、誰とも結婚する気はなかったのよ。こんな力持ってるから、いきなり出かけたりするでしょう?そんなの理解してくれる人が居ると思う?ましておばあちゃんは力持ってなくて、母さん浄化したりするの反対されてたからね。めんどくさいことがこれ以上増えるの、嫌だったし。」
維月はうっとおしそうに手を振った。
「でも、結婚したじゃん。それも結構早く。」
蒼は食べる手を止めて言った。
「そうよ。だってあの人、最初はとても理解があったの。仕事も今まで通りでいいし、夜の取材だって止めないしって。月に相談したけど、お前の好きにしろって言うし…それで月と言い合いになってケンカもしたのよね。でも考えたら、私が子供生まなかったら、私が死んだら月と話す人が居なくなるじゃない?じゃあたくさん生んでやれって思ったわけよ。」
蒼は複雑だった。
「父さんのこと、好きじゃなかったの?」
維月は難しい顔をした。
「・・・好きだと思うわ。あの人はとてもあなた達の為に頑張ってくれてたから。私のは、愛ではないかもしれないけど。」そしてふと、思い出したように言った。「ほんと、今はこんなに回りにあなた達が居てくれるけど、あの頃はね、月と私の二人きりだったのよ。だから、もしも私が月になるか、もしも月が地上に降りることがあったら、結婚しようって約束させたこともあったのよ。そんなことはあるはずないのはわかっていたし、誰も理解してくれないのなら、誰でも同じだと思っていたのは事実よね。」
母がさばけた性格なのは知っていたが、少しショックな事実だった。父さん、拝み倒して結婚したのか。
「別にあの人が我慢ばっかりしてた訳じゃないわよ。」母は少し叱るように言った。「あの人はね、私と同じで干渉されるのが嫌いな人なの。だから、私みたいな感じがちょうどいいんだと言っていたわ。私、あの人が趣味にお金掛けようと、帰りが遅くなろうと、何にも言わなかったじゃない?それが居心地いいのだと言っていたわよ。お互い嫌なら一緒に居る必要はないからね。今は別に暮らしてるんだし、いいんじゃない?」
母はまた流し台の方へ向いた。
蒼は思った。そうか、今はみんな同じ力を持ってるし、見えてるし、理解し合えてるけど、いずれ結婚ってなったら、相手次第で隠したりしなきゃならないんだ・・・。隠し通すのも難しそうだし、家空けてばかりで不振がられるのも面倒だな。しかも、くつろぐ場所がなくなるじゃないか。十六夜とも夜、話せなくなる…。
「オレ、結婚しないかな…。」
蒼は呟いた。確かに母さんの言う通りすごく面倒そうだし。
「あら、他の子はどうであれ、あなたは当主なんだから、結婚して次の子残さなきゃよ。」母はサラっと言った。「私だって、自分が当主でなかったら、きっと結婚しなかったものね。あ、そうそう、沙依ちゃんもらいなさいよ。あの子なら分かってるから大丈夫じゃない。」
蒼は顔に血が上るのを感じた。
「な、なんでだよ!だいだいあっちも巫女の血筋残さなきゃじゃないか!」
「大丈夫よあっちとこっちで二人ぐらい。五人も生めとは言わないわ。あら、蒼、顔赤いわよ〜。」
母は意地悪く笑った。有もきゃっきゃと笑っている。蒼は出来るだけ早くご飯をかき込み、裕馬に連絡すべく部屋へ逃げ帰った。
結局、裕馬は新月でない日に泊まりに来ると連絡があって、蒼は一日ぼんやりと過ごした。
学校がない限り、新月の日は外に出る気がしない。別に日常生活は何も変わらないのだが、今日は特に家から出たくない気分だった。外は日が沈んで真っ暗だ。今日は十六夜の声が聞けないと思うと、また少し暗い気分になった。
恒が、部屋へ来た。
「蒼、遙知らない?」
蒼は寝転んでいたベットから半身を起こした。
「そういえば見てないな。風呂なんじゃないか?」
恒は首を振った。
「家の中には居ないみたいなんだ。今母さんが友達の所に電話してるけど。携帯も切ってるみたいで繋がらないし。」
蒼は嫌な予感がした。遙のことは朝、下へ降りて行った時にすれ違ってから見ていない。
ベットから飛び起きると、階下へ向かった。母が電話を切ったところだった。
「知ってる所はみんな電話したけど、みんな来てないと言ってるわ。」
母は頭を抱えた。今日は新月で、月に聞くこともできない。蒼は、前に自分が同じことをして、知らなかったとはいえ、維月に心配させたことを思った。あの時母は、自分を案じて無理やり自分の門を月に向かって開いたのだ。
「朝、何か言ってなかったのか?」
皆一様に首を振る。
「特に変わった所はなかったのに。でも・・・。」
「まさか、若月の所・・・?」
蒼はぞっとした。だが、考えられる。月の出ている時なら、十六夜が見とがめてすぐに母に言うだろう。でも、今日なら、いくら十六夜から見えていても、皆には聞こえない。蒼は自分の部屋に向かって走り出した。
「蒼!」
維月の声が追いかけて来る。蒼は窓を開け放して月のあるだろう位置を見た。十六夜からは見えている。聞こえている。だったら、自分があの時の母の様に、門を開ければいいのだ。
「恒!力をくれ。」
恒は前に出た。
「オレ一人じゃ、わずかな力しか一度に送れないよ?」
「大丈夫だ。それから、地図あるか?」
涼がパソコンを起動させた。
「待ってね、すぐにマップ開くから。」
パソコンの起動を待つ間、蒼は意識を集中させた。母さんに出来た、門を開いて十六夜の見ているものを見ること。オレにも絶対出来るはず。それにオレの方が遥かに強い力なんだ。場所も特定出来るはずだ。
「蒼、準備出来たわよ」
涼が言う。蒼は空を見て力をこめた。十六夜、見せてくれ。
自分の体に溜め込まれていた力が頭の辺りに集中してくるのがわかる。しかし、かなり固い感じだ。蒼は痛いぐらい眉を寄せて空を凝視した。
瞬間、まるで裂けるような感覚と共に、パアッと視界が開けた。見ている空に、重なるように風景が見える。遙が居る。暗い、雑木林のような物が見え、その近くに小さな屋敷があるのが見え・・・。
蒼は空を見たまま、パソコンに移動した。マウスを持ち、日本列島の箇所をクリックし、更に見える場所をクリックし、更にそこから絞り込んだ場所をクリックし・・・。蒼は、マウスのポインタをその箇所に置いた。
「・・・ここだ。十六夜はここに遙を見てる。」
蒼は、ガックリと膝をついた。ダメだ。頭が割れるように痛む上に、立っていられないほど力を消耗してしまった。意識が遠のいて行くのが分かる。
「蒼!」
有と涼と恒は、必死で蒼を引きずってベッドへ寝かせた。わずかの間に、汗でびっしょりになっている。維月は地図をプリントアウトし、涼に言った。
「ここへ行って来るわ。涼、蒼を頼める?恒には力の補充に来てもらわなきゃだし、何かの時には有に対処してもらわなきゃならないから。」
涼は前に踏み出した。
「私も行くわ!戦うのなら、人数いたほうがいいでしょう?」
「蒼をどうするの?」維月は言った。「まだ戦うと決まった訳じゃないわ。とにかく涼、もしここで何かあったら、あなたが蒼を守ってちょうだい。」
涼はハッとして、頷いた。
「わかった。気をつけて、母さん。」
母は険しい顔で頷くと、恒と有を連れて出ていった。
車の音が遠ざかって行く。
「・・・・・」
意識を失っている蒼が何か呟いている。涼は顔を近付けた。
「え、何?蒼?」
「い・・づき」蒼が気を失ったまま口を動かしている。「行く・・な」
涼は、蒼がまだ十六夜とつながったままなのだと知った。
「十六夜なの?・・・母さんはもう出発してしまったのよ。」
「とめ・・ろ、りょう」微かな声だ。「いづ・・き・・・。」
蒼は、気を失ったまま夢を見ているようだった。
だが、しばらくして、それは十六夜の記憶が断片的に流れ込んで来ていて、それを見ているのだと気付いた。
見ている視点はいつも上からだった。時に近く、時に遠くから広域に渡る視野で、本当に自在に見えるのだと思った。
ああ、あれは小さい母さんだ。
こちらを見上げて手を振っている。十六夜が微笑ましい気持ちになっているのがわかる。
あ、おばあちゃんが手を引っ張って連れて行った。
『おふとんのなかから、月におはなしするからね』
思念が飛んで来る。母さんはこんな小さい頃から思念で話せたんだ。
《待ってるよ、維月。》
十六夜は答えた。
場面が入れ替わる…。
次に見えたのは、土手に腰掛ける、制服姿の母さんだった。あれはいつかアルバムで見て知っている。高校生の頃だ。
「じゃあね、約束して。もし私が月になるか、月が地上に降りるかすることがあれば、結婚しよう?」
十六夜が、あるはずがないことだと思っているのがわかる。それは母さんもそうのようだ。
《約束しよう、維月。もしそんなことがあれば、オレはお前と結婚しよう。》
母さんは満足したように立ち上がった。
場面は、母さんの部屋だった。
若い母さんがベッドに突っ伏して泣いている。十六夜はなんとかしようと話しかけるが、全く月を見上げようともしない。
それでも十六夜は、母さんを慰めたいと思っているのを感じた。そして、全く思ってもいなかったのに、エネルギーの光の玉になって、母さんの隣へ行ってしまったのを感じた。そんなことが出来ると思っていなかったので、十六夜自身びっくりしていたが、もっとびっくりしたのは母さんだった。
「月…?来てくれたの?」
母さんは涙も拭かずにその光に話し掛けた。
《お前があまりに泣いているのでな。》
母さんはその光に触れようとした。でも、光なので手は光の中に突き抜けてしまう。それでも、母さんはふふふっと笑った。
「今日はここに居てくれる?」
《こんな姿で良ければ。》
十六夜はその夜、光の中に母を抱いて過ごした。母は泣き止んですぐにスヤスヤ眠っていたのだが、約束通り、朝までそこに居た。
場面が暗転する。
「何よ!どうでもいいってことなの?!」
とても若い母さんが怒っているようだ。十六夜は答えた。
《違う、お前がいいように決めればいいと言っているんだ。》
「もう、いい!月のバカ!」
母さんはくるっと向こうを向くと、家に入ってドアを勢いよく閉めた。
《…オレに何が出来るというのだ…。》
聞こえないように呟く十六夜は、とても悲しくつらい気持ちでいるのがわかった。
次の場面では、母さんがどこかの屋上で赤ん坊を抱いて立っている。話しているのを聞いていると、それは自分なのだとわかった。
「…あなたは父親として、この子を守って…。」
母さんが言っている。十六夜の決意が伝わって来た。
「約束しよう」
次の場面は、とても暗い所だった。夜の森のようだ。十六夜の緊張が伝わって来る。地響きと共に大きな音がした。
《維月!維月!》
十六夜は叫んだ。血まみれでピクリとも動かない母さんが見えた。有が自分も血まみれになりながら、必死で心臓マッサージと人工呼吸を繰り返し、恒に泣きながら叫んだ。
「恒!早くして!母さんが、母さんが死んでしまう!」
恒は震える手で携帯を握りしめ救急車を呼んだ。遙が母さんの横で泣き叫んでいる。母さんの生気は、全く感じられなかった。きっと有が心臓マッサージと人工呼吸を止めたら、死んでいるような状態だろう。
その瞬間、十六夜の視界が真っ白になった。
途切れ途切れに見える…山肌と岩…何か、人外らしき姿…許しを乞う、エネルギー体のようなもの…。
それは突然に、大きな光で押さえ付けられ、消えた。
視界が戻って来る。十六夜が激しい怒りに我を忘れていたようだった。気付いた彼は維月の運ばれた病院を見た。有がうなだれている。十六夜は聞いた。
《有、維月は…。》
十六夜は怖がっているようだった。
「わからないの」有は涙を流したままだった。「わからないのよ、月。助かるどうか。」
傍らのカーテンを、有は開けてくれた。十六夜からも母さんが見える。治療のため長い髪は肩の所でバッサリ切られ、包帯でぐるぐる巻きにされ、酸素マスクをつけられ、管につながれた母は、生きているのが不思議なぐらい、生気はなかった。
十六夜は、毎日呼んだ。
《維月…維月、逝かないでくれ。オレはまだ、お前を失う心の準備が出来ていない…。》
十六夜が守って来た人が、先に死んで行くのはいつものことだった。それは月の自分と人の違いなのだから、わかっていた。しかし、本当に、十六夜には母さんが死んでしまうことへの覚悟が出来ていなかった。気付くまでの毎日、ずっと、十六夜は母さんを呼び続けた。
『月…?』
母さんの念の声が、十六夜の心に響いた。十六夜の歓喜の感情を、蒼は強く感じ取った。
場面が変わった。闇夜だ。母さん…離れて、恒と有がいる。あれは、遙?若月…これは、今の情景だ!
何か、黒い大きな悪意を感じる。ふと、母さんが、月のあるだろう辺りを見上げた。そして、言った。
「月…もう、心の準備は出来たわね?」
十六夜の心は叫んだ。
やめてくれ!頼むからもうこれ以上オレを苦しめないでくれ!
「維月ーー!!」
蒼は、叫んでガバッと起き上がった。ゼイゼイと肩で息をする。涙が再現なく流れていた。十六夜は…今あの現場を見ている。そして、絶望的な気持ちで母を見ている。
十六夜の悪い予感は、これだったのだ。
涼が驚いて蒼を制した。
「大丈夫?蒼。母さん達は向かったのよ、あなたが示した場所に。」
蒼は涼を見た。ここは自分の部屋だ。
蒼はどうして十六夜があんなに維月維月と言うのかわかった。母さんと十六夜は、オレ達が生まれるずっと前から、母さんが小さな子供の頃から、本当に二人で話し、なんでも二人で助け合って来たのだ。そこには、本当に二人だけしか居なかった。母さんには他に、理解を示してくれる人が居なかった・・・だから母さんにとっての十六夜は、父であり兄であり、そして恋人でもあり夫でもあったのだ。頼れるのは、十六夜だけだった。十六夜も、それをわかっていて、なんとしても母さんを守り切りたいと思っている・・・。母さんがオレ達をたくさん生んだのも、そんな孤独を味わわせないためだったのだ。
蒼は最後に見た場面を思い出した。母さんは死ぬ気でいる。何かあったのだ。
「涼、行かなきゃならない!」
蒼は立ち上がった。すぐにふらふらと足元が崩れる。涼は蒼を支えた。
「ダメよ。あなた今動けるはずないでしょう?力が全然ないのよ!」
蒼は涼に支えられながら、夜空を見上げた。
「十六夜!」蒼は自分の意思ではない涙をぬぐった。「泣いてる場合じゃないだろう!オレの門はまだ開いている。オレの体を使って、早く母さんを助けてくれ!間に合わなくなるぞ!」
《今のお前は体力がない》十六夜の声が小さく聞こえた。《この前のようには行かない。お前を殺してしまう。維月に、お前の命を優先すると約束した・・・。》
それは知っている。母さんが赤ん坊のオレを抱いて、十六夜に約束させていたのを記憶の中に見た。
「だからって黙って見てるのかよ!母さんが死んでしまうんだぞ?!オレは知ってる・・・心の準備なんか、全然出来てないくせに!」
十六夜から、怒りとも悲しみともつかぬ感情が流れ込んで来た。《体を、借りる。》
十六夜から力と一緒に意識が流れ込んで、蒼の体を満たした。カッと閃光が走り、蒼の体は宙に浮いた。十六夜の入った蒼の体は、涼に手を差し出した。
「涼、一気に飛ぶぞ。」
涼は十六夜と同じ金茶に染まった蒼の瞳を見て頷き、その手につかまった。
十六夜は涼を腕に抱き、窓から夜空へ飛んだ。
その数時間前、遙はリュックに荷物を詰め、二階の部屋から庭の植え込みに向かって投げた。
そして、何気ない振りをして庭へ出、隙を見てリュックを拾い、家を飛び出した。
大丈夫、貯めてあったお金は持った。携帯の電源も切ってある。今日は月も母さん達に告げ口出来ない。遙は調べてあった電車を乗り継ぎ、若月の元へ向かっていた。
《…事情は話した。遙よ、主には関係のないことであろう?我のことは忘れるのじゃ。》
若月は何度もそう言った。だが、遙には事情を聞いて尚更放って置けなかった。
遙には、攻撃の力はないが、守りの力は無限にあった。新月でも自分一人を守るなら、人の手を借りなくても、まず大丈夫なのだ。あの巨大な闇ほどの力でなければ。
感知の能力は人一倍強い。若月と最後に念のやり取りをした場所は、遙には容易にわかった。
バスを降り、歩き出した時には、もう日が暮れ掛かっていた。遙は回りの目を気にした。こんな時間にこんな所で一人で居るのを見られれば、15歳の自分は保護されてしまう。
だがしかし、周囲に人はいなかった。
しばらく歩くと、覚えのある気を感じた。間違いない。あの屋敷に若月がいる。遙は足を早めた。
たどり着くより前に、屋敷の門が開いた。
《遙!来てはならぬと申したではないか。》
若月が驚いて言う。遙は食い下がった。
「ほっとけないよ!私にはあまり力はないけど、それでも、若月をこれ以上一人にしとけない。」
《我は一人ではない。》若月は道を指した。《とく、去ぬるのじゃ。ここに居てはならぬ。》
遙は途方に暮れた。バスももうなく、帰ろうにも帰れない。事情を察し、若月はため息をついた。
《今日は十六夜様もお姿が見えぬのに。主をこのまま帰すことも出来ぬな…。》
若月は空を見上げた。おそらくその辺りに、月があるのだろう。若月は道を開けた。
《さ、中へ。だが決して今夜はここから出てはならぬぞ。》
遙はホッとして中へ入った。きれいに手入れされた庭を通り、屋敷の内へ上がる。若月は食事を用意してくれた。
「ありがとう。」
遙はそれを食べた。思えば腹ペコだった。その姿を見ながら、若月はクスリと笑った。
《ほんに主は、橘によお似ておるなあ…。》
若月の姿が橘のそれというのなら、確かに遙は橘に似ていた。長い髪と切れ長の目、背の高さもちょうどそんな感じなのだ。若月は髪を指した。
《それは最近の流行りか?皆、尼削ぎであるのな。髪は伸ばさぬものなのか?》
遙は髪に触った。
「私、これでも長い方なのよ。尼削ぎって言うの?」
若月は頷いた。
《昔はの、小さき子か尼に限りそのような長さに切ったものよな。主はまだ前髪も上げてはおらぬゆえ、我はまだ裳も迎えておらぬのかと思おておったが、なんと橘よりひと年上だと聞いて驚き申した。》
年より下に見られるのは慣れっこのはずの遙だったが、千年前の人にまでそう言われるとは、なんだか面白くなかった。一息ついた遙は、お茶を飲みながら話題を変えた。
「若月はなぜ、ここに居るの?月の社より離れているのに。」
若月はため息をついた。
《知らぬ方がよい。当主から問い詰められた時に、主は隠し通せるのか?》
遙はぷうっと膨れた。
「蒼のことなんかなんとでも言いくるめるもん。」
若月は首を振った。
《あれは歴代最強の当主ぞ。十六夜様をその身に降ろすことまで出来るというではないか、「人」には不可能であったに。それに大変な善の気に満ちておる。ゆえに曲がった気は、すぐに感じ取って消し去ってしまうのじゃ。いとも簡単にの。甘く見るものではない。例え兄であろうともの。》そして、窓から外を見た。《今日はこちらで休むと良い。とはいえ、まだ時はあるようじゃ。碁でも打つか?》
遙は頷いた。
「ちょっと上達したのよ。」
二局ほど打った時だった。
何やら嫌な風が吹いて来て、碁盤の上の石を散らした。若月が険しい顔つきをしている。
「ああ、石がわからなくなっちゃった・・・」
遙が拾い集めていると、若月は見向きもせずに言った。
《さあ遙、もう休め。我は外の様子を見て参る。》
今日は新月なのに。遙は心配になった。
「私も一緒に行こうか?今日は新月だし・・・。」
若月は厳しく言った。
《いらぬ。我は十六夜様と違おて新月の方が力が強いのじゃ。逆に満月になると地上に対する力が弱くなる。我らは陰と陽じゃからの。それより》若月はさらに厳しく言い放った。《ここには我の守りがある。決して外へは出てはならぬぞ。遙、わかったな?》
遙はその迫力に思わず頷いた。
若月はサッと部屋を出て行った。
遙は横になってしばらく待っていたが、一向に若月が戻ってくる気配がない。心配になり、外に出なければいいだろうと、屋敷の中をあちらこちらと若月の気を探して歩いた。
遙が居たのは表の対だったが、裏側にある対まで歩いた時、そこの庭に若月の気配を感じた。何やら話しているようだが、遙には若月の念しか聞こえて来なかった。
・・・人では無い何かと話してるんだ。
遙は恐くなって、屋敷のうちへ引っ込もうとした。
《遙!》若月の声が背後から聞こえる。《何をする!主には関係のない「人」であろう!》
遙は、何かに体を飲み込まれるのを感じた。寒い。冷たい。そして、苦しい。「若月・・・!」
遙は気を失った。若月の前には、黒く大きい闇の塊のようなものが、遙を巻き込んでその身に飲み込み、歪な形を幾様にも変形させながらそびえ立っていた。
《やつのニオイがする・・・》それは言った。《お前がなんと言おうと、こればかりは離さん。やつのもの、全て滅ぼすと誓った。お前に貸与えた力、必ず明日には返してもらうぞ・・・。》
黒い塊は、見掛けには似ても似つかない動きで飛び上がると、そのまま裏手へ飛び去った。若月は飛んで後を追った。祟神めが・・・!!
そこに、鉄の車が到着したのが見えた。あれは!
若月は急いで引き返し、車から降りてくる者たちを迎えた。
「若月!」
維月だ。若月は天の助けに思えた。
《前当主よ、我の責じゃ。》若月は叫んだ。《遙が祟神に連れ去られ申した。あの裏山じゃ!当主はいずれに?》
維月は裏山を睨んで言った。
「蒼は来ていないわ。動けないのよ、今日は新月でしょう。」
若月は頷いて再び飛び上がった。
《我は先に祟神を追い申す!》
有と恒がその場所を見て、顔色を無くした・・・ここはあの場所だ。
維月が思い切ったように走り出そうとするのを、有が腕を掴んで止めた。
「母さん、ここはあの場所じゃないの!ダメよ、祟神はきっと、月が封じたあの神様だわ!何かで封印が解けたのよ!だとしたら、一番に狙われるのは、母さんよ!」
維月は有の手を振り払った。
「遙がそれに捕らえられているのよ!早く助けないと、生気を全て抜かれてしまうわ!」
維月は走り出した。有と恒は慌てて後を追う。
しばらく走ると、その先に黒い塊と対峙する若月が見えた。以前見た時より力は強くなっているようだったが、それでも十六夜のそれとは比べ物にならない。しかも、彼女の力は、闇寄りの性質のようであった。
維月は、有と恒を振り返った。
「有、恒。母さんは、遙を解放させるわ。そうしたら若月がここへ遙を連れて来るから、あれが母さんに気を取られているうちに、車へ戻って全速力でここから逃れるのよ。」
有は首を振った。
「母さん一人で何が出来るの?今日は新月なのに!」
「若月がいるわ。あの子からは、本当の意味での悪を感じないの。大丈夫、食い止めてみせる。そのまま明日の夕方に蒼の力が復活するまで、必ず逃げ切るのよ。蒼と月が居れば、あんなのすぐに封じるわ。」
維月は立ち上がった。有と恒が引き止めようと身を乗り出す。
「あなた達はあなた達がやるべき事があるのよ。」
維月は二人から距離を置いて前に出て行った。後ろから、恒がか細く力を送って来るのがわかる。それが、ありがたかった。
そして、月のあるであろう方向を見上げた。
「月…もう、心の準備は出来たわね?」
なんだか声が聞こえたような気がした。
その声は必死で維月を止めているようだった。
十六夜がその上空へ着いた時、有と恒が遙を二人で抱え、車へと必死で移動している最中だった。二人とも泣きながら、ぐったりとしている遙を気遣っている。
十六夜が見ていたのは、蒼に降りるまでの間だった。ここに移動してくる間の事は見えていない。心が急きつつも、十六夜は涼を三人の所へ降ろした。
「蒼!」と有はパッと明るい顔をした。そして目の色に気付き、「十六夜?」
「どうしたんだ。遙はまだ息があるな。」
十六夜は頷きながら言った。
「母さんが早く逃げろって」有は涙を流した。「若月が戦ってくれてるけど・・・私たちが逃げる前に、後ろで若月の悲鳴がしたの。でも振り返れなくて。」
十六夜は飛び上がってその現場へ急いだ。必死で戦う若月は、倒れて動かない維月の前で庇うように防いでいる。しかし、もう時間の問題だった。
十六夜は蒼に聞いた。
「力を出しても大丈夫か?あれを封じなきゃならん。」
“大丈夫だ。早く十六夜!”
頭の中に声がする。蒼は異変に気付いた。気が・・・。
しかし十六夜は気付いていないようだ。若月の前に飛び出して浮かんだ。
《ああ、十六夜様!》若月は叫んだ。維月を抱き込むようにしている。《お願い申す!もう我は・・・。》
「わかってらあ!」十六夜は手を上げた。大きな光の玉だ。「久しぶりだな。その姿、封じさせてもらうぞ!」
《月め!この姿、主のためぞ。我をこのような所へ封じ・・・我が民を苦しめた月を恨み、このような姿に変化してしもうた》
祟神は、どこか寂しげな声で唸るように言った。
十六夜は厳しい顔をしながら光の玉を祟神に向けた。
「お前から売って来たケンカだ。オレの守るものに先に仇なしたのはお前の方じゃねぇか。」
光が祟神を飲み込んで行く。祟神はしかし勝ち誇ったように言った。
《お前の負けだ、月よ!お前の大切なものの命、戴いたぞ・・・!》
再び封じられたその神は、そう言い残して消えた。
「・・・何を言ってやがる。」
そう言って、若月の方を振り返ると、倒れる維月の前に座り、頭を下げていた。十六夜は気付いた。
・・・そう言えば、ここに着いてからずっと、維月の気を感じない・・・。
頭の中で蒼が泣いているのが聞こえる。なんだってそんなに泣いてやがる?全て封じた。終わったのでないのか・・・。
若月が振り返った。
《十六夜様》
十六夜は蒼の体で維月に屈み込み、顔を見た。若月が上を向かせて手を胸の上で重ねさせている。
「維月・・・?」
維月は目を閉じている。体に損傷はどこもなく、ただ眠っているようにしか見えない。
《一瞬のことであり申した。他のものが逃げる手助けをしようと飛び出し、自らあの力に食われ、生気を抜かれてしまい・・・このように・・・。》
十六夜は蒼の体を使って維月を抱き上げた。まだほんのり暖かい…しかし、なんの生命の兆候も見られない。念で必死に心の中で呼びかけたが、応答はなかった。
「維月」十六夜は声に出して呼んだ。「維月ー!!」
頭の中の蒼が号泣している。有や恒や涼がこちらに気付いて駆け寄って来る。
十六夜の意識は、真っ暗になった。
十六夜が抜けた蒼は倒れ、若月の屋敷へと維月と共に運ばれた。
無理やり門を開いた後に、十六夜を降ろしたこともあり、蒼は次の日も起き上がれなかった。繊月が現れたが、十六夜の声は聞こえない。しかし、力が戻って来たので、月が出ているのは分かった。
遙はまだ何も知らされず、看病を受けていた。しかし、生気の消耗はそれほど激しくなく、元気になってきていた。
母は、若月の勧めで、美月の里の神社へ連れて帰ることにした。若月の陰の力は、母の亡骸を包み込み美しく保ち、安置しておくことが出来るのだという。
《当主、どうか我にお時間をお与えくださりませ。》若月はそう言って頭を下げた。《我は必ず、全て良しなにおおさめ申す。維月様をしばらく、里にてこのままお隠しくださりませ。》
蒼は今度こそ、全てを聞いておくべきだと思った。
「若月、オレに全て話せ」蒼は言った。「お前は何をしようとしているんだ?」
若月は蒼の表情を見てビクッとした。
《・・・はい当主。》
若月は座り直した。《あるかたの封印を、解きたいと望んでおりまする。あくまで私情であるゆえ、当主にはお話せずにおりました。遙は我に同情し、あのように我を追いました。》
蒼は、その話に耳を傾けた。その時、自分の力が微かに誰かに使われるのを感じた。それが何に使われているのかわかったが、蒼はそのままソッとしておいた。
若月の話が終わった後、蒼は一人起き上がり、母を安置してある部屋を覗いた。思った通り、十六夜が人型になり、母の傍に座って、顔にかけてあった白布を外して見ていた。
「…勝手に力を引き出すことも出来るんだな。」
蒼は十六夜に声を掛けた。十六夜はこちらを向かなかった。
「十六夜、母さんとの記憶、途切れ途切れだけど、見えたよ。」
蒼は近付きながらもう一度話し掛けた。十六夜はピクリと反応した。
「オレには想像出来なかったけど、あんなに小さい頃から、ずっと一緒だったんだな。」
十六夜はフッと微かに笑った。
「…フン、だからお前のオレへの認識が変わったってことか」十六夜はこちらを向いた。「姿が人の常識での、維月に見あうものに変わっていたのでな。」
十六夜の姿は、二十代後半ではなかった。母の外見がそうであるように、三十代半ばの男性の姿になっている。しかし、やはりそれは十六夜だった。
「十六夜…。」
十六夜はまた母の方を向いた。
「全く変わったヤツだった。オレのことを月とは呼んでいたが、人のように扱っていた。何度も感情をぶつけられて、そのたびオレは、どうすればいいのかわからなかった。段々自分が人のような感情を持って来るように思えた。コイツにだけは幸せになってもらいたかった。オレの気持ちよりコイツの気持ちだと思って…最後まで守り抜いて共に居ようと思っていたよ。それしかオレにはしてやれることがなかったし、傍に居ればコイツは笑っていてくれたからな。」
蒼は、十六夜が自分の心をどうすればいいのかわからなくて、それが何かも理解出来ず、試行錯誤していたのがわかった。十六夜は続けた。
「以前は何度も話し掛ければ、念の気配ぐらいは感じ取れたんだ。怒って応えない時でも、念の波動は伝わって来た。」十六夜は母の頬を触った。「だが今は、何もない。他の誰にも最期は一緒に居てその瞬間まで念を感じたのに。誰より側に居てやりたかった維月に、オレは何の言葉も掛けられなかった。別れすら言えなかった…。」
十六夜はただ泣いていた。冷たくなった母の手や頬に触れ、ひたすら後悔しているようだった。その姿は、誰よりも「人」だった。
「若月の話は、聞いていたか?」
十六夜は頷いた。「ああ。」
「今のお前なら、気持ちがわかるんじゃないのか?」
十六夜はしばらく黙っていたが、頷いた。
「そうだな。」
「母さんならどうしたと思う?」
十六夜は立ち上がった。
「…わかったよ。蒼、手を貸そう。」
十六夜と蒼が部屋を出ると、涼が遙を連れて入れ代わりにその部屋へ入ったのが見えた。
「お母さんー!」
遙の泣き声がまるで悲鳴のように背後から聞こえて来る。遙は自分を責めるだろう。蒼はそれを思うと、胸が締め付けられた。誰のせいでもないのだ。母は、いつもこうなることを覚悟していた。蒼は今になってそれがわかった自分が歯痒かった。
有が、蒼を待っていた。わかっているようだ。
「行くのね。」
蒼は頷いた。
「有、明日美月おばあちゃんの家に、皆で移動しておいてくれ。全て終わったら、オレもそこへ行くから。」
有は頷いて、蒼の肩を叩いた。
「わかってる。待ってるわ。まだ体が本調子じゃないんだから、気を付けなさいよ。」
蒼は十六夜を振り返った。十六夜は軽く頷いて、蒼の手を取って空へと飛び上がった。
あの皆で泊まった旅館に風を切って向かいながら、蒼は若月の話を思い出していた。
若月は、月の使いとして遇されることになった。屋敷も宮と呼ばれるに相応しい形に建て替えられ、庭も手入れされ、橘の木も以前の美しさに戻っていた。若月は橘に成り代わり、必ずこの体を幸せにするのだと思っていた。
若月は本当に月であったので、橘の体から、いくらでも人を浄化することが出来た。生活に困ることなどなかった。
ある日、ひどい野分きの風で、宮の木戸が激しくバタバタと開け閉めされ、女房達は対応に走り回っていた。
若月も所在なく立ち尽くしていると、視界の端に、何かが動いた。
人の世では、女は人に見られてはならぬものらしい。慌てて扇で顔を隠し、奥へ行こうとしたが、着物の裾がうまくさばけず立ち往生した。
男の声が、若月の背に話し掛けた。
「月の君でいられるのか?」
若月はドキッとした。女房達にこのような所を見られては、大騒ぎになってしまう。扇のほかに袖まで駆使して、若月は顔を隠した。
「そのように怯えないで下さい。私はあなたに病を治して頂いたもの、皆には藤の中将と呼ばれております。」
若月は考えた。そういえばそのような名のものも居たような…しかし皆が皆覚えておらぬ。何しろ御簾越しに浄化するのだから。
若月はそれでも黙っていた。軽々しく声を掛けてはならぬと女房達に言われているのだ。
「突然にこのような所へ押し入ったようになり、申し訳ありません。また、出直して参りますゆえ、お許しを。」
藤の中将というものは、それでも軽やかな声でそう言い置くと、去って行った。
気配が側から消えたのを感じると、若月はすぐに御簾を下ろした。まだ風が激しく、御簾もその風に踊っている。
その御簾越しに見ると、先ほどの声の主は、馬を引かせ、それに股がって、都の方へ帰って行った。
若月は、変わった人も居るものよ、と奥へ戻った。
次の日から、藤の中将よりの文が、頻繁に届けられるようになった。どうやら藤の中将とは、生まれもよく、主上の覚えもめでたい男らしく、女房達は好意的にその文を迎えた。
若月は文を取り交わしながら、これが橘の望んでいたことかと、心が弾んだ。
ある日、中将は病の治癒の祝いだと言って、内裏での宴を主上より賜った。その席に、病を治した若月も招待され、若月は初めて内裏の門をくぐった。
藤の花も盛り、若月の目から見ても、大変に美しいものだった。
所々に置かれた松明の明かり、行灯の明かり、そして、何よりも輝いている表の光の君の月の光。
若月がそれに見惚れていると、藤の中将より文が届けられた。
『あなたに捧げましょう。私をよくご覧になっていてくださいね。』
何のことだろうかと思っていると、楽士達が調子の良い音楽を奏で出した。
そこに、主上からの所望とのことで、中将ともう一人の殿上人が、烏帽子に藤の花を刺し、片袖を脱いで舞い始めた。
若月はあまりの美しさに言葉を失った。翻る袖、舞い差す脚、その所作のひとつひとつに心を奪われ、見とれた。
若月は返事を書いた。
『あまりに美しい舞いに、月を見るのも忘れてしまいました。』
女房達もすっかり心を奪われてしまい、帰りの車の中では、ずっと中将の噂ばかりだった。
若月はいつしか、中将よりの文を心待ちにするようになった。
中将は満月の日によく訪問した。共に月見を、という口実もだが、満月の日には若月が力を使えず、皆の浄化もしないのを知っていたからだった。
中将はいろいろな話をしてくれた。宮中行事のこと、狩りのこと、仲間のこと、話していると、夜が更けるのも忘れてしまい、明け方慌てて帰って行く…ということが多かった。
そんな毎日の日に、中将はポツリと言った。
「私があまりに毎日明け方に思わせ振りに都へ帰るので、噂になっています。いっそ本当に、私の恋人になってもらえませんか?」
若月は、自分の顔が赤くなるのを感じた。
「我で、本当によろしいのですか?」
もはや御簾の内に居た中将は、几帳を避けて若月の前に出て、手を取った。
若月は自分の気持ちに、これが恋なのだと気付いた…。
若月は幸せだった。
月の光の君を想っていた頃とは、違う想いだった。藤の中将は、毎日のように若月の所へ通い、若月は愛情というものを知った。
なんと、苦しいほどに甘美で、また喜ばしい気持ちであるのか。橘に話してやりたくて、我が身を鏡に映しては、語り掛けた。
しかしそんなある日、都より、流行り病が出たとの知らせが来た。しかし闇のせいで無ければ、若月にはなす術もない。瞬く間に病魔は広がり、しかも気の流れが不安定で大きな雹が降ったり、落雷が内裏にあったりで、ついに都を移して吉方の恩恵を得ようということになった。
遷都の知らせを真っ先に伝えて来たのは、中将であった。しかもそれは、急を要していた。
「月の上、早く支度を!ここから出るのです!」
いつも穏やかな中将のただならぬ様子に、若月はうろたえた。
「中将様?どちらへ行かれますのじゃ。」
中将は回りの女房達を急かした。
「主上から見付からぬ場所へ。」と中将は外の様子を見て舌打ちした。「しまった!もう来たのか…っ!こちらへ!」
若月は訳が分からず、中将に手を引かれて馬に乗った。中将は鞭を振るった。「はいっ!」
掛け声と共に駆け出した馬に、その場に居た何人かが気付いて追って来るのが見える。若月はただ中将に抱きつき、目をつぶっていた。
どれぐらい走っただろう。中将は海の近くの池で、馬に水を飲ませた。若月を馬から抱き下ろし、中将は言った。
「主上があなたを、新しい都の人柱にすると申したのです。あまりにひどい被害に、新しい都には、悪いものを何一つ入れはせぬように。」
若月は驚いた。人は、神すら封じてそこを守らせるのだという。ならば、我が選ばれるのも道理じゃ…。
「今日は満月」中将は空を見上げた。「あなたの力は使えない上に、明るすぎて逃げおおせるのも困難ですね」
中将は寂しげに笑った。それでも、中将様は我と逃げてくれたのだ。我を見捨てることなくー。若月はこんな時なのに、とても暖かい気持ちになった。
ふと、中将が険しい顔をした。何かが近付いて来る。彼は何か決意したような表情になり、若月を馬に乗せた。
「よろしいですね。ひきづなを、決して離してはなりませぬよ。」
「何を申されます?」
「私がここで彼らを引き付けます。その間に、あなたは馬で逃げるのです。」
若月は首を振った。
「そのようなこと、出来ませぬ!」
中将は馬の尻を叩いた。「はいっ!」
馬は勢いよく走り出した。必死で馬にしがみつきながら、若月は見た。藤の中将はたった一人でたくさんの役人と渡り合い、刀を振り回している。どこかから飛んできた矢が、彼に当たるのがおぼろげに見えた。
そして倒れた彼に、皆が一斉に縄をかけている…。
そこで、若月は馬から落ち、気を失った。
《…気を失っていた我は捕らえられ、気がついた我の目の前で、まだ息のあった中将様は、人柱として、あの場所へ埋められ申した。我は…我は中将様をお守りすることもできなんだ。月でありながら、あの満月の夜、力を使えない間に、かの人は封じられ、我もまた、離れた月の社へ封じられ申したのじゃ。》若月は泣き伏した。《我は今一度中将様にお会いしたい…!声を聞き、その身に触れて、共に逝きたいのじゃ。置いて逝かれるのは、我慢がならぬ…。》
蒼は、あまりの出来事に、口を開けなかった。人はなんと残酷になれるのだろう。そして、千年という月日、あそこに封じられたまま、別々に封じられた人を想い、過ごして来たなんて…。
あの旅館が見えて来た。皆で楽しく入った露天風呂は、めちゃめちゃになっていた。
あの時、隣りの風呂から聞こえて来た、母の笑い声が聞こえるような気がする。
若月が先にたどり着き、佇んでいた。崩れた岩の間に進み、回りの闇をまるで埃でも払うかのように余けた。
《我は十六夜様とは違い、光は扱えませぬが闇を操ることができ申すので、人に闇をつけ、このように…。我の浄化は闇を引き剥がす方法ですのじゃ。しかし、人を使って物は壊せても、封印は我では解くこと叶いませぬ。その力が欲しいばかりに、あの祟神の甘言を受入れ、力を借りる事と引き換えに、封印を解き申した。同じ月であるので、我にはあれを解くことが出来申したのです。それが、あのようなことになろうとは…。》
若月は、後悔しているようだった。
若月の視線の先には、あのとき岩風呂の底に見た、細い光が漏れている箇所があった。蒼は思った。あれだったのか…。
若月はそこに手をついた。
《ああ、我に力のある時であれば!我の身だけで済むことであったならば!かの君をこのような所に千年もおこめすること、ございませんでしたものを…。我はかの君さえご無事で、お幸せで居て下さるのなら、我が身が封じられようと構わなかったのじゃ。》
《それでは、私が不幸になり申そう》精悍な男声が響いた。《先に逝かれたあなたを思うあまり、私まで鬼になっておったかもしれぬ。》
若月は手の下から聞こえる中将の声に答えた。
《ではどうすれば良かったと申されるのですか。我に中将様をお守りする力さえあれば、満月の夜でさえ無ければ、あのようなむごい最後にならずに済んだであろうに。》
中将の声は優しかった。
《あなたは悪くはない。そのようにご自分をお責めになるのを感じる度、私はとてもつらかったのです。私こそ、あなたを守りきることも出来ず、ここに篭められてしまったのだから…。》
若月はその岩に顔を伏せて涙を流した。
《我も共にお連れ申せ。どうか、一人逝っておしまいにならないで。我は…我はもう、これ以上、一人残されるのは耐えられぬ…。》
それを聞いた十六夜は目を反らした。
「蒼、さっさとやってしまおうや。」
蒼は頷いて手を上げた。十六夜から降りた光が蒼より流れ出し、封印場所の上で、何やらウロウロとした。その後やはり、平たく広がると、星印が描かれ、その上に覆い被さるように降りた。
ジュッ…という音がして黒い霧がパラパラと崩れ落ちる。光は、あっさりと消えた。
若月が呼び掛ける。「藤の中将様…?」
岩は亀裂が入り、その隙間から、狩り衣姿の男性が光と共に姿を現した。
《月の君…!》
《中将様!!》
若月は迷いなくその腕に飛び込んだ。蒼はそれを見て、千年ぶりかと思うと、感無量だった。
《お会いしとうございました!もう叶わぬのかと…何度…。》
《あなたを悲しませてしまった。しかし、私は逝かねばならない…共に参られるか?》
若月は頷いた。
《我は不死の身でありまするが、手助けしてくださる神がおります。》
そして、十六夜と蒼を振り返った。
《我らと、龍の君の所へ共に参りませんか?》
蒼はあの滝を思い出した。
「若月を守っていた、あの龍神様のことか?」
若月は頷いた。
《はい。当主蒼様、龍の君は全てをご覧になっていて、ご存知でいらっしゃいまする。》
蒼は十六夜を振り返った。
「十六夜、オレは行くよ。最後まで若月を送ってやりたい。」
十六夜は溜息をついたが、頷いた。
「そうだろうな。お前はそんなヤツだ。連れて行けって言うんだろう?」
蒼は手を差し出した。十六夜はその手を取って、呟いた。
「オレも龍神には聞きてぇ事があるからな。」
若月と中将が飛び上がった。蒼も十六夜につかまって夜空へ飛び上がったのだった。
夜の滝は一層温度が低かった。
蒼は少し身震いして、滝の前に進んで行った。そこには、維心が、人の形をとって待っていた。
「当主よ、礼を申すぞ。」龍神は言った。「よくぞこれを解放してくれた。」
「龍神様こそ」蒼は、皮肉でなく真面目に言った。「ずっと若月を守っていてくださった上、助けてやろうと考えるなんて…神様は、他の神様に興味ないと思っていたのに。」
龍神は笑った。
「長く居ると娘のように思えるものだ。まして我の庇護下より出られぬとあってはの。」
そして若月を見た。
「逝くのか。」
若月はにっこり笑った。
《はい、龍の君。我を中将様と共に送ってくだされ。》
蒼は維心が頷いたのを見て驚いた。月に寿命はないのではないのか…。
それを読み取ったかのように、維心は蒼に言った。
「当主よ、我はなんの神と聞いておる?」
蒼は看板に大きく書かれてあるものを指差した。「子宝・安産の神様?」
維心は鼻を鳴らした。
「フン、人はそのように言っておるだけだ。それだけではない。我は命のことを司っておるのよ。」
蒼は微かに希望の光が灯るのを感じた。
「母さん、母さんを生き返らせることは出来ますか?!」
維心は首を振った。
「死んだものを蘇らせることは出来ぬ。命というものは一つなのだ。前当主は、既にあの体での生涯を閉じられた。再び開かれることはない。例えば他の命があれば別だがな。当主、自身の命、母のために差し出すのか?」
蒼は真剣に考えた。母さんはオレのためにでも命を投げ出す人だった…ならオレも…。
十六夜が後ろから蒼の腕を掴んだ。
「やめろ。それは維月が絶対に望まないことだ。それで蘇っても、維月は苦しむだけだ。」
「十六夜…。」
「維月がオレに約束させたことを思い出せ。あいつはオレに、お前を守りきれと言ったんだ。」
十六夜の記憶の中の母さんは、確かにそう言った。蒼は口唇を噛んだ。
維心は若月の方を振り返った。
「後悔は、ないな。」
《何を申されまするか。》若月は嬉しそうに笑った。《愛しい人に死に遅れるのは、苦しいこと。そして残して逝くのも苦しいことでありまする。我らは共に逝ける。これほどの幸福がありまするでしょうか。》
「龍神。」十六夜が維心に声を掛けた。蒼は意外だったので、びっくりしてそちらを見た。「ではオレのことも送れるのか?」
維心が明らかに驚いた顔をしてこちらを見た。「月は、死にたいと望むか?」
「…もう全てに飽き飽きしてただけだ。同じことの繰り返しで、オレは死ぬこともねぇ。せめてこの意識だけでも、殺しちまってもらえるものならと思ってな。オレが居なくても、結局月はあそこにあるんだ。それは変わらねえんだよ。」
蒼は十六夜に向き合った。
「何言ってるんだよ!ずっと千年生きて来たんじゃないか。オレ達は傍に居て欲しい。無駄なことなんて何もないんだよ!」
十六夜は蒼を見て微笑した。
「何を言ってるんでぇ。お前も何十年ほどで、オレの前から居なくなっちまうくせに。」そして呟いた。「もう置いて逝かれるのには、こりごりなんだよ。」
維心は厳しい顔で言った。
「主を送ることは出来る。だが共に逝けるかは分からぬぞ。かの者は先に逝っておるゆえな。」
維心が誰のことを言っているのか分かった。十六夜は笑った。
「すぐ追い付くさ。」
《そのことでございまするが》若月が言う。《龍の君にお頼み申そうと思っておりました。》
維心は顔をしかめた。
「お前までなんだ?」
若月は十六夜と蒼のほうを見、こう言った。
《我は不死の身でありまする。我を送ったら、我の命残りまする。その命、維月様にお渡しして頂けませぬか?》そして維心を見、《お出来になられるか?》
維心は心外な、という顔をした。
「出来るに決まっておるであろう。だがこれは、人に人の命を与えるのとは訳が違う。意味が分かるか?のう、月よ。」
振り返ると、十六夜が難しい顔をしている。蒼は、希望が見えて来たのに、なぜそんな顔をするのかと訝しんだ。それを察した維心が蒼に言った。
「その苦しみは、それを感じたことのあるもので無ければわかるまいな。」
十六夜は明らかに迷っている。維心は、皆に背を向けた。
「すぐには答えは出まい」そして若月達にも言った。「明日、この時間にここへ来るのだ。」
若月達は頷いた。
《我らは、急ぎませぬゆえ。》そして蒼を見、《では、明日また。》