父・張維
維心は、その力の全てを使って、気を補充して維月をつなぎとめた。
維月の気とは反対に、大きく膨れ上がって来るもう一つの気を感じながら、維心はその瞬間を待った。子は、通常の子とは明らかに違う生まれ出方をしようとしている。なぜなら、維月の胸の辺りに気が膨らみ、そこから外へと出ようとしていたのだ。感じるのは、やはり命のエネルギーのみ…個の感情や意思は全く感じられなかった。そして、その身さえも感じられなかった。器のないまま、命のみが生まれ出ようとしているのだ。
「維月よ、聞こえるか?主は一度行っておるからわかっておるの。そちらへ行ってはならぬ!楽になるのは分かっておるが、そちらへは絶対に行ってはならぬぞ!」
おそらく足が勝手に向かうのであろう。維月が門の方へ向かって、少しずつ歩くのが、維心には見えた。目の前の体から、それに伴って少しずつ気が抜け出て行く。どうすることも出来ず、維心は咄嗟に維月と心をつないだ。
《行ってはならぬ…こちらへ戻れ!》
つながった心が目を覚まして答えた。
《維心様…。》
ハッとしたかのように、維月が目を覚ました。その時、維月の体から、光の玉が飛び出して浮き上がった。
サッカーボールほどの大きさのそれは、明るく光輝き、浮いている。まさに十六夜が月に帰って行く時に取る光の玉と、大きさこそ小さいが、同じものであった。
「これは…どうすればいいの…?」
維月が小さく呟く。維心にもわからなかった。ただ、それが何か目的があって生まれ出たのは、感じ取れた。維心は念を飛ばした。
《十六夜!生まれたぞ!主にこの意味はわかるか?》
その念は部屋に響き渡るほど強く大きなものだった。生まれ出た瞬間、十六夜はその命を感じていた。意味?意味なんてわからねぇ。
ただそれは、確かに自分と同じ波動を持っている。同じ生命だということはわかった。そして、なぜかここへ呼ばなければならないような気がした。
「維心!オレのところへそいつを引き寄せる!お前は維月を見ててくれ!」
十六夜は手を上げた。まるで吸い付くように、瞬間的にその光の玉は十六夜の手の上に引き寄せられ、じっと留まっている。これが…オレと同じ命か…。
と、その光の玉は、大きく震えた。何かがその中へ飛び込んだかの様に、なぜか重さを感じ、それまで感じなかった個の意識が充満していくのがわかる。それは光を増し、大きく膨れ上がり、回転し始めたかと思うと、蒼の体に飛び込んだ。
蒼は光輝き、回りで気を補充していた龍達を退かせた。手を握っていた瑤姫は、その手を離さず、叫んだ。
「蒼様!蒼様…ああ、お手が温かくなり申した!」
呆然として見ている中、蒼が目を瞬かせて開いた。
「蒼…。」
維月の声に、皆が振り返る。維心が維月を抱いて、そこへ瞬時に飛んで来ていたのだ。
蒼は回りを見回した。ああ、戻って来た。オレはあと何年生きることになるんだろう…。
「お前がオレ達の子になるとはな」十六夜はホッとしたように言った。「これは何かの意思なんだろう?」
蒼は頷いた。
「使命があると、言われたんだ。それには人ではダメなのだって。どちらか選べと言われたけど…戻って来ちゃったよ。」
蒼は身を起こした。ふと、左手を見ると、何かを握り締めているのがわかる。小さなビー玉のようなものだ。こんなもの、倒れる時には握って居なかったのに…。
“我の記憶、維心に渡してくれ”
そうか、張維様…。
「維心様」蒼はその玉を差し出した。「張維様が、これを維心様に渡してくれと。」
維心と維月は驚いて絶句した。十六夜は怪訝そうに言う。
「なんだ?張維とは誰だ?」
維心は、恐る恐るその玉に手を伸ばしながら言った。
「…我の父よ。」そしてその玉を手に取り、「我が千五百年前に殺した、な。」
やっぱり、と蒼は思った。あまりにも維心に似ていると思ったのだ。
「張維様は、維心様に謝らねばならないことがある、と言っていました。それで、オレに張維様の記憶を渡して欲しいと。」
維心は、その玉をじっと見つめた。
「父に会ったのか。」
蒼は頷いた。
「オレを導いてくださったんです。その時、母さんがこっちに向かってふらふら歩いて来るのも見えて、助けようとしたけど、張維様は、維心様が必死で繋いでいるから、こっちには来れないって言ってて…そのうち、母さんは光に包まれて消えたんだ。」
維心は、その玉を懐に入れた。
「では、父はこちらの様子を知っているのだな。」
「はい。とてもよくご存知のようで、オレにも親しげに話してくださいました。とても維心様と似ていたから、きっと近い血縁のかただと思っていたけど。」
維心は黙って頷いた。表面上は取り乱していないが、かなりためらっているようだ。維月が腕にそっと触れた。
「維心様…お傍におりましょうか?」
維心は維月を見た。そして、こちらを見ている十六夜に気付いた。
「ああ。十六夜も共に、どこか落ち着ける場所へ。」
十六夜は黙って頷いた。そして、蒼を見た。
「お前はもう、大丈夫なのか?」
蒼は立ち上がって見せた。
「大丈夫だよ。体自体はなんともないんだし、これはどうやら決められていたことみたいだから…母さんみたいに何かがズレてる感覚も全くないよ。」
十六夜は頷いて維月の手を取り、維心と共にその部屋を出た。
先程維月が産所として使った部屋に、三人は戻って来た。維心は、そこの寝台へ二人を促した。
「こちらへ。父の記憶を見るには、横にならねばならないのでな。」
維月が黙ってそこへ入って行くのを見ながら、十六夜は顔をしかめた。
「男と寝る趣味はねぇんだか。」
維心はそこに座ったまま言った。
「別に主は月に帰っても見れるというのなら止めはしないが、ここで我と維月の二人になるぞ。良いのか。」
だからお主も誘ったのよ、とでも言いたげだ。仕方なく十六夜は、維心を挟んで維月と両側に分かれて横になった。維心は懐からあの玉を出すと、宙に浮かべた。
「さあ、我の手を取れ」維心は両手を差し出した。維月はすぐに従い、十六夜は少しためらった後手を握った。「目を閉じ、我と心を合わせよ。我が見た父の記憶を、主らへ送ろう…。」
暗闇の中、スーッと情景が浮かび上がって来た…。
張維は、歴代の王の中でも、力は格段に強く、逆らう龍は居なかった。王座について八百年程になるが、その間目立った反乱などもなく、平穏に過ごしていた。たまに鳥との小競り合いはあるが、それも張維にとっては退屈しのぎぐらいにしか思えなかった。
張維は、人が好きだった。短い期間とはいえ、少ない能力を駆使して頑張る様は見ていて清々しい。今日も、張維は人と話をしに、人の格好で村外れを歩いていた。
ふと横を見ると、そこにはまるで隠されているかのような屋敷があった。回りには木が生い茂り、人には見つけられにくいであろう。張維は好奇心に駆られて、その屋敷を覗いて見た。
奥に意外なほど広くのびる庭の軒先には、長く伸ばした髪を束ねた女が一人、座っていた。庭には粟や稗が育てられていた。人の女が一人でこのような事が出来るはずがないので、おそらく他にも人は居るのだろうと、張維は思った。
「邪魔をするが…」
女はビクっとしてこちらを見た。男が一人、そこに立っているのを見ると、見るからに怯え、奥へ引っ込もうとする。張維は慌てて言った。
「道に迷うてこのような所へ来てしもうたものだ。この近くの村には、どう行けばよろしいか?」
しばらくシンとしていたが、女はおずおずと戻って来て、こちらを覗いた。
「…お困りなのですね?ここを出て、日の沈む方へ歩いて行かれれば、村へ参ります。」
体は半分、戸の辺りに隠れている。その様がおもしろくて、張維は思わず笑った。
「礼を申す。しかし、そのように怯えておられるとは、この辺りには賊など出申すのか。」
女は頷いた。
「去年は、この穀物が実った時に、全て持って行かれてしまいました。」
張維は、そんな賊などという種類の人は嫌いであった。何度罰を与えたかわからない。
「では、我はまたここへ参りましょう。我は、そのような輩を、退治して回っておるのよ。」
女は一瞬嬉しそうな顔をしたが、すぐに下を向いた。
「お礼は、穀物でございますか?どれほどお分け出来るか、わからないのですが。」
張維は笑った。なんと、我が退治した褒美を取らそうというのか。
「そのようなもの、要らぬ。我は穀物は食さぬしな。では、また参る。」
帰り道、空を飛びながら、おもしろいものを見付けたと、上機嫌になりながら龍の宮へ急いだのだった。
穀物が実る頃、張維は再びその家を訪れた。
よく見ると、あの女が一人稲を刈っていた。他に人の影はない。張維はこちらに気付かぬ女に声をかけた。
「無事に実ったようだな。」
女はびっくりして飛び上がった。そして、それがいつぞやの男だと知ると、ホッとしたように言った。
「はい。明日には雨になりそうなので、今日中に済ませてしまわなければと。」
もう日は傾きつつあるのに、まだ半分も終わっていない。張維は驚いて訊ねた。
「他に人はおらぬのか?主一人では、これは終わらぬであろう。」
女は首を振った。
「私一人です。出来る所までやります。」
そしてまた、稲を刈り始めた。張維は困った。ここで力を使う訳にもいかぬ。かといって、我が稲を刈るなど…。
女は黙って刈っている。しばらくそれを見ていたが、その効率の悪さに思わず張維はその鎌を取り上げ、刈って見せた。
「ほれ、このようにするのよ。主のやり方では、日が暮れてしまうわ。」
女は見よう見まねで刈ってみた。ダメだ、これではとても…。
気がつくと、張維は一人で残りを刈り終わっていた。こんな風に体を使ったのは初めてで、しかし、終わってみるとなかなか清々しかった。
女は張維の刈った後の稲を棒に引っ掻けて吊るし、嬉しそうに笑った。
縁側に腰掛けて湯を飲みながら、張維は女に言った。
「主、こんなことはし慣れてないのであろう?なぜにこのような所で一人、隠れるように住んでおるのだ。」
よく見ると、手は荒れて切れている。女は淋しげに笑った。
「私は巫女でございました。神々の声を聞くのが仕事でありましたが、ある日それが全く聞こえなくなり申し、村人に追われ、それを不憫に思ってくれた人にこの家を密かに与えてもらい、住んでいるのでございます。」
張維は、何か覚えがあった。先の小さな戦で討ち果たした神は、確かこの辺りに住んでおったよな。
「…おそらく、それは主のせいではない。神が、居なくなったから声が聞こえなくなったのだ。」
その女はとても驚いた顔をした。
「神も、死ぬのでございますか。」
張維は頷いた。
「命あるものは、皆死ぬ可能性はある。神とて同じだ。」
張維は考えた。これからは、神を討つ時にはよく考えなければならぬな。人に影響があるとは思わなかった。
張維はハッとした。そういえば、名を聞いていなかった。
「我は張維と申す。主、名はなんという?」
女は座り直して頭を下げた。
「私は神の心の声を聞くというので、心女と呼ばれておりました。ですが今は聞こえませんので、名はありません。」
そう言われても、他に思いもつかない。張維はその名で呼ぶことにした。
「心女でよい。」
心女は、日が暮れた空を見ながら、思いきったように言った。
「こちらには今、食べるものもございません。何かお出し出来れば良いのですが…。」
張維は、驚いた。そうか、人は食すのだった。
「いや、その必要はない。我は…その…あまりものを食さぬゆえにな。来る前に済ませて来ておる。」
心女は不思議そうな顔をした。それでも立ち上がり、中へ促した。
「では、せめてこちらでお休みくださいませ。どちらかに宿をとらねばならないのでしょう?外よりはましでございますので。」
張維はまた驚いた。我が人の家に?しかし、帰らなければおそらく、他の龍が慌てふためくであろうな。それも面白い。
張維は立ち上がった。
「では、ここで今日は世話になろう。」
張維は心女について家の中へ入った。
その夜、何かの気配を庭先に感じ、張維は起き上がった。心女が眠れないのかと思いきや、それは何人かの男であった。昼間刈り取った稲を、肩に担いで運び出している。そして、何人かの者は、家の戸へ手を掛け、中へ入って来た。
大きな音がして回りの物が倒れる音がする。心女の悲鳴に、張維は狭い家の中を抜け、音のする部屋へ飛び込んだ。
「なんだお前は?!」
男達は振り返って凍り付いた。心女は押さえ付けられ、着物が乱れている。張維は、刀を抜かず、少しの気を放った。
男達は、張維に触れられることもなく吹っ飛んだ。さらに近付く張維に、腰の刀をみやって男達は後ずさっている。
「ふん、人め。主らなどに、刀を抜く必要などないわ。」
張維は手首をスッと返し、触れもせず皆裏山の方へ放り投げた。おそらく50メートルの高さはあるであろう位置より、皆地面へ叩きつけられた。悲鳴と、鈍い音が響き渡る。
「穀物を取り返さねばな。」
張維はそう呟くと、家を出て行った。
しばらく飛ぶと、肩に稲を担いだ数人が走って行くのが目にとまった。張維はその行く手を遮るように舞い降りた。
「ひっ!」
一人が悲鳴を上げ、稲を肩から落とした。
「返してもらおうと思うてな。」
張維はニヤリと笑うと、触れもせずその男の首を折った。他の男達はそれを見て、稲を放り投げ、一目散に走り出す。張維は左手で稲を集め、右手でひらりと賊達を放り投げ、地面へ叩きつけた。
後には、なんの音もない。
「愚かなものよ。」
張維は稲を手に、心女の家へ戻った。
心女は、頭を下げてぶるぶると震えていた。張維は心女に近付いた。
「賊は討った。穀物は取り返した。我の役目は果たしたの。」
心女は床に額を擦り付けて頭を下げている。
「張維様…私は、私は知らぬとはいえ、なんとご無礼を…。」
張維はイライラした。何を言っている?
「神であられるのですね。私は神に稲刈りなど…。」
張維は笑った。そうか、稲刈りか。確かにな。
「いかにも、我は龍神よ。あのような人が嫌いてあるゆえ、探しては討っておるのよ。暇であるゆえな。確かに稲刈りは初めてであったわ。」そして、夜空へ浮き上がった。「良い座興であった。去らばだ、心女。」
心女は顔を上げた。
張維は宮へと帰った。
宮へ帰り着くと、臣下の龍がわらわらと迎えに出て来た。
「王!」
古参の龍が、黙って奥へと急ぐ張維にまとわりついている。
「どこへいらしておられたのですか。このような時間まで…」
「うるさいわ、洪。我の勝手であろうが。」
張維は上着を脱ぎ捨てて奥の居間で座った。洪は食い下がった。
「妃の皆様のこともお考えくださいませ。今日は明花様の所でお泊まりのはず。」
張維は鬱陶しげに手を振った。
「では、明日参る。」
「明日は廉花様の所でございます!ご予定が崩れて、宮が乱れてしまいまする。」
張維はため息をついた。
「主達がぽこぽこと何人も妃を決めるから、このようなことになっておるのだろうが。我は顔も定かに覚えておらぬわ。いくら美しゅうても、顔も知らぬ女と過ごすなど落ち着かぬ。」
「王!」洪は回りを伺った。「そのようなこと、申されてはいけませぬ!早く跡継ぎの皇子をお生みにならねば、臣下は落ち着きませぬゆえに。」
張維は立ち上がった。
「もう良い、休む。下がれ!」
「王!どちらへ…」
「我の部屋だ!」
「王!せめて…」
張維は戸を閉めた。息が詰まるわ。
しばらくのち、張維はまたぶらぶらと人里を歩いた。心女のことを思いだし、家に行ってみると、もぬけの殻だ。
どこかへ出掛けているのかと、村の方へ行くと、何やら不穏な気を感じた。張維は、回りの村人の話を聴覚を鋭くして離れた場所から聞いた。
「あの女は、やっと今日殺すらしい。」
「化け物だったなんてねえ、怖い怖い。」
「大の男を何人も一人で殺すなんてね…」
「でも、なんで逃げ出さないんだい?」
「それは新しい巫女の力だろうよ…」
何やら、嫌な予感がした。化け物とはなんだ。新しい巫女とは?
張維は人に見えない姿で、牢へと赴いた。
牢の中には誰も居らず、探してみると、引き出されて神殿へ連れて行かれたらしい。張維は飛び上がって神殿と呼ばれる場所へ降り立った。
中は他の人の住まいよりしっかり出来ている。奥に行くと、そこには縄で縛られ痛め付けられた心女と、白い着物を着た女、それに回りにはたくさんの人が取り囲んでいた。
張維が近付いて行くと、心女は腫れた顔を上げた。
「張維様!」
張維は感心した。
「ほう、主、今の我が見えるのか。真に巫女であったのだな。」そして、目の前の女を見て「こちらは偽者であるな。我が見えておらん。」
回りの人は、心女が何かを見ているのでキョロキョロとしている。
「惑わされるな!化け物の虚言よ。」
白い着物の女は、言い放った。張維はムッとした。偉そうな女よ。
「…ふん、我も見えなんだ主などが、虚言などと言うとは片腹痛いわ。」
張維はわざと姿を現した。その場に居たもの全てが慌てふためき、腰を抜かしているものもいる。
女は、ガタガタ震えながら、何やら唱えている。張維は笑った。
「なんの神に仕えておる?ここにはとうに神などおらぬわ。我が討ってしもうたのでな。」
張維は祭壇を、手を上げてバラバラに崩した。
人々は逃げ惑い、転がるように走り出して行く。
「ふん、逃げられはせぬわ。」
張維が手を上げようとすると、縛られたままの心女が叫んだ。
「張維様!お待ちくださいませ、これ以上は、お許しくださいませ!」
張維は驚いて振り返った。
「何を申す心女よ。主はこのような目に合わされたのではないか。」
「私は、もうよろしゅうございます。どうかお怒りを静めてくださいませ。」
張維は手を下げた。心女の縄を切ってやり、手を差し出した。
「心女よ、ここに居ってはならぬ。我と来い。」
なぜ、そう言ったのかわからなかった。ただ、もう放っておけないと思った。
心女はためらっていたが、張維の手を取った。
張維は心女を抱き上げ、空へ舞い上がった。
張維は、龍の宮の北、山の中腹にある、昔神が住んだ社へ心女を連れて来た。そこは山深く人はめったに立ち入らず、また、神も気にとめない静かな場所だった。
「ここで暮らすがよい。必要なものは皆届けよう。ここなら、主も誰にも痛め付けられず過ごせるであろう。」
心女は、ためらった。神の社は古いとはいえ人には広すぎるのかもしれない。張維は何か食すものをと思い、宮へ戻ろうとした。
「張維様…。」
心女は目に涙をためて、張維の袖を掴む。その目に、張維は不安と孤独を感じ取った。
「心女…わかった。我はここに居よう。」
張維は、心女を抱き寄せた。
それから毎日のように、暇を見付けては、張維はそこへ通った。そこに居る間は、張維もうるさい臣下やいろいろな責務を忘れてくつろぐ事が出来た。痩せていた心女も健康そうになり、顔色も良くなり、笑うことも多くなった。
張維は生まれて初めて、安らぎや幸せというものを感じる事が出来た。
ある日、心女は恥ずかしそうに言った。
「張維様…私、子が出来ましたようです。」
張維は愕然として、手にしていた茶碗を落とした。そうだ、その可能性があったのに。我はなんと迂闊であったのか!
「ダメだ、その子は生めぬ!心女よ、諦めるのだ。」
心女は驚いて首を振った。
「何を申されます!私の子です。必ず生みます。ご迷惑はおかけ致しません。」
張維は取り乱していた。
「違うのだ、心女よ。人に神の子は生めぬ。その子は主の気を食らい尽くして生まれるのだぞ!主は子の誕生と共に死ぬ!」
心女はショックを受けたようだった。しばらく黙ったのち、静かに言った。
「張維様、私は人です。放って置いても、神から見れば一瞬で死する身。ですが私の生きた証のこの子は、我より遥かに長生きして行ってくれます。人が生むというのに!母として、これほど幸せなことはあるでしょうか。」
張維は首を振った。
「ダメだ!今ならまだ間に合う、我にその子を消させてくれ。」
何も考えられなかった。心女が居なくなるなど考えたくもなかった。初めて自ら選んだ、妃であるというのに。
心女は首を横に振った。
「私達の子を消すなどと言わないで。この子を消すなら、私も共に死にます。」
張維は顔を上げた。心女…。
「…我を、置いて逝くのか、心女よ。」
心女は張維を抱き締めた。張維はそのままずっと、心女の側から離れなかった。
洪が、臣下を引き連れて、北の社へやって来た。張維があまりに宮へ帰って来ないためだ。
「王よ、我々臣下一同、うち揃ってお願いに参りました。どうか宮にお戻りになり、つつがなくお務めを果たされまするよう。」
張維は洪を睨みつけた。
「務めとはなんだ。」
洪は頭を上げた。
「王のお務めは、我らの統率と、お世継ぎを残される事でございまする!こちらにおるのは人の妃であると聞いておりまする。そのような子も生めぬ者のところに毎日入り浸ってお戻りにならぬとは、宮の妃の方々にも示しがつきませぬゆえに!」
張維は心の底から怒りが湧き上がって来るのを感じた。臣下達は色めきだった。張維の体から、闘気が湧き上がって見えていたからだ。張維が闘気を出すのは、決まって戦の時のみだった。このような時に、これほど怒りをみせるのは、初めてのことであった。
さすがの洪も、驚いて後ろへ下がった。
「お、王…我は…。」
張維は立ち上がった。洪はヒッ!と声を上げて仰け反った。
「我のすることに有無は言わせぬ!より強き跡継ぎは、直に生まれようほどに。心女よ、ここへ!」
「…お呼びでございましょうか。」
臣下の前に現れた心女の腹は、大きくせり出していた。洪は驚きのあまり、口をぱくぱくさせている。人の女に、子を!
「これで文句はあるまい!主らの望んだ、最も強い跡継ぎの皇子よ!これが生まれるまで、我はここにおる!」
一同は頭を下げて平伏した。何も文句は言えないだろう。この子は、腹におる今ですら、強い気を発している。おそらく最強の龍であるはずだ。
臣下は、それから生まれるその日まで、誰一人として北の社へ訪ねては来なかった。
ついに、その日はやって来た。
夜半より、心女は産気づき、宮から侍女達が大挙してやって来て、臣下は次の間で待機し、張維の初めての、しかも世継ぎの皇子誕生とあって、皆緊張でそわそわと落ち着かなかった。
本来なら産所へ入ってはならぬと言われている男である張維は、ずっと心女に付き添った。誰も張維には逆らわなかった。今から生まれる皇子を、わかっていながら人の女に生ませる、非情な王だと思われているからだ。張維はそれでもよかった。最後まで、心女のそばに居てやりたかったのだ。
「あと半刻でございます!」
侍女が皆に告げた。いよいよ痛みは強く、その感覚も近くなり、心女は汗をかきながら、必死で痛みと戦っていた。
「心女…!」
心女は張維を見て、それでもにっこりと笑った。
「ああ…あとしばらくでございます、張維様。」
張維は心女の手を握り締めた。心女もその手を握り返し、また子を出そうと力を入れる。
いっそ、子が死んで生まれれば…張維はそう願う自分を恥じた。心女は命を掛けて生もうとしているのに。我は、心女のことばかり考えている。
心女の手にまた力が入った。侍女がまた叫ぶ。
「お生まれになります!」
何かが、心女の体から取り上げられたと思った瞬間、子は勢い良く泣き出した。心女は、薄れて行く意識の中、その子を見た。
「おお…吾子よ…。母は…そなたに、この命、託します…。」
心女の生気がみるみる内に無くなって行く。張維は叫んだ。
「心女!心女よ…我も、すぐに行くゆえに!待っておれ!」
心女は微笑んだ。
「張維様…私は、幸せ、でござい…ます…。」
心女の生気は尽きた。
張維は、綺麗に産湯で洗われ、白い布でくるまれた、その強大な気を放つ子を抱き、臣下の前に立った。
一同は、王の姿に額を床に付けて頭を下げていた。
「世継ぎの子、名を、維心とする!」
「ははー!!」
皆がひれ伏した。
それからの毎日は、張維にとって、まるで膜の外で起こっていることのような気がした。
何をしても、強い感情も沸き起こらず、心女のところへ行きたくても、戦であろうと内戦であろうと、張維に勝つ者など誰もおらず、ただ淡々と生き長らえているだけであった。
あるとき、ふと、息子を見た。他の龍など歯牙にも掛けないあの強い気。計り知れない闘気。あれは、間違いなく最強の龍だ。
我を倒せるのは、あれしか居ない。
張維は、わざと息子に、その誕生のことを知らせた。臣下に面白おかしく話す所を、維心に聞かせたのだ。あれはまだ幼い。しかし、我の血を分けた子なのだ。成長した後、必ず我を狙って来る。
維心は、思ったより早く成長した。人の血のせいか、何にも増して成長が早い。まだあどけない小龍でしかないと思っていた維心は、気が付けば、大きな闘気をまとう青龍に成長していた。
ある日、目の前で龍身を取った維心を目の当たりにした時、張維は思った。ああ、やっと心女に会える。
息子の牙は易々と張維の喉元を噛み切った。そのようなことが出来る龍は、鳥でも、居なかった。
維心が、誇らしかった。心女と、我の、ただ一人の子…。
父を許せ、維心よ。
我は主に、その強大な力と、大きな責と、そして孤独を残して去る。
父は、主の母に、ただ会いたかったのよ。
主は我の鐵を踏まぬよう、ただ、少しでも、幸福であれ…。
目を開けた時、隣りで維月が泣いていた。
十六夜は押し黙っている。維心は、自分の頬を流れるものを感じ、それが涙であることに気付いた。
何かを求めて視線を向けると、維月がこちらを向いて、維心をその胸に抱き締めた。
維心は一瞬戸惑ったが、すぐにそれを求めていたことを知り、維月を抱き締め、そのまま泣いた。
十六夜さえ、それを咎めることはなかった…。




