月に願いを
「王が居間への出入りを許されたと。」洪はその報告を、兆加と公李と共に聞いた。「間違いない。王は維月様をめとろうと思われているのだ。」
兆加はしかし険しい顔をした。
「だが、維月様はかわしておしまいになられた。やはり、妃になられるおつもりはないのだの。」
公李が考え込むような顔をした。
「…しかし今までとは逆の形ぞ。今までは相手がその気で来られても王は見向きもされなかった。その、元は人で、今は月であられる維月様のこと、どうすればお気を惹けるのか、人の世に詳しい者に考えさせねばなるまいて。月との婚姻となれば、龍王にとって不足のないお相手であるし、何としてもあの方を妃にお迎えしたいの。」
洪は頷いた。
「まずは食されると聞いておるし、何か人の世の良い食べ物を取り寄せさせよ。王でなければ手に入れられぬようなものでお気を惹きながら、後は小出しにして参ろうぞ。」
維月は、与えられた部屋に戻って驚いた。たくさんの侍女達が自分に頭を下げて待っていたからだ。何でも、維月付きにとわざわざ選ばれた者達らしい。維月はその、総勢25人の侍女達に戸惑いながらも皆に挨拶をし、最初こそお互いにぎこちなかったが、そのうちに慣れて、仲良く話して飽きる事はなかった。
維心は、暮れていく日を見つめながら、切ない想いでいた。維月が同じ宮の中に居る…なのに、夜は離れて居なければならない。ここに居るなら、片時も側を離れたくないと望んでしまう。叶えられないと思いながら、その気持ちは抑えられなかった。
なぜに、月の妃なのか…。
維心は、募る想いに押し潰されそうだった。
すると、庭の方から何かの人型がこちらへ飛んで来るのが見えた。結界には何も掛からなかった。維心が警戒して見ていると、それはもう一人の月、十六夜だった。
「よう、維心。」
十六夜は、居間に入って来ながら言った。
「十六夜…維月を迎えに参ったのか。」
維心が残念に思いながら問うと、意外にも十六夜は、首を振った。
「いいや。お前の頼みを、聞いてやろうかと思ってな。あくまで維月次第だが、一年間あいつを譲ってやろう。お前の世継ぎとやらを生むまでな。だが、あいつは何も知らずにここへ来た。維月がお前を受け入れると言うのなら、いいってことだ。ダメなら諦めな。お前にも、チャンスをやろうってんだよ。」
維心は絶句した。維月を手にしても良いのか。
「十六夜…本当に…。」
十六夜は、険しい顔をした。
「あのな、あくまで維月次第だって言ってるだろうが。あいつは一筋縄ではいかねぇぞ?ま、頑張りな。何もなければ数ヵ月で迎えに来る。」
十六夜は、ふいと横を向くと踵を返して飛び立った。突然の異に、維心は声も出なかった。維月…維月を手に出来る。だが、どうしたら維月は首を縦に振ってくれるのだ…。我には、そのような経験が全くない。分からない…。
洪が、入って来て頭を下げた。維心はハッとして振り返った。
「…王。今のお話が誠でしたら、何としても維月様を妃にお迎え出来るよう、我ら全力を上げて努めまする。」
維心は、洪を見た。
「…どうすれば良い。」
洪は顔を上げた。
「まずは、歓迎の宴を開く事をお命じくださいませ。さすれば夜ももう少し長くお側に参れまする。」
維心は頷いた。
「では、宴を。」
「はい。然る後に王、維月様にお着物を下賜なさる命を。」
維心は頷いた。
「我が選ぶ。これへ持て!」
「はは!」
洪は頭を下げ、そして宮は動き出した。
維月は宴と聞いて恐縮していた。自分を歓迎してくれるという。ここまでしてもらうなんて、私はただの居候なのに。
それに、この着物に頸連 、額飾り…。ここまで良い物を、身に付けたこともなかったのに。維月は侍女達に飾り付けられて、大広間へと向かった。
維心は、息を飲んだ。
いつもは化粧も薄く飾り気のない維月が、美しく化粧されて髪を結われ、驚くほどに美しくなっている。自分が選んだ紅の衣装がまた、よく似合っていた。
目の前で頭を下げる維月に、維心は手を差し出した。
「こちらへ。」
維月はためらいがちにその手を取った。維心は、自分の横に維月を座らせた。
「維心様…何もかも揃えて頂きありがとうございます。」
維心は頷いた。
「よく似合うの。とても美しい。」
維月は少し赤くなった。
「まあ、維心様…。」
洪や兆加、それに公李はその様子に感無量だった。ああして並んでいると、本当に王と妃のようではないか。
それを誠のことにすべく、臣下達は必死の様子で傍に控えていた。さすがの維月も、何やらただならぬ様子に気付いて、落ち着かなかった。
「…あの…何やら、回りが落ち着かぬ様子でありまするわね?」
維心は苦笑した。皆、構え過ぎであるのだ。
「そうか?月など迎えるのは初めてのことであるゆえ、皆緊張しておるのかやもの。」と、手を上げた。「これへ!」
途端にわらわらと侍女達が現れて、維月の前にたくさんの料理を運んで来た。刺身などもある。そしてきちんと、炊き立てのご飯も味噌汁もあった。維月は目を輝かせた。
「まあ、おいしそう…。でも、こんなにたくさん私一人では無理でありますわ。」
維心は維月に微笑み掛けた。
「では、我も酒の肴に共に食そうぞ。」
侍女が、酒瓶を手に寄って来る。維月が、それを手に取った。
「では、お注ぎ致しまする。」
維心は驚いた顔をした。思えば、自分は女に酒をつがせたこともない。傍に控えているのが鬱陶しくて、いつもその辺に置いておけと言って、手酌で飲んでいた。なので、ここの侍女達は、いつもその酒瓶が空になる前に入れ替えに来るぐらいしか、維心に寄って来ることはなかったのだ。
維心は、戸惑いながらも維月に杯を差し出した。維月は微笑んでそれに酒を注いだ。そうやって二人で寄り添っている様は、臣下達に希望を持たせた…まさか、王のこんな姿を見る日が来ようとは。
維心は機嫌良く酒を過ごしている。維月は嬉しそうにぱくぱくと食事をとっていた。人の習慣がまだ抜けきれなくて、食べる必要がないのに食べているのだと聞いた。洪は傍の兆加に話し掛けた。
「王があのように楽しそうになさるのは、我は生まれてこのかた見たことがなかった。」洪は、神妙な顔をしている。「我は、お世継ぎのことばかり考えて、肝心の王のお幸せなど考えなかったのやもしれぬ。」
兆加は頷いた。
「それは我とて同じことぞ。王がお心を閉じられておられたのも、無理の無いことであったのだ。」
洪は、決意に満ちた顔で兆加を見た。
「この上は、あのように想われるかたが現れたのだ。何としても王の妃になって頂かねば。我は全力を尽くして策を練ろうぞ。」
兆加は頷いた。
「我もそのように。王にお幸せになって頂かねば。」
目の前で、維心は酔ったように維月に身を寄せた。維月は驚いたように微笑んだが、酒の上でのことと咎める様子もなく維心を見ている。洪は感無量だった。こうして、王がずっとお傍に妃を置いてくだされば、自然お子も…。
一方維心は、間近で身を寄せる維月の気を感じて心が満たされるのを感じていた。維月…こうして我の傍に居てくれると言ってくれたなら。これが、本当に妃に迎える日の夜であったなら…。
維月が、ふと顔を上げた。
「…そろそろ、夜も更けました。私も休む支度を致しまする。」
維心は、名残り惜しげに維月を見た。
「まだ良いではないか。維月…我に酒を注いでくれぬのか。」
維月は困ったように微笑むと、そっと維心の杯に酒を注いだ。維心はそれを飲み干し、維月に頬を擦り寄せた。
「維月…もう疲れたか?」
維月は頷いた。
「はい。今朝は朝から、何やらあちらの宮でも慌ただしくて…十六夜がどうしても龍の宮へ預かってもらえと申しまするし、何のことやらわからぬまま、取るものとりあえずこちらへ参りましたので…。」
それは、きっと十六夜が自分の願いを叶えてやろうと考えてくれたからだろう。維心は思いながら、頷いた。
「それでは、もう休まねばの。我が部屋まで送ろうぞ。」
維月は慌てたように首を振った。
「まあ、王がそのようなことをなさってはなりませぬわ。私は大丈夫でありまする。」維月は、スッと立ち上がった。「では、また明日。おやすみなさいませ。」
維心は名残惜しげに維月を見た。
「また、明日の。」
維月のために揃えた侍女達が維月の前と後ろを挟んで維月に従って行く。維心は、切ない気持ちでそれを見送った。このまま、我の部屋へ連れて参れたら良いものを…。
維月が去るのを見てから、維心は立ち上がった。
「…戻る。」
維心は、酒も手伝って体が熱く火照るのを感じながら、自分の部屋へと早足に戻って行った。
次の日、前夜もなかなかに寝付けなかったにも関わらず、維心は夜明けには目覚めた。維月…まだ、眠っているのだろうか。
気を探ると、維月の気はまだ眠っているようだった。維心は侍女達に手伝われて着替えを済ませると、居間へ出て来て昇って来る朝日を見た。どうすれば、維月の心は自分を受け入れてくれるのだろう。離れている時より、傍に居て手が届く距離に居る今のほうが、維心はずっと切なかった。愛しているとは、きっとこの感情を言うのだろう。維月を愛している。維月の心も体も、この手にしたい…!こんな衝動が湧くとは、思ってもみなかった。ずっと、維月のことばかり考えている。政務のことも手に付かない。そんな自分が、維心は信じられなかった。ずっとそのままそこに佇んで昇って来る朝日をただ見つめ続けていた。
「お目覚めでありましょうか。」
どれぐらい経っただろう。洪の声がした。維心が振り返ると、洪がそこに頭を下げて膝間付いていた。
「洪か。何用ぞ。」
洪は頭を上げた。
「王、維月様がお目覚めになられました。只今侍女達が、朝食のご準備をしてお部屋へお運びしておるところでありまする。」
維心は頷いた。
「そうか。本日の政務の予定を。」
洪はじっと維心を見た。
「王、そのことでありまするが、しばらくご政務のほうはお休みになられてはいかがでしょうか。」
維心は驚いた顔をした。
「しかし…いつなり溜まって来るのが困ると申すではないか。」
洪は頷いた。
「はい。ですが今は非常の時。まずは維月様とご交流を持たれることが最重要なことでありまする。どうしてもな場合は王のご判断を仰ぎに参りまするが、どうかそれまでは、王は維月様とお過ごしになられることをお考えになられて。」
維心はしばらく黙ったが、頷いた。
「主らがそれで良いのなら、そうしようほどに。して、維月の予定はどうか?」
洪は頷いた。
「昨夜お聞きしたところによりますると、維月様には特に何もご予定はないご様子。これから侍女達と尋ねる場所などを決めようとおっしゃっておられました。なので、王がご案内に回られたら良いのではないでしょうか。」
維心は、考えた。維月が喜びそうな場所とは、どこであろう。
「…女が喜ぶ場所が分からぬの。宮の大まかなものは皆、昨日見せて参ったし。」
「何より、維月様にお聞きになるのが一番かと思いまする。」洪は答えた。「お部屋をお訪ねになられて、お聞きになってはいかがでしょう。」
維心は頷いた。
「そうよの。侍女!」維心は侍女を呼んだ。「着物を換える。この間作らせた青の物を持て。」
侍女は頭を下げて出て行った。洪がそこを辞して行き、維心はひたすら考えた。維月の喜ぶものは、維月自身に聞いて学んで行けば良いのだ。
維心は、維月を訪ねて宮の貴賓室へと急いだ。




