思惑は
ここからは描き下ろしになるので、この先は維心側から見たことが多くなります。維月達のいろいろは、正規ルートを読んで下さっているかた達には同じような印象になるかと思うので…。ただ、蒼が月になるところまでは、同じ所が多いです。なので、一気に行きます。
維心は、その書状を手に考え込んでいた。自分が説明したのだが、十六夜と維月は、正式に神の世に、結婚したと告示するために式を挙げるという。
それが、維心にはなぜかつらくのしかかった。維月のことは、命の調整で心を繋いで 全て知っていた。あのような女は居らず、維心の生涯で、これほどに気にかけた女は他に居なかった。日に日に、維月を思う気持ちは募り始めていた…それが、絶対に叶わないことは、維心には分かっていた。世に並ぶ者のない龍王の維心が、ただ一つ抗えないものが、月だった。その、月の妃に、維月は正式になってしまう…。もう、手の届かない所へ…。
維心は、月を見上げた。今まで、何も欲して来なかった。何でも手にできる立場にあったにも関わらず、何も望まなかった。なのに、初めて欲した者が、絶対に手に入らないものであるとは…。
維心は、その想いを胸に秘め、神の王の会合を理由に出席を断った。せめてもの、抵抗…月は、己の友であったが、恋敵でもあったからだ。月は、そんな自分の気持ちなど、知りもしないが…。
しかし、維心は、自分から着物を選び、維月の式の衣裳を贈った。
「維心が、断って来たって?」
十六夜が、維月に言った。維月は、その美しい文字の書状を見て言った。
「ええ。神の王の会合が、ちょうどその頃に重なるのだそうよ。」
十六夜は、その書状を見た。
「ふうん…じゃあ、別に違う日でもいいけどな。あいつぐらいしか、神に知り合いなんか居ないじゃないか。」
維月は、しかしその維心の手書きの文字に、何か別の気持ちを感じ取っていた。なぜかは分からないが、維心様は、きっと私達の結婚式に来たくないと思っていらっしゃる…。
維月は、首を振った。
「いいえ。いいじゃない、内々だけで。とにかく、そんな式をしたということが周知されたらいい訳だから。」
十六夜は、特に気にする風でもなく言った。
「お前がそう言うなら、オレは別に何でもいいよ。」
十六夜は、そう言うと蒼を探して部屋を出て行った。維月は、その書状を見つめた。なんだろう、ものすごく気になる。維心様の、思い詰めたような気持ちが伝わって来る…どうしたんだろう。
維月は、その書状を胸に、ただじっと考え込んでいた。
式の日は、朝から雪がちらちらと降る日だった。
維月は維心から贈られた美しい着物に身を包んで、十六夜と並んで式を済ませた。その着物にまで、何か物悲しい気持ちを感じて、維月は落ち着かなかった。内々なので、裕馬と村の人達に囲まれた宴席から離れると、維月は、一人維心に向けて書状を贈った。
維心は、その書状を手にして、月の宮の方の空を見上げた。維月…何か感じるのか。なぜにこのようなことを訊ねて来るのだ。
書状には、こう書いてあった。
『本日、維心様よりお勧め頂きました通り、無事に式を済ませました。戴きました着物で装わせて頂きました。維心様には、何か物思いがおありでしょうか?私ではお力になれぬかもしれませんが、お話をお聞きすることはできましょう。宮で考え込まれることがお辛くなられたら、是非お気軽にこちらへもお越しくださいませ。十六夜も、お待ちしておりますわ。』
「主に会いたいが、その方が辛くなるやもしれぬの…。」
維心は、そうつぶやくと、じっと維月の字を見つめた。維月の優しい気がその文字からする。維心はただ、その気を感じて、癒されながらも、苦しい気持ちを抑えてたった一人居間に佇んでいた。
そして、四年の歳月は流れ、蒼は社会人になっていた。一番上の有も、大学病院で医者としての修業を積んでいる。涼は同じ大学の医学部で、まだあと三年間学ばなければならない。恒と遙は、共に同じ大学の家政学部と薬学部に進学していた。
蒼も兄弟姉妹達も、神達の婿とり合戦からも逃れ、今は平穏だった。人としての生活は滞りなく進み、今は皆、里から通学や通勤していた。
曾々祖母の美月が残した財産と、曾祖母の佐月の残した財産、それに祖母の美咲が残した財産は、それぞれに蒼が管理運用し、皆の生活に乱れはなかった。
瑤姫は、この四年の間、毎日維月にベッタリとくっついて人としての生活を学び、それをまた嫌がらずに楽しんでいた。姫として育ち、自分のことでも自分でしたことのなかった瑤姫が、料理を学び、食したこともないのに物を食べることを覚え、一生懸命であった。その甲斐あって、今ではその類い稀なる美しさのほかは、人の娘とさほど変わらぬ生活が出来るようになっていた。夜には迎えの者が龍の宮から来て、瑤姫は帰って行くのだが、次の日の早朝からまた訪れる毎日だった。
蒼がパソコンの画面を睨んでいると、瑤姫が部屋へ入って来た。
「蒼様、お食事の準備が整いました。」
蒼は振り返った。
「ありがとう。すぐ行くよ。」
蒼はそう言ったものの、また目はパソコン画面を見ている。瑤姫はそばへ寄って来た。
「蒼様?何か問題が起こったのでこざいますか?」
蒼は画面を見たまま答えた。
「うん〜ここの里を活性化させようと、オレが考えたカリンの飴のこと知ってるだろ?」
「はい。この里ではカリンをたくさん生産しているからと、産業を考えられた時にお作りなったものでございますね。」
瑤姫はわからないながらも、並んで画面を見ている。
「あれは出荷出来なかった形の悪いものや、屑として捨てられるような小さなものを使って作っているし、皆手作業だから、そんなに量は作れないんだ。でも、村人に少しでも給金を多く払おうと思って、値段は高めに設定している。つまり、普通の人なら買おうか迷うぐらいの値段だね。」
瑤姫は頷いた。
「はい。」
「さすがに全く売れないのも困るから、オレが十六夜から引き出した光の力を、密かにカリン達に分けて浄化してからあれを作ってもらってたんだけど、あれを食べるとスッキリするとか、イライラが無くなるとか、鬱々した気分が良くなるとか、そんな噂が広まって…ただののど飴のつもりだったのに、すごい数の注文が来てるんだ。数は限定してるし、もちろん宣伝文句に気分スッキリなんて書いてないし、あまり話題になるのも困るんだけどね。近くの道の駅で、細々と売るだけのつもりだったのになあ。あまり村人も過度に働かせるは嫌だし。」
蒼はため息をついた。
「人は良い力には敏感でございますわね。お兄様もおっしゃっていました。宮で祈祷を受けいている人を見て、本当に困っているような者を見た時は、お兄様が自ら力を分けてやるのだそうです。でも、その後しばらくは、祈祷を受ける者が増えて、滝の回りは人で埋まって身動き出来ないほどになっているのだそうですわ。見えないのに、良くわかるものよと感心しておられました。」
蒼は頷いた。
「しばらくカリンに光の力は入れないで置いたほうがいいのかもしれないな。」
蒼はそう言って立ち上がった。
「さあ瑤姫、食事にしようか。」
「はい、蒼様。」
瑤姫がそう答えて蒼のあとに付き従おうとすると、蒼はふらふらとして壁に手をついた。瑤姫は慌てて蒼を支える。
「蒼様?!」
心配げにのぞきこむ瑤姫に、蒼は笑いかけた。
「最近よくあるんだ。急に立ち上がったのが良くなかったんだよ、きっと。」
「お疲れなのですわ。少し休まれた方が…。」
蒼は無理に元気な顔をした。
「大丈夫だよ。さあ、それよりせっかくの料理が冷めてしまう。」
二人は居間の方へ歩いて行った。
居間では、もう十六夜がいた。母はまだ食べているので、そこには座っているが、十六夜は食べ終わったらしく箸を置いている。
「蒼、遅せぇぞ。オレはもう終わっちまった。」
十六夜の食べるのは本当に早い。瑤姫が食事をするようになって、彼女も早いのかと思いきや、おっとりとゆっくり食べているので、単に十六夜がせっかちなだけのようだ。
「十六夜が早いんだよ。もっとゆっくり楽しめばいいのに。」
蒼は自分も瑤姫と並んで食卓についた。
「別にオレはどっちでもいいんだし、いいじゃないか。お前らは二人でゆっくり食べな。」
維月が食べ終わって、食器を片付けて持って行こうとしている。十六夜は慌てて維月の後をついて行く。
「オレが運ぶから、お前は座ってろ。」
維月はなんだか具合が悪そうだ。蒼は食べながら問うた。
「母さん、どうしたの?どっか悪い?」
維月は無理に微笑した。
「ちょっと最近吐き気がするのよ。私ももう食事はしなくていいのかもしれないわね。でも、あまりしんどそうにすると、十六夜の心配の仕方が半端ないので。」
蒼には想像できた。何しろ十六夜は母さん命な感じで、それは結婚して四年経っても一向に変わらなかった。
「維心様に診てもらった?」
維月は首を振った。
「あまりお手間をお掛けしたくないし。」
「維心に診てもらったほうがいい」十六夜が戻って来ていて、言った。「何かあったらどうするんだ。連れていってやる。来い、維月。」
十六夜は維月の手を取った。
「ちょっと待ってよ、このカッコで今?」
「なんでも早い方がいいんだ。行くぞ!」
十六夜は今度は維月の腰を抱いて、そのまま戸口から飛び上がった。蒼は慌てて上を見上げる。
「ちょっと十六夜!乱暴にしちゃダメだよ!ゆっくり行かなきゃ!」
上空から十六夜が言った。
「わかってらぁ。留守を頼んだぞ!」
見る間に姿が見えなくなった。
「…お兄様、今日は神の会合に出ていらっしゃるはずなのですが。戻っているかしら…。」
瑤姫が呟く。
「ええ?!」
蒼は呆然と見送っていた。
「主はほんにもう」維心は呆れたように十六夜を出迎えた。「なんぞ用がある時は先触れを送れと申しているであろうが。我もいつなり時間が空いておる訳ではないぞ。」
維心は正装をしていた。どうもどこかへ出掛けて帰って来たばかりのようだ。
「すまんな。急に思い立ったもんでよ。」と維月を前に出した。「体調が良くないようだから、診て欲しい。」
維心は中へ促した。
「奥へ来い。」そしてため息をついた。「主の気配が近付いて来るゆえに、こちらも慌てて飛んだのでほんに疲れたわ。」
維月がふらふらとして座り込んだ。十六夜は維月を抱き上げた。
「大丈夫か?急ぎ過ぎたかもしれねぇな。」
「…大丈夫、ちょっと貧血気味なだけだから。」
維心は居間へ入って刀を召使いに渡し、維月に近付いて額に触った。十六夜は心配そうに見ている。
「また、ズレているのか?」
維心は眉を寄せて居たが、急にびっくりしたように十六夜を見た。
「…主…月であるよな。」
十六夜は訝しげに維心を見た。
「他の何なんだよ。」
維心は維月から手を離した。
「ズレてはおらぬ。我はこれで大丈夫とこの前申したであろうが。」
「だったらなんなんだ。まさか人の体が変になったとかって訳じゃあないだろうな。」
維心はフフンと笑った。
「変になった?そうよの、変調をきたしておるの。」
十六夜はイライラと言った。
「だから、その原因はなんなんだ。治るのか?」
維心は奥のソファのような椅子に腰掛けた。
「おお治るであろうよ。しかし、時期は我にも分からぬわ。」
「時期だって?」十六夜は維月を見た。「いったい維月はどうなってるんだ?」
維心は、頬杖をついて言った。
「それは主の責よ。せいぜい世話をするのだな。」と、ため息をついた。「主の子が、腹におるのだ。」
十六夜は絶句した。反対に維月は、合点がいったという顔をした。
「ああなんかこの感じ覚えがあると思ったら、つわりなのね。」
維心は頷いた。
「月に子が出来るなど聞いたこともない。ゆえに我には、いつ生まれ出るかも、それがどういう形でいるのかも、全く分からぬのだ。しかし、間違いなく月の波動を持った命がもう一つある。感覚は…そうよの、その子が意識を持っておるのかもわからぬな。つまりは純粋な命だけだと言う可能性もあるのだ。」
維月は首を傾げた。
「純粋な命だけって?」
「つまり、個の意識がないのよ。目覚めることの無い、ただの命ということだ。器があって、初めてそれは意識を持つゆえな。元々十六夜もそう言ったものの一つであったのかも知れぬ。ある日、月を器に目覚め、それゆえに個の意識を持った可能性もあるな。」
十六夜はただ黙っている。維月は十六夜に呼びかけた。
「十六夜?大丈夫?」
十六夜はハッとして維月を見た。
「ああ…驚いただけだ。オレにはそんなこと、有り得ないと思っていたからな。」
維心はニッと笑った。
「今更責任逃れは出来ぬぞ。その波動は主達と同じものだ。他のものなど混じってはおらん。間違いなく主の子よ。」
「そんなこと疑っちゃいねぇ。ただ、びっくりしただけだ。」十六夜はなんだかフラフラとしている。「邪魔したな。戻るよ。」
維心は心配げに言った。
「おい、本当に大丈夫なのか?送らせるぞ。」
「大丈夫だ。じゃあな。急に来てすまなかった。」
十六夜は維月を抱いて飛び上がった。
維心は、ただ物悲しげにそれを見送っていた。
蒼は瑤姫と共に、自分たちが結婚した後に住むことになる家を見ていた。母たちの家の裏手、神社の横辺りに、昔の作りで幾つかの平屋の対を繋げて屋敷の形に建てているのだが、完成の近付いているのだ。
大きめに作ったのは、どうしてもついて行くと聞かないらしい龍の侍女達何人かの部屋も用意しなければならず、それ用の対も作ったからであった。
蒼は、十六夜の気配が近付くのを感じて空を見上げた。母を抱いて帰って来る。
蒼が慌てて建設途中の家を出て、母たちの家の方へ歩いて行くと、十六夜は地に降り立った。
「十六夜!早かったね、維心様には会えた?」
維月が言った。
「会えたわよ。ちょうど帰ってらしたところだったの。」
「で?体調不良は何が原因だったんだよ?」
蒼は十六夜に言った。十六夜はしばらく黙っていたが、意を決したかのように言った。
「…子供が、出来たからだ。」
蒼は絶句した。子供?そして頷く十六夜を見て、その言葉がじわじわと頭に浸透して来るのがわかった。
「ええ?!月の子供?!」と叫んでから、考えた。「…って、いったいどんな感じなんだろう?」
維月は蒼の表情を見て苦笑した。
「そうね、維心様にもわからないと言ってらしたわ。だから生まれても、普通の子供って感じでなく、ただの命だけって可能性があると言ってたの。十六夜が月を器にしたように、何かを器にしないと、個の意識がないのだと言っていたわね。」
蒼は考え込んだ。
「それって生まれたら子育てどうするの?」
維月は苦笑した。
「その時考えたらいいわ。大丈夫よ、あなたが育てるんじゃないから。」
維月は十六夜から離れて家の方へ歩いて行く。十六夜が慌てて言った。
「維月!大丈夫なのか?」
維月は振り返った。
「つわりなんだったら病気じゃないし平気よ。だてに五人生んでないもの私。晩ご飯作らなきゃ。」
瑤姫が走って維月を追い掛けた。
「お母様、私がご用意致しますわ。」
声が遠ざかって行く。蒼はその後ろ姿を見ながら、なんだか複雑だった。オレの兄弟か…。人じゃないけど。
母のお腹は、次の日、急に大きくなった。
いったい何がどんな形で命になっているのか、それがわからないだけに、いつ生まれるのか全くわからないので、お腹が大きくなった時点で、里より外へ出ることを、十六夜にも維心にも止められ、仕方なく家で大人しくしている。
維心は、あれほどに里へ来なかったのに、維月が出産するかも知れないと知ると、里へ毎日のように瑤姫と共に軍神達を連れてやって来た。
蒼のことは、はっきり言ってほったらかしの状態だったが、瑤姫が甲斐甲斐しく世話をしてくれるので、それでも蒼は何も不自由していなかった。
「蒼様、少しご休憩なさいませぬか?お茶を入れましてございます。」
瑤姫が、蒼に声を掛けて来た。蒼はなんだかホッとしてそちらへ歩いた。
「ありがとう瑤姫。」
瑤姫はテーブルの上に茶と茶菓子を並べた。
「お母様のご出産の兆は、まだないようでありまするね。お兄様は、どうしたことか大変に気に掛かっておられるようで、宮でもピリピリしていらして…臣下達が、まるで腫れ物に触れるように接しておるのが気の毒でありますわ。」
蒼は苦笑した。きっと、維心様はご自分がお生まれになる時に、母上を失っておられるから、出産が恐ろしいものだと思っていらっしゃるのだろうな。
「維心様には、いつも助けて頂いて。オレ達は甘えてばかりだ。なので、きっと放って置くことがお出来にならないんだろうな。」
瑤姫は、首を傾げた。
「…いえ…解せぬのですわ。お兄様が、他の神や人に、あれほど構われるのは初めてのことでありまするの。なので、月はお兄様にとって、きっと大切な友人であるのだろうなと…。」
瑤姫は考え深げに言う。蒼は答えようと口を開いて、めまいが襲って来るのを感じた。
「十六夜が友人って…大変…。」
そこまで言い掛けて、蒼は自分の身にただならぬ変化を感じた。胸が締め付けられるようで、息が苦しい。ダメだ、力が…。
「瑤…姫、十六夜…に…。」
蒼はその場に倒れた。瑤姫は慌てて叫んだ。
「蒼様?!蒼様!ああお兄様に!月に早く!」
瑤姫は蒼を抱き抱えて名を呼び続けた。蒼の意識はそこでなくなった。
「……。」
維月はかがみこんだ。なんだろう、生まれるような気がする。でも、他の子達とは違う、気が遠くなるような感覚。
「維月?具合が悪いのか?」
十六夜が慌てて駆け寄って来る。維月は頷いた。
「なんだか生まれる気がする…。でも他の子達とは違うの。気が遠くなるような…。」
十六夜は維月を抱き上げて部屋のベッドへ急いだ。どうしたらいい?
「維心!維月が生まれると言ってるぞ!」
維心は飛んで来た。維月は真っ青な顔をして、息を荒くしている。その額に触れ、何かを探っているようだったが、維心は首を振った。
「…わからぬ。維月の意識がどんどん失われて、気が減って行く。何事が起こっているのかわからぬのよ。」
その時、龍が駆け込んで来た。
「王!こちらですか?」
「なんだ。」
維心は維月から目を離さず、めんどくさそうに言った。その龍は慌てている。
「ただ今蒼様がお倒れになった由!瑤姫様よりすぐに来てくださるようにとのこと。」
十六夜も振り返った。「蒼が?!」
「我は今ここを離れる訳にはいかぬ。維月が今命の力を急速に失っているのだ。もしかしたら、腹の子が維月の気を食うておるのかもしれぬのだ。ならば気を補充せねば、いくら月でも命を落とす!」
維心は珍しく取り乱していた。自らの誕生の時を見ている錯覚にとらわれているのだ。
「…オレが行く。」
十六夜が言った。維心はびっくりして十六夜を見た。こんな時に維月の側を離れるというのに、驚いたのだ。
「主が?」
「オレは蒼を守らなきゃならねぇ。」と維月を見た。「維月より蒼を優先すると、維月に約束した。蒼の気が感じられねぇ。アイツはなぜだか死にかけている。」
十六夜は戸口へ向かった。
「維月を頼む!死なせるんじゃねぇぞ、維心!」
十六夜は一気に飛んだ。維心は維月を見た。
「…維月、死んではならぬ。我が死なせはせぬ!」
「蒼!」
十六夜は部屋へ飛び込んだ。奥に寝かされている蒼は、龍達が囲んで気を必死で補充しているものの、顔色を失い、意識もなく、既に死んでいるかのようだった。
「十六夜様!」瑤姫が叫んだ。「ああ十六夜様、先程急に倒れられたのでございます。人の体の心の臓は止まり、呼吸もなくなり、我が一族の者が今、気の補充をして、やっとお命をつなぎ止めておりまする。しかし、補充を止めれば、もはや息はございませぬ!」
十六夜はとにかく、自分の力で蒼の体を満たして保護した。何が起こったのかわからない。人の体をよく知る有が、先日定期健診とやらをしたではないか。なんの問題もなかったのに、何が起こっている!
瑤姫は涙を流しながら蒼の手を握りしめて言った。
「ああ、この間めまいがするとおっしゃっていらしたものを。あの時なぜに我は人の医者に診てもらうよういわなんだのか!」
十六夜も月の気を補充しながら言った。
「人の体はおそらくなんの異常もねぇ。とにかく、維心が維月の子を無事に取り上げるまで、蒼をもたすしかねぇ!」
瑤姫は顔を上げた。
「お母様が子を生まれまするのか!それでお兄様は…。」
「あっちも死にかけてるんだよ。」十六夜は呟いた。「いったいどうなってやがる!蒼、しっかりしやがれ!」
蒼は、暗闇を歩いていた。よく見ると、薄ぼんやりと辺りが光っているようだ。だが、足を止めてはいけない気がして、ひたすら歩いていた。
しばらく行くと、前に光輝く入り口のようなものが見えた。蒼は、自分がそれを求めて歩いていたことに気付いた。
向こう側は光輝き、とても明るく幸福な感じがした。よく見ると、そこには何人かの人が笑いながら話しているのが見える。蒼がそこへ行って話を聞こうと戸に手をかけると、誰かが気付いてこちらへ歩いて来た。その顔は、どこか懐かしく、維月に似ている気がした。
『まあ』その女性は言った。『蒼ではないの。あなた、どうしてここに?』
蒼は驚いた。オレを知っているのか?
「なぜオレを知ってるんですか?」
女性は微笑んだ。
『ずっと昔から知っていてよ。でも、あなたにはまだまだ会えないものだと思っていたのに。』
蒼はいぶかしんだ。初めて会う人なのに…。
ふと、その女性は上を見た。
『あら、月が…あなたを呼んでいるわ。聞こえない?』
蒼は見上げた。ここには月も出ていない。でも、確かに十六夜の声が聞こえた気がした。
蒼は急に寒さを感じ、その入り口の中に入ろうと足を上げた。
すると、何かが自分を引き戻した。何もないのに、見えない何かが全身に絡みつき、蒼が前へ進むのを阻んで来る。蒼は助けを求めるように、女性を見た。
『ああ、やっぱり。』その女性は微笑んだ。『あなたはまだこちらへ来てはいけないのね。』
「どういうことですか?」
蒼はすがるように聞いた。寒さは一段と厳しくなる。
『…主には使命があるのよ。』
蒼は見上げた。そこには、維心に似た武将が浮いていた。声や、仕草までもが似ている。とっさに、これは龍だと思った。話していた女性が頭を下げている。
『張維様。』
張維と呼ばれたその龍は、軽く返礼をし、蒼の横へ降り立った。
『蒼、主には選ばせてやろうぞ。主の人の体は今、死のうとしている。なぜなら、主の使命のため、長の命を持たねばならなくなり、その身は人としてでなく人外として生き直す必要があるためじゃ。』
蒼は混乱した。人外だって?
「オレは…人でなくなるのですか?」
張維は頷いた。
『そうだ。主の体には新たな命が宿り、主は人ではなくなる。しかし、主が望むなら、このままあちらへ逝ってもよい。新たな命はその必要に答え、意識を形作り、別の個として主の体で生きるであろう。本来ならば選べぬが、我は主を気に入っておるのでな。どちらなりと選ぶが良い。』
蒼はその意味を考えた。これから先、恐らく人の命では耐えられないような事が起こるのだろう。それゆえに、自分は今、人ではない命を与えられようとしている。しかし、今向こう側へ逝く事を選べば、その責務から解放され、自分は人としての一生を終える事が出来る。向こう側の世界は、思ったほど暗いものではなく、とても明るく過ごしやすそうな、心の安らぐ風景だ。このまま死ぬ…そして生まれながらに人外であった命が、少しずつ目覚めて蒼の責務を負って、あの体で生きて行く。それは、蒼から見て、至極当たり前のことのように思えた。
蒼は、その入口に手を掛けた。
《蒼、しっかりしやがれ!》
十六夜の念が頭に響いた。
「十六夜…。」
張維はフッと笑った。
『おお月か。月は不死なゆえな。もう話すこともあるまいて。』
蒼は念の出どころを探した。
「十六夜!オレ、行くよ!」
答えはない。張維は首を振った。
『こちらから念は届かぬ。主はもう、死のうとしているのだ。気は向こうに残ってはおらぬ。他の龍達や月が己れの気を分け与え、辛うじてつなぎとめておるだけよ。主が逝くと決めたのなら、我がそれをここで断ち切れば済むことであるがな。』
「十六夜…。」
蒼は思った。自分が去ることで、いったい何人の人が苦しむのか。母さんをその苦しみの中に引き戻したのは自分だ。あの温かい場所に居た母さんは、皆が泣くのを聞いて、龍神ですら驚くスピードで戻って来た。迷いもせず、そこにどんな悲しみが待っているか、苦しみが待っているか、そんな自分のことは考えもせず、ただ、家族のために、人外になって戻って来た…。
蒼は、自分のことしか考えていなかったことを恥じた。オレに何か責務があるなら、自分で果たさなければならない。途中で放り出して他の命に押し付けるなんて、きっと許されることではない。
「張維様、オレは、戻ります。」
見守っていた張維は、満足げに頷いた。
『さもあろう。主は中途で何もかも放り出せるはずはないと思うておったわ。』
ふと気配を感じて振り返ると、遠く母がこちらへ歩いて来るのが見えた。しかしこちらには気付いていないようで、足取りもかなり重い。歩いては止まり、歩いては座り込み、また戻り、といった風で、とてもこちらへ到達出来そうにない。蒼はそれを見て、助けようとそちらへ行きかけた。張維が言う。
『あれはここまで来れぬ。維心が必死で止めておるゆえ、とても前へは進めぬわ。おそらく、そろそろ、消えるであろう。』
その言葉通り、光が大きく母を抱きかかえるよう包むと、母はその場から消えた。
『では、そろそろ時じゃ。主は行かねばならぬぞ。』
蒼は頷いた。そして、入口の向こうでこちらを見ている女性に話し掛けた。
「オレは帰ります。」
女性は頷いた。
『今度はいつ会えるかわからないわね。でも、私達は見ているから。』
笑ったその顔は、本当に母に似ている。もしかして…。
「あなたは…」
蒼がそう問いかけた時、張維が大きく気を発し、蒼は上へ放り上げられた。戻って行く。
『蒼よ、我の頼みを聞いてくれぬか。』
蒼は上に向かって飛び上がりながら、張維の声を聞いた。
『我の記憶、維心に渡してくれ。我はアヤツに、謝らねばならぬゆえの。』
「張維様、それは…」
大きな光が蒼を包み込んだ。
蒼は、そこで、気を失った。




