神の世
荘厳な山深く、人が踏み入ることすら憚られる神域の場所、人が盛大に祀る社の後ろの大きな滝の近くに、神の世最大の大きさと歴史を誇る神の宮、龍の宮はあった。
古く何千年も前に、初代龍王が荒ぶる龍達を治めて統治し、殺戮の歴史に幕を閉じたその時に建てられた、古く由緒あるものだった。もちろんのこと人には見えないが、それでも人はその山一帯を神域と崇めて、決して踏み入ろうとはしなかった。
今、そこに君臨しているのは、歴代最大の力を持つと言われる龍王だった。
逆らう者は女でも容赦無く切り捨てる、非情の王として名を馳せていたその王は、近隣の宮の王ですら逆らう事はなかった。それほどに、この王の力は絶対的で、抗う事など出来ないものだったのだ。
龍の宮の宮深く、その王は目の前で膝を付く軍神に言った。
「…では、闇はそやつに消されたと申すか?」
軍神は青い甲冑に身を包み、頭を下げたまま答えた。
「はい。月の浄化の力でもって殲滅されました。此度の月の当主は男で、人の身でありながらその身に月を降ろし、月の力を使う事が可能であるとか…。」
「うむ。」龍王は立ち上がって月を見上げた。「あの力は我らと種類を異にするもの。本気で来られては我でも太刀打ち出来ぬであろうの。」
軍神は驚いたように龍王を見た。
「王も?」
龍王は頷いた。
「そう、我でもだ。厄介なことよ。これまで月といえども所詮人の女が使う僅かな力しかなかったものを。もし月が敵対しようものならひとたまりもない。しかし解せぬのは、月が人を通して力を使う事よ。何故にそのように回りくどい事をする。」
相手の軍神は考え込むような顔をして王を見た。
「確かに…。」
じっと月を見ていた龍王は、その軍神を振り返った。
「義心、調査するぞ。我らの世に介入して来ると申すなら、我らも考えねばならぬ。」
その軍神は頭を下げた。
「は!」
龍王は月を睨んだ。やっと自分が押さえつけ、平穏に保っている神の世を、月に乱される訳には行かぬ。
蒼は、高校を卒業し、早19歳になっていた。
そして、今は生傷絶えない母や妹のため、少しでも役に立とうと、大学の看護学科に通っていた。しかしそこは増えて来たとはいえまだまだ女の園で、回りは女ばかり、さすがの蒼も毎日を緊張気味に過ごしていた。
何でも蒼について来る裕馬は、最初蒼の決断にブウブウ文句を言っていたのにも関わらず、結局同じようにその大学の看護学部を受け、一緒に通っていた。それで良かったのかと蒼は裕馬に聞いたが、裕馬は良かったと聞かなかった。
弟の恒と妹の遙は、同じく妹の涼と同じ、地域有数の進学校に合格し、春からそこへ通っていた。恒と遙はやっとのことで合格した感じだったが、涼は大変な努力家で、小さな頃から姉の有と並んでかなり頭は良かったが、まさか涼も有と同じように、国立の医大を目指しているとは思わなかった。ここに来てそれを知るに辺り、蒼は、自分の覚醒が遅かったことを恨んだ。もっと早かったら、きっと自分も何かの役に立とうと必死に勉強したのに。
しかし、本当に有や涼ほど勉強したのかどうかは疑問だった。あの二人は、知っている限り起きている間は勉強か、月の力での浄化の二つしかしていない。それほどに強い意思を持って人生を進んで行くなんて、自分には出来るんだろうか。
蒼は、覚醒して数年目の、己の役目のようなものに対する焦りのようなものを持っていた。
夏休みに入り、家族皆を連れて母の維月は曾祖母の美月が遺した里の大きな家に戻って来ていた。
闇と戦って以来、常より維月はもう、ここへ戻って来たいと言っていたのだが、蒼や子供達が皆まだ学生のこともあり、街中にあって学校に通いやすいいつもの家から出ることが出来ず、週末に少し戻るしか出来ていなかったので、夏休みはここで過ごすと決められていた。例によって裕馬も一緒に来ると聞かなかったので、蒼達家族と共に美月の家へと一緒に来ていた。何もない場所なので、裕馬には退屈であろうかと思ったが、そうでもないようだ。眼下に見える小さな村の、小さな商店にあちこち出掛けては、レトロな菓子やら昔の玩具やらを見つけ、それなりに楽しんでいるようだった。
今や当然のように蒼の力で人型で居ることが多くなった十六夜は、月明りの中、この屋敷の蒼の部屋としてあてがわれている座敷の窓辺にに座って言った。
「平和なもんじゃねぇか、ええ?」十六夜は蒼を見た。「お前が闇を消しちまってから、ここに何時も付き纏ってた不安な空気がなくなった。ま、霧のほうは仕方ねぇよ。あれは人が無尽蔵に作り出しちまうんだから。だが、あの大きなヤツが消えたから、まあ、一応は平穏じゃねぇか。」
蒼は苦笑した。
「あのさあ、あれってオレの力じゃないよ。十六夜がやったんじゃないか。結局、オレって月の力を媒介する存在なんじゃないの?これからも、何かあったらああやって十六夜がオレに降りて消せってことなんじゃないかなあ。」
十六夜はしばらく黙って月を見上げた。そして首を振った。
「いや、違う。お前にはお前のやらなきゃならないことがあるんだよ。なあ、蒼、何のためにお前はそんな力を持って生まれたんだと思う?闇を消す為だけだったら、もう終わったじゃねぇか。オレは、もっと別の何かがあるような気がしてならねぇ。だいたい、お前はオレから見たら一瞬のうちに一生を終えてしまうんだぞ?お前が居なくなったら、どうやって闇を消すと言うんだ。今までの月の力を継ぐ女達は、皆オレを身に降ろすほど体力はなかった。一番丈夫な維月ですらそうだ。だから、きっとお前には何かの使命があるんだよ。オレはそう思うがな。」
蒼は顔をしかめた。
「それって、オレが子供を作って、男を生まなきゃならないとか、そんなことじゃないよね?」
十六夜は、え、という顔をしたが、首を傾げた。
「そうか…その手があったな。それで、延々とお前の血を継いで行かせるって訳か。ふーん。」
蒼はその様子に思った。まるでサラブレッドとかの種付けみたいだ…オレ、結婚する前に死ぬかもしれないのに。だいたい、結婚なんて考えられない。彼女だっていないのに。
「嫌だよ!そういうのは。オレ、結婚しないかもしれないのにさ。こんな能力持ってて、それを結婚した相手が理解してくれるか分からないし、それに母さんを見ろよ。父さんに言わずに闇と戦ってたから、夜間の外出が多いせいで父さんが我慢し切れず出てったんじゃないか。」
十六夜はため息を付いた。
「維月はなあ…あいつが悪い。そもそもあいつも誰とも結婚しないと言ってたんだぞ。それが、突然子供を生まなきゃと言い出して…」十六夜は、蒼から視線を逸らした。「ま、そのおかげでこうやってお前達が居るんだ。あれはあれで意味があったんだとオレは思う。」
十六夜は、立ち上がった。月へ帰ろうと思っているんだろう。十六夜はこうして、何か言いたくないことや隠したいことがある時は、月へ帰って答えなくなる。だが、今の会話の中で、十六夜が言いたくないことなんてあっただろうか。蒼は首を傾げたが、十六夜の腕を掴んで止めた。
「待てよ、十六夜。ちょっと試したいことがあるんだよ。」
十六夜は、ためらいがちに振り返った。
「試したいこと?もうよしてくれ、お前のお遊びに付き合ってる暇はねぇんだよ。それに、もう飯だろうが。オレが居ても仕方がない。」
蒼は意味有りげに笑うと、首を振った。
「なあ、今度母さん達と旅行へ行くじゃないか。その時の予行演習しておこうと言ってたんだよ。だから、今日の晩御飯は十六夜の分もあるんだ。母さんが準備してくれた。今帰ったら、母さん物凄く怒ると思うけど。」
十六夜は戸惑ったような顔をした。なぜか十六夜は、維月が怒ることを嫌う。確かに蒼も母が怒ると物凄く恐ろしい目に合うが、十六夜は月に居るからそんなことは関係ないはずなのに。
「…何だってオレに飯なんか…。」
十六夜が言い掛けると、居間のほうから維月の声が聞こえた。
「ご飯よー!蒼、月!」
十六夜がその声に顔を上げた。蒼はニッと笑った。
「さ、行こう、十六夜。」
十六夜は仕方なく、青銀の髪をわさわさとかき回すように触りながら、襖を開けて居間の方へと向かった。蒼はそれについて行ったのだった。




